第113話 第九章「泊星の手前」前編

《連標網》は、一枚の地図ではなかった。

形の違う板。

音の違う鐘。

字の読めない人が描いた絵。

眠っている者の寝台札。

返せない者を見た隣人の声。

全部が、自分の場所で今を残す。

「統一しろ!」

先星号の航路士が叫ぶ。

『合図が違いすぎて読めない!』

「統一したら、疾行獣に一つへ食われる!」

ルゥが返す。

『では、どうやって全体を見る!』

「全部を一人で見ない!」

『灯主は決められない!』

マーレは通信の向こうで黙っている。

以前なら、すぐに一つの命令へ戻していた。

今は、船団中の返事を聞いている。

同じ答えにならない声。

『畑船、帆で止まる!』

『工房船、炉を三段落とす!』

『治療船、今は速度維持! 手術中!』

『小舟、先に横へ抜ける!』

どれも、勝手ではない。

今いる人を守るための違う選択。

「船団の形が崩れます!」

航路士が言う。

「崩していい」

マーレが答えた。

『灯主?』

「一列でなくなるだけだ」

金旗の星が震える。

「今の船団を見ろ」

その言葉自体が、マーレには新しかった。

疾行獣が船団の上を走る。

一歩ごとに、遅れた札を白くする。

だが、札は一つではない。

隣の板。

遠い村の記録。

別の船から見た位置。

一枚が消えても、違う形で戻る。

カゲノハ村の現標板へ、夜海の情報が遅れて届く。

アカリは薬箱の底を五つ叩いた。

『ツキミ号、カゲノハ村でも記録!』

「遠すぎる!」

カナタが返す。

『だから、すぐ消せない!』

セノの工具音。

『外周十一から右へ七歩、図を写した!』

「その七歩、今は変わった!」

ルゥが叫ぶ。

『変わったら、次を書いて!』

ミナモからキリ。

『仮留め図、四つ目! 三つ失敗! 一つ、重船で保った!』

「失敗も送って!」

『もう送った!』

三番港からミオ。

『再会点を三つ作る! 一つに集めない!』

トマリギ島からイオラ。

『帰鐘は弱く鳴らす! 戻る場所を押しつけず、位置だけ知らせる!』

ナギは一つずつ、自分の帳面へ写そうとした。

頁が足りない。

筆が追いつかない。

「全部、書けない」

「書かなくていい」

ルゥが言う。

「それぞれの場所にある」

「私が知らない」

「知らないまま、つながる」

「響路士なのに」

「世界中を知る仕事じゃない」

ザンバが灰旗を振りながら答える。

「声が届く道を作り、誰へ渡したかを知る仕事だ」

「返事が間違ってたら」

「訂正が来る」

「来なかったら」

「分からないと残る」

ナギは青い帳面を閉じた。

初めて。

聞こえている途中で。

閉じた指は震えていた。全部を知らなければ誰かが消えるという恐怖と、全部を一人へ集めれば自分が聞き分け不能になる事実。その間で、響路士席の鈴穴を一つ空けたままにする。

分からない声のための空白は、欠員ではない。ほかの場所で誰かが持っている返事を、勝手に自分の帳面へ奪わないための余白だった。

全部を書かずに閉じる。

「第一歩号の今だけ」

新しい小さな板へ記す。

――カナタ。船首。

――ルゥ。操舵。

――ザンバ。船尾。

――ナギ。響路。

――第一歩号。ユメ号と接続。

それで足りる。

ほかの今は、ほかの人が持っている。

疾行獣が《連標網》へ白い尾を振った。

一本の太い矢印が、カゲノハ村まで伸びようとする。

遠くの返事も、一つの先へ引きずるため。

「切る」

ザンバが灰旗を向ける。

「待って」

ナギが言った。

「切ったら、連標網も」

「分ける」

黒い点が白い尾へ入る。

一つは、疾行獣が作った前進命令。

一つは、人から人へ渡る返事。

「同じ道に見えても、目的が違う」

灰旗を引く。

《岐点》!」

白い尾が二つに裂けた。

命令の矢印だけが疾行獣へ戻る。

返事の細線は、各地へ残る。

灰旗に、五本目の線が現れかけた。

黒い点から前へではなく。

その場で小さく輪を作る線。

「ザンバの旗!」

カナタが叫ぶ。

「今は見るな」

「増えた!」

「まだだ」

「五番目!」

「俺の旗ではない」

疾行獣が吠えた。

音ではない。

船団中の口から、同じ言葉が漏れる。

「遅れる」

「止まったら、遅れる」

「返事を待てば、遅れる」

「全員を数えたら、間に合わない」

カナタの白旗にも、細い矢印が浮かび始める。

「俺の旗へ入るな!」

振り払う。

矢印は消えない。

世界の果て。

次の場所。

早く。

先へ。

カナタ自身が何度も選んだ言葉。

「カナタ!」

ルゥが呼ぶ。

「今、どこ!」

「船首!」

「誰がいる!」

「俺!」

「ほか!」

「ルゥ! ナギ! ザンバ! ユメ号!」

「何人!」

「四十二!」

「今朝は!」

「違う四十二!」

白旗の矢印が少し薄くなる。

先の場所ではなく。

今いる者を口にする。

疾行獣はそれを嫌うように、体を大きく震わせた。

疾行獣サキヘは、人工星を背負って走った。

一歩。

船団が前へ引かれる。

二歩。

止まりかけた炉が再び燃える。

三歩。

人々の目から、疲れと痛みが消える。

治ったのではない。

前へ進むために、見えなくされた。

「外周三番、帆柱が折れる!」

『まだ進める!』

「進まないで!」

『遅れる!』

船長の口から白い文字。

自分の声ではない。

ナギが呼ぶ。

「外周三番! 今、何が壊れた!」

『進める!』

「質問を変えない!」

『先へ!』

「帆柱!」

隣船の機巧師が叫ぶ。

『右根元から折れた!』

「本人の返事が獣に食われてる」

ナギは書く。

――外周三番。本人返答、前進語のみ。

――隣船目視、帆柱破損。

「自分で答えられなくても、今は残す」

疾行獣が外周三番へ口を開く。

カナタは白旗を振る。

「折れた帆柱の手前!」

一歩分の光板。

船員が踏む。

「帆を切れ!」

「捨てるのか!」

「四番目!」

帆柱に結んだ灰青色の小旗が光る。

キリの《次稿》を宿した旗。

折れた帆へ、船名と今の傷が映る。

「ここまで使ったことを残す! 次の帆へ渡す!」

船員たちは帆布を切る。

投げ捨てない。

船名板の裏へ、折れた場所を書き。

使える布を隣船へ渡す。

重さを失った外周三番が、少し速度を落とした。

疾行獣の口が空を噛む。

「次!」

獣の脚が治療船へ向く。

手術中。

止まれない。

前へも進めない。

「再会点!」

ミオの銅色の小旗が帆柱で光る。

三番目の旗。

治療船と、先に横へ外れた護衛船の間に銅色の点が生まれる。

「別々に止まって、あとでここへ戻る!」

護衛船が道を外れる。

治療船は速度を保つ。

同じ歩調にしない。

それでも、再会する場所は失わない。

疾行獣の一本道が二つへ裂けた。

「帰る風!」

ナギがトマリギ島へ鈴を鳴らす。

遠い青い旗から、一呼吸だけ風が返る。

第二の旗。

第一歩号へ積んでいない。

持ち歩かない帰る場所。

それでも、連標網を通じて方向だけを知らせる。

前へ引かれていた船々が、一呼吸だけ自分の後ろを思い出す。

速度が落ちる。

「二番目もいる!」

カナタが喜ぶ。

「トマリギ島に!」

「帰る場所は持ち歩かない」とナギ。

「知ってる!」

「今、初めて使った顔」

「顔で決めるな!」

疾行獣は怒り、人工星の光を吸い込んだ。

体が倍へ膨らむ。

何千枚もの標旗から、まだ戻っていない力。

マーレが《不眠航》へ集めたもの。

「標力を返せば、獣が小さくなる!」

ルゥは人工星へ銀糸を投げる。

炎の紋。

麦。

寝台の夢。

鳥。

一つずつ持ち主へ戻そうとする。

だが、どの光が誰のものか分からない。

「全部白い!」

「在標があれば」

ナギが言う。

「持ち主の今へ返せる」

全員がリラを見る。

夜色の旗。

五つの点。

中央の空白。

「まだ出ない」

リラは旗竿を握る。

「何をすればいいか分からない」

「兄さんを呼ぶ!」

カナタが言う。

「今、呼んでる!」

耳飾りを叩く。

五つ。

返事は、人工星の音へ消える。

「もっと大きく!」

「大きさじゃない!」

「じゃあ近くへ!」

「場所が分からない!」

「分からないなら、ここを教えろ!」

リラが顔を上げる。

「私の場所?」

「おう!」

「兄さんへ行きたいのに?」

「今はどこだ!」

リラは足元を見る。

ユメ号。

第一歩号と銀糸でつながり。

ノクティルの外周網へつながり。

暗舟の五つを聞いている。

「ユメ号」

「それだけ?」

マーレにした問いを、今度は自分が受ける。

「ノクティルの外」

「それだけ?」

「兄さんの音の近く」

「それだけ?」

リラは怒る。

「何個答えればいいの!」

「今あるぶん!」

「多い!」

「全部じゃなくていい!」

「どっち!」

「今分かるぶん!」

雑な問い。

けれど、リラは耳を澄ます。

自分の足元。

ユメ号の炉音。

第一歩号の鍋蓋が軋む音。

ルゥの工具。

ナギの小鐘。

ザンバの旗竿。

四十二人の呼吸。

船団のばらばらな返事。

遠い五つ。

「私」

船腹を叩く。

一つ。

「ユメ号」

二つ。

「第一歩号」

三つ。

「ノクティル」

四つ。

「無灯泊」

五つ。

「全部、今つながってる」

夜色の旗の五つの点が淡く光った。

だが、まだ標術にはならない。

疾行獣が大きな脚を上げる。

狙う先。

ユメ号。

最も遅れ。

最も多くの返事を待ち。

止まろうとしている船。

「来る!」

リラが旗を広げる。

五つの点は小さい。

獣の白い脚を止められない。

カナタが前へ出る。

「俺が先に――」

「待って」

リラが止めた。

「私のここ」

「でも!」

「先頭、取らないで」

カナタは、仲間と別の道を選ぶことは覚えた。

けれど、危機の最初の一歩を自分以外へ任せることには、まだ慣れていない。

それでも、一歩下がった。

右膝の古傷が、その一歩だけ強く痛んだ。先へ出るより、下がるほうが慣れていない足だった。

白旗は中央を握らず端をつまむ。自分が救える場面で待つことは、恐怖から逃げることではない。リラが自分で踏む一歩を、奪わないための仕事だった。

「分かった!」