第111話 第八章「響路士の限界」前編

ザンバの旗が軋む。

「持ち主が今どうしたいかとは関係なくな」

「返してもらう!」

カナタが先星号の方角へ白旗を向ける。

「道を――」

「今、どこ」

ナギが止めた。

「マーレのところ!」

「第一歩号のどこ」

「船首!」

「体」

「ここ!」

「眠い」

「眠くない!」

ルゥが頬をつねる。

「痛っ!」

「痛い?」

「痛い!」

「今の体、分かった」

「物理で聞くな!」

不眠航の光は、眠気だけを消しているのではなかった。

疲れ。

痛み。

止まりたいという体の返事。

全部を、前へ進む燃料に変えていた。

「カナタ」

ナギは一つずつ呼ぶ。

「船首!」

「ルゥ」

「操舵!」

「ザンバ」

「船尾」

「ナギ」

「響路」

「第一歩号」

三人と一人が船腹を叩く。

こん。

 こん。

 こん。

 こん。

 こん。

「今、ここ」

一隻ぶんの返事。

ユメ号が隣から答える。

弱い五つ。

同じ場所ではない。

同じ速度でもない。

それでも、互いがいる距離だけは分かる。

「点が二つ」

ルゥが銀糸を見る。

「絶対の場所がなくても、相対位置なら固定できるかもしれない」

「もっと分かりやすく!」

「第一歩号からユメ号まで三歩。ユメ号から第一歩号まで三歩。それを保つ」

「夜海が動いても?」

「二隻が同じだけ動けば」

「船団全部なら?」

「船と船を、横も後ろも斜めもつなぐ」

ルゥは銀糸を指で広げる。

「一つの星へ引かれる列じゃない。互いを目印にする網」

「無灯泊」

リラが言った。

「暗舟は、星錨がない。船と船を縄でつないでる」

「それをノクティル全部へ?」

「今の灯索は前へ引く縄」

ナギが現標板へ線を描く。

「返事の網に変える」

「七千人!」

「一人で聞かない」

「四百隻!」

「一つずつ第一歩号へ集めない」

「じゃあ誰が聞く!」

「隣」

船と船。

区画と区画。

人と人。

自分の近くの返事を聞き、分からないところだけ次へ渡す。

「連標網みたいだな!」

「同じ」

「村から夜海までつながる!」

「その前に船団」

ナギの小鐘へ、マーレの声が入った。

『第一歩号、応答せよ』

金色の小さな光が船縁へ浮く。

灯主の姿。

顔色は白い。

左手の古い火傷から血が滲み、不眠航が術者の命まで燃やしている。

金旗を持つ肩はもう上がらず、旗竿を胸へ抱える形になっていた。白い光の縁も見分けられず、炭線の位置を指で探す。

「聞こえているから大丈夫」

マーレは自分へ言った。安全確認を声に出さなくなった限界のあとで、まだ全船の代表を続けようとしている。

「ユメ号、四十二人!」

ナギが先に答える。

『名簿どおりか』

「朝の四十二とは違う」

『人数は』

「今、四十二」

『なら接続しろ』

「トマは外周修理船。赤子が一人増えた」

『……』

「今の四十二」

マーレの光像がユメ号を見る。

灯を失った船。

それでも、朝とは違う四十二人がいる。

「暗舟も返事がある」

リラが光の前へ出る。

『アウラ到着後に探すと答えた』

「アウラは消えた」

『赤星へ着いてから』

「また次のあと?」

『今止まれば、ネブラに食われる』

「今進んでも、人工星を追って来てる!」

夜の向こう。

ネブラの巨大な口が白い星へ向く。

体内で、呑まれたアウラが青く燃えている。

『だから速度を上げる』

「人の旗が空になる!」とルゥ。

『生きて着けば、戻す方法を探す』

「本当に戻る?」

マーレは一瞬黙った。

「七年前も、着いてから兄さんを探すって言った」

『探した』

「いつ」

『三度、戻った』

リラの顔が止まる。

『ノイ号はなかった。暗舟の網も見つからなかった。五つの音だけが遠くで続いた』

「なんで教えなかったの」

『希望だけ渡せば、お前が止まると思った』

「止まって何が悪い!」

『夜海では、止まった者から失う!』

人工星が激しく脈打つ。

『私は止まった! 二刻待った! 三度戻った! そのたび船を失った!』

語彙が急に幼くなった。怒るほど昔の傷へ戻る人だった。

マーレの恐怖は、個人を軽く見る冷たさではない。止まって失った百三十六隻を一隻ずつ覚えているから、待つ選択を他人へ渡せなくなった。全体を守る責任へ本気であるほど、全体という言葉で個別の不在を処理してしまう。

「だから、もう誰も待たないの?」

『待てば、来ない者の数が増える』

「来ようとしてる人を、いないことにするの?」

『今いる者を守る!』

「今いるって、どこまで!」

リラが船腹を叩く。

五つ。

「ユメ号は、さっきまで船団にいた!」

『灯索から外れた』

「切ったら、今じゃなくなる?」

マーレは答えない。

カナタは白旗を見た。

今までの旗は、どこかを指していた。

行きたい場所。

帰る場所。

再会する場所。

続きを渡す先。

けれど、今いる場所を指す旗はない。

「マーレ」

カナタが呼ぶ。

「船団の人数、分かるか」

『七千二百四十一』

「今も?」

『出航名簿だ』

「今は?」

『点呼は途中だ』

「じゃあ、止まって数えよう」

『できない』

「できる方法を考える!」

『ネブラが来る!』

「だから止まる!」

マーレの目が見開かれた。

カナタ自身も、自分の言葉を聞く。

止まる。

世界の果てを目指してから、避け続けた言葉。

何もしないことと、どこかで同じだと思っていた。

「止まって、全員のここを作る」

「一刻しか保たない」とルゥ。

「一刻で考える!」

「また?」

「今度は、みんなで!」

ザンバが灰旗を人工星へ向ける。

「追星の一本道を分ければ、船は自分の速度へ戻る」

「散る」とルゥ。

「散る前に網へつなぐ」

「網を誰が作る」

「隣の者」

ナギが答える。

「私が全部の中心にならない」

リラは自分の夜色の旗を見た。

五つの白い点。

中央の空白。

「私の旗で、できる?」

「まだ分からない」

ナギは正直に言う。

「でも、五つの音を一番長く聞いてきたのはリラ」

「兄さんの場所しか」

「船団の五つも聞こえた」

「違う音」

「違うまま、ここだって分かった」

マーレの光像は黙っていた。

人工星の向こうで、ネブラがさらに近づく。

「灯主」

リラが呼ぶ。

「今、私はどこにいる?」

『ユメ号』

「それだけ?」

『ノクティルの外周』

「それだけ?」

五つ叩く。

「私は、ここ」

暗舟の方角を示す。

「兄さんたちも、ここ」

船団を示す。

「みんな、自分のここにいる」

「先頭だけが、今じゃない」

マーレの金旗が下がる。

白い人工星は、まだ前へ引く。

それでも、灯主の手は止まった。

先星号の灯索通信が、ノクティル全体へ開いた。

人工星の轟音。

ネブラの影潮。

四百隻を超える炉の唸り。

その上へ、マーレの声が乗る。

『全船』

一度、途切れた。

七年前には言えなかった言葉。

『停船準備』

船団中で、道具が落ちた。

鍛冶師が槌を止める。

寝台師が空の寝台を見る。

航路士は標柱を見上げる。

前しか指さない矢印が、初めて命令を失った。

『繰り返す』

マーレは金旗の星を、自分の手で握る。

『全船――止まれ』

ノクティルは止まらなかった。

止まれなかった。

重い畑船。

軽い小舟。

帆の少ない寝台船。

炉の強い工房船。

全部が人工星へ違う速度で引かれている。

一斉に帆を畳めば、後ろの船が前へぶつかる。

一斉に炉を落とせば、灯索がたわみ、町ごと絡まる。

「まず、止まり方を聞く!」

ルゥが灯索へ叫ぶ。

『止まり方?』

「船ごとに違う!」

『命令を!』

「自分の船を見て!」

『時間がない!』

「だから今見るの!」

ルゥは白い帳面を開く。

バルドの失敗図。

帆で減速する船。

炉を落とす船。

重錨を横へ向ける船。

一つの完成図にはしない。

「機巧師、航路士、船長! 今の速度、重さ、壊れてる場所を三つだけ返して!」

『第一畑船! 重い、炉熱高い、右帆裂け!』

『第三小舟! 軽い、帆全開、重錨なし!』

『第二寝台船! 人、寝てない、炉は弱い!』

「寝てないは船の状態?」

『今はそうだ!』

「残す!」

答えが重なる。

ナギは一つの鐘へ集めない。

「第一畑船は、隣の第二水船と組んで!」

「第三小舟は、外周三番へ!」

「第二寝台船は、治療船と!」

船ごとに、近くの返答者を決める。

「五つの音じゃなくていい! 自分たちの合図で、返事あり、なし、分からないを分けて!」

『工房船は炉弁二回!』

『畑船は鍬三回!』

『寝台船は札を上げる!』

「違う音でいい!」

灯索に、ばらばらの返事が生まれる。

かん、かん。

どん、どん、どん。

布が開く音。

水桶を叩く音。

誰も同じにならない。

意味だけを隣へ渡す。

「ルゥ!」

ミナモからの返事が《連標網》を通って届いた。

四回。

最後だけ高い。

『図、見えた!』

キリの声。

『重い船は、帆を畳む前に横重を逃がして! 原図なし! 試した範囲、二隻!』

「二隻だけ?」

『今、三隻目!』

「結果を次へ!」

『渡す!』

三番港から銅鐘。

『小舟は、別々に減速して再会点を決める!』

ミオ。

「今は船団の中!」

『だから一つの場所へ戻そうとしないで!』

トマリギ島から対鈴。

『帰る風を一呼吸だけ入れると、前の力が弱まる!』