第112話 第八章「響路士の限界」後編

イオラ。

「一呼吸以上は?」

『戻りすぎる!』

「一呼吸!」

カゲノハ村から、五つの違う音。

『現標板、返事あり!』

アカリ。

『止まる場所が決まったら送って!』

「まだない!」

『決まってないこと、記録した!』

連標網は答えを持ってこない。

今いる場所から、試したことを返す。

ルゥは白い帳面へ書き足す。

――完成図なし。

――船ごとに選ぶ。

――失敗は次へ送る。

《継ぎ路》!」

銀鋲を投げる。

一本目が工房船へ。

その機巧師が、自分の銅線を次へ。

麻縄。

帆布。

銀枝。

違う材料が、船と船を横へつなぐ。

前へ引く一本の灯索から、互いを支える網へ。

ザンバは人工星の金線へ灰旗を振る。

《岐点》

黒い点が外周船の追星路へ入る。

三本へ分ける。

帆で止まる道。

炉で止まる道。

夜潮へ横を向く道。

「選べ!」

『帆!』

『炉!』

『横へ!』

船長たちが自分で選ぶ。

足並みはそろわない。

だから、同じ場所へ衝突しない。

「次!」

黒い点。

十。

百。

灰旗の布が裂けかける。

ザンバの機巧腕接続部から黒い油が滲み、ない指の痛みが肘まで上がった。切る判断へ戻れば速い。相談を省き、最適な一本だけ残せる。

それでも、生身の左手で椅子の小さな鍵を外し、近くの機巧師へ渡した。

「右腕の留め具。次に締めろ」

自分が最後まで持つのではなく、壊れる前に役目を渡す。贖罪へ逃げ込まず、今の仲間に仕事を頼んだ。

「ザンバ!」

「まだ終わっていない」

「休め!」

「今は、止まる仕事だ」

カナタは船と船の間へ白旗を突く。

「一歩手前!」

未踏路が生まれる。

最後の一歩は、向こうの船員が踏む。

縄を投げる。

一隻。

二隻。

短い光路が星へ向かわず、隣へ伸びていく。

「第一歩号が中心!」

カナタが喜ぶ。

「一つの結び目!」

ナギが訂正する。

「同じだろ!」

「船団の端でも、同じことをしてる」

「じゃあ中心がいっぱい!」

「中心にしない」

「難しい!」

ノクティルの速度が、少しずつ落ちる。

前の船。

横の船。

後ろの船。

それぞれが今いる位置を返し、違う止まり方を選ぶ。

人工星が強く脈打った。

止まり始めた船々から、白い標力がさらに吸い上げられる。

「解除してるのに!」

マーレの声が響く。

《不眠航》が止まらない!』

白い星の表面に、一本の矢印が浮かんだ。

前。

次の矢印。

さらに次。

何千もの「先へ」が絡み合い、星から細い脚を伸ばす。

「標災」

ザンバが片目を細めた。

人工星が割れる。

中から現れたのは、白い獣だった。

体は、進路標柱の束。

脚はすべて前へ曲がり。

背中には、休まなかった日数が数字となって並んでいる。

頭に目はない。

代わりに、長い矢印が一本。

頭骨は前へ細長く、首は後ろへ曲がらない。耳孔は左右にあるが、休止鐘が鳴ると蓋のように閉じる。眠っても前脚だけが空を掻き、後脚は速度維持にしか使われない。

疾行獣サキヘは、遅れた者を憎んで消すのではない。後方の刺激を知覚せず、前へ移動する群れの熱だけを追う。危険から群れを早く逃がす体の仕組みが、全員を同じ次へ押す決まりと重なり、止まったものを脱落物として食べる標災へ肥大していた。

速いほど後脚は短く見える。止まることを覚えれば、後脚から先に力を抜く体だった。

口の中には、白い文字。

――遅れ。

《疾行獣サキヘ》

獣が一歩を踏んだ。

最も遅い外周船の在標札が、白く消えた。

サキヘは船そのものを見ていない。前へ流れない標力の差だけへ口を向け、追い越した影は二度と踏まない。消えた札の後ろに人がいることを、感覚器官が持たない。

悪意ではない。だから、悪いと叱っても止まらない。人の側が、「遅れ」を「いない」へ書き換えない仕組みに変わるしかなかった。

『外周十二、応答――』

声が途中で切れる。

周囲の航路士が、その船を見失う。

「船はある!」

ナギが叫ぶ。

「目の前にいる!」

疾行獣は、遅れた者の現在地を食べていた。

止まろうとする船団の真ん中で。

前へ進めない者から、いなかったことに変え始めた。

「外周十二!」

ナギが小鐘へ叫ぶ。

返事はない。

目の前には船がある。

古い貨客船。

左の帆を畳み、右の炉を落とし、船団の速度から少しずつ外れている。

船名板には《ツキミ号》

窓には人影。

それなのに、灯索の記録から名が消えていた。

『外周十一から十二へ縄を――』

航路士の声が止まる。

『十二?』

『何の船だ』

『空いている場所へ縄を投げろ』

「空いてない!」

ナギが船腹を叩く。

五つ。

「ツキミ号! 返事!」

窓の中で、女が口を開く。

声は届かない。

疾行獣の白い脚が、船と音路の間を踏んでいる。

返事を前へ送る道そのものが食われていた。

「目視あり!」

ナギは現標板へ書く。

――ツキミ号。

――灯索記録、消失。

――目視、あり。

――返声、遮断。

「書いても、消える!」

白い文字が板へ這う。

遅れ。

ツキミ号の名を上から塗り潰そうとする。

ナギは筆で横へ新しい線を書く。

消される。

また書く。

「何度でも!」

「一人で書くな!」

ルゥが銀鋲を現標板へ打つ。

「外周十一! 今見えている船を、自分の板へ書いて!」

『空にしか見えない!』

「形!」

『帆が片方!』

「外周十三!」

『左に古い貨客船!』

「治療船!」

『窓に七人! 奥は見えない!』

別々の板へ、ツキミ号が残る。

一枚消されても、隣が返す。

隣が消されても、反対側が返す。

「連標網」

ナギは小鐘を掲げる。

「一つの板に集めない。見えている人が、自分の場所から残して!」

船団中へ言葉が渡る。

『ツキミ号、外周十一の右!』

『第三治療船から十九歩!』

『帆柱の上に赤い布!』

『乗員、朝の名簿では六十三!』

『今、窓に七!』

「朝の六十三と、今見える七を同じにしない!」

ナギは返す。

「分からないところは空白!」

『六十三いるかもしれない!』

「かもしれないと書いて!」

疾行獣が二歩目を踏む。

ツキミ号の輪郭が夜へ薄くなる。

人々の目から、船そのものが見えにくくなっていく。

「カナタ!」

ナギが位置を指す。

「十九歩!」

「見えない!」

「外周十一から右へ七! 治療船から左へ十二!」

「二つある!」

「交わるところ!」

カナタは白旗を突いた。

「標術――《未踏路》! 二つの返事が重なる手前!」

一歩分の光板。

夜の何もない場所へ生まれる。

次。

隣の船からの距離を踏む。

前へではない。

横へ。

斜めへ。

十歩目で、光板の先が見えない船腹へ当たった。

硬い音。

「いた!」

カナタが笑う。

「見えなくても、ぶつかる!」

「喜び方が事故!」

ルゥは光路へ銀糸を走らせる。

《継ぎ路》! ツキミ号と外周網を接続!」

銀糸が船腹へ刺さる。

一度、消えかける。

別の船から麻縄。

治療船から灯布。

工房船から銅索。

三本が重なる。

ツキミ号の輪郭が戻った。

窓の女が船腹を叩く。

一つ。

二つ。

三つ。

四つ。

五つ。

返事が届く。

『ここにいる!』

船団中で、名前が一斉に戻った。

「乗員!」

ナギが呼ぶ。

『今、六十四!』

「増えた?」

『昨日、外周小舟から一人移った!』

「名簿は六十三!」

「今は六十四!」

カナタが胸を張る。

「数字が増えたから勝ち!」

「何に!」

疾行獣が白い口を開く。

――遅れ。

ツキミ号を消せなかった獣は、今度は返事の網へ噛みついた。

何百本もの音路が、一つの白い矢印へ引かれる。

「全部の返事を、先頭へ集める気!」

ナギの小鐘が急に重くなる。

四百隻の声。

カゲノハ村。

ミナモ。

三番港。

トマリギ島。

無灯泊。

すべてが一人の耳へ戻ろうとする。

「ナギ!」

ルゥが手を伸ばす。

「放して!」

「放したら、ツキミ号が!」

「もう隣が聞いてる!」

「でも全部――」

「全部は、あんたの返事じゃない!」

第四の小旗が帆柱で光る。

続きを渡す旗。

ナギは息を呑む。

ツキミ号の返事は、外周十一が持っている。

外周十一は、治療船とつながった。

自分が手を離しても、船は消えない。

「外周十一」

『聞いてる!』

「ツキミ号、お願い」

『任せろ!』

「治療船」

『乗員六十四、今確認中!』

「記録、お願い」

『残す!』

ナギは小鐘から指を離した。

手を離しても頭痛は消えなかった。左の鈴が右と同じ高さに聞こえ、舌には金属味が残っている。

「左右、同じ音。次の判定は一人でしない」

限界を隠さず返す。ルゥが頷き、外周十一と治療船へ判定役を一人ずつ頼んだ。ナギがすべてを聞かなくても、網は途切れなかった。

声の半分が消える。

消えたのではない。

別の場所へ渡った。

疾行獣の矢印が一瞬揺れる。

すべてを一つの先頭へ集められない。

「次!」

白い獣は別の遅れた船へ脚を向けた。

その前に、船団中からばらばらの音が鳴った。

炉弁二回。

鍬三回。

寝台札。

水桶。

五つの船腹。

「返事あり!」

誰か一人の声ではない。

何百もの現在地が、自分の場所から答えた。