第114話 第九章「泊星の手前」後編
「本当に?」
「嫌だけど!」
リラは少し笑う。
白い脚が落ちる。
その直前。
ユメ号の船腹から、四十二人の返事が鳴った。
声。
手。
瞬き。
隣人の代理。
赤子の泣き声。
同じ音ではない。
けれど、全員が今いる。
夜色の旗の空白へ、最初の小さな点が生まれた。
リラは喜ぶ前に黒い耳飾りを五度触った。右手の小指は立ち、急な冷えで視界が一瞬揺れる。
「手だけ遅い」
言いかけて、自分で止めた。
「違う。私が、疲れてる」
在標が数える最初の一人から、自分を外さなかった。
最初の点は、星ではなかった。
光らない。
熱もない。
ただ、ユメ号が今いる場所を示していた。
疾行獣の白い脚が、その点へ触れる。
消えない。
四十二人の返事が、場所を支える。
「もう一つ!」
リラが第一歩号を見る。
カナタ。
ルゥ。
ナギ。
ザンバ。
船。
五つの音。
夜色の旗に、第二の点。
「外周十一!」
炉弁二回。
第三の点。
「ツキミ号!」
船腹五つ。
第四。
「治療船!」
白い布が上がる。
第五。
最初の五点が、旗の周囲へ浮かぶ。
どれも中央へ集まらない。
大きさも違う。
間隔も。
それぞれの場所にいる。
「中心がない」
マーレの声。
「船団には、先頭が必要だ」
「今はいらない」
リラは答えた。
「全部の船が、自分のここを持ってる」
疾行獣が別の点へ噛みつく。
その船が返す。
隣も返す。
遠い現標板にも残る。
点は揺れるが消えない。
「私が場所を決めるんじゃない」
リラは夜色の旗を高く掲げる。
「返事を聞く」
胸の奥へ、言葉が落ちた。
前へ進む命令ではない。
帰る道でも。
再会の約束でも。
続きを託す図でもない。
今いる者が、自分の場所から返す標術。
「標術――《在標》!」
夜海へ、無数の小さな点が現れた。
先星号。
寝台船。
畑船。
工房船。
小舟。
第一歩号。
ユメ号。
返事のできない者は、隣の目視と一緒に淡い輪郭で残る。
位置未確認者は、消えずに空いた輪となる。
今朝の名簿は、その後ろへ薄い足跡として残る。
「見える!」
船団中から声。
「隣がいる!」
「縄を投げろ!」
《在標》の点と点の距離が分かる。
三歩。
七歩。
斜めに十二。
夜海が動いても、互いの位置は返事で更新される。
ルゥの銀糸が点へ触れた。
「これなら、標力を返せる!」
人工星から伸びる白い光。
今まで、誰のものか分からなかった。
《在標》が持ち主の今を示す。
「《継ぎ路》――星火返送!」
炎の光を鍛冶師へ。
芽を農師へ。
夢を寝台師へ。
鳥を子どもへ。
光は外へ輝かない。
旗の内側で、本人の形へ戻る。
「寒くない」
ユメ号の少年が、自分の小さな鳥旗を抱く。
「光ってないのに」
「今いるから」
リラが答える。
「隣に、誰かいるから」
疾行獣の体が縮み始めた。
人々の標力を失い。
背中の数字が一つずつ剥がれる。
それでも、中心に白い球が残る。
マーレの《追星》。
七年間、先へ進み続けた願い。
止まれば失うという恐怖。
疾行獣はその球を胸へ抱え、ネブラから逃げようとさらに走る。
「人と獣を分ける」
ザンバが灰旗を振った。
「《岐点》!」
黒い点が白い球へ入る。
一方は、船団の人々へ戻った力。
一方は、マーレ自身の追星。
一方は、前へ進むことだけになった標災。
「選べ、マーレ」
「何を」
「その星を持ち続けるか。放すか」
「放せば、私は何を追えばいい」
「訊け!」
カナタが叫ぶ。
「誰に」
「自分に!」
「今か!」
「今しかない!」
マーレは笑った。
疲れ切った、短い笑い。
「雑な船長だ」
「褒めてる?」
「一度も褒めていない」
「ザンバと同じ!」
マーレは金旗の星へ手をかける。
布から剥がす。
熱い。
左手の火傷が開く。
古い脱臼の肩は上がらず、両手で別々の仕事をする癖も今だけは使えない。金旗と、自分の傷。一つずつ持つ。
全船を一人で前へ導く役を手放したあと、自分が何者か分からなくなる恐怖があった。それでも、判断を渡しても船団がばらばらにならない制度を望んだのは、ほかならぬマーレ自身だった。
それでも離す。
「私は」
白い球を夜海へ投げた。
「追う者を、自分で選ぶ!」
疾行獣が球へ飛びつく。
空っぽの人工星。
人の標力はもうない。
前だけを求める殻。
ネブラの巨大な口が、最も明るいものへ向く。
疾行獣は逃げる。
先へ。
さらに先へ。
星喰いの口の中まで。
白い獣と人工星が、一緒に呑み込まれた。
ネブラの黒い体内で、白い前脚がしばらく走り続けた。やがて休止鐘に似た低周波が腹へ響くと、サキヘの耳孔が閉じ、短く見えていた後脚が本来の長さへ戻る。前脚からではなく、後脚から力が抜けた。
夜海の生物が標災を裁いたのではない。最も強い星熱を食べ、走る殻を自分の摂食周期へ巻き込んだだけだった。
夜が閉じる。
完全な闇。
それでも、《在標》の点は消えない。
誰かが返す。
隣が答える。
ノクティルは、星のない場所で初めて自分の形を見た。
疾行獣が呑み込まれたあとも、誰もすぐには灯りをつけなかった。
星喰いネブラは遠ざかっている。
だが、どれほど離れたかは分からない。
夜海には岸も影もなく、人工星を失ったノクティルは、自分たちが止まったのか、夜そのものと一緒に流れているのかさえ見分けられなかった。
《在標》の点だけが、夜色の旗に浮かんでいる。
返事のある船。
隣から目視された船。
今は声を出せない者。
まだ位置の分からない空いた輪。
それらは星のように輝かなかった。
人にしか見つけられないほど弱く、けれど、誰かが返し続ける限り消えなかった。
「点呼、続ける」
リラが言った。
声は掠れている。
標術を生んだ直後で、旗を持つ両腕も震えていた。
「休んで」
ナギが小鐘へ耳を当てたまま言う。
「今の返事」
「疲れた」
「返事あり」
「でも、まだ聞こえる」
リラは夜の外を見た。
ノクティルの点のさらに向こう。
ネブラが通り過ぎた跡に、淡い輪郭が生まれている。
一つ。
次。
十。
三十。
同じ場所へ集まらず、互いの間隔だけを保って動く暗い点。
五つの打音が来た。
こん。
こん。
こん。
こん。
こん。
リラの指が、黒い耳飾りへ食い込む。
「残響?」
カナタが訊いた。
「違う」
ナギが先に答えた。
「同じ五つでも、間が違う。前に届いた音より、一つ目が少し重い。四つ目のあとに、息が入ってる」
「息まで聞こえるのか!」
「今は、聞こえた」
ナギは現標板へ書く。
――発信、現在。
――五打。
――複数方向。
――発信者、未確認。
「兄さん」
リラが呟く。
「まだ、そうとは書かない」
ナギは筆を止めなかった。
「どうして!」
「兄さんだと思って呼ぶのはいい。でも、記録を兄さんにしたら、ほかの人の返事が入らなくなる」
七年前。
トマリギ島で、ナギも母の音を聞き続けた。
希望を捨てなかった。
けれど、希望と確認を同じ言葉にはしなかった。
リラは唇を噛み、やがて頷いた。
「五打の人!」
船腹を叩く。
「こちら、星航船団ノクティル! 私はリラ! 今、ユメ号にいる!」
長い沈黙。
夜の向こうで、縄の軋む音。
それから、低い男の声が届いた。
声の前に、一度だけ息を吸う。考えると右上を見る癖は、暗い船内でも変わらない。七年間の作業で腰を痛め、立ち続けるほど船壁へ片手を預けるようになったが、座ることを弱さと思って申告しない。
暗闇で道具を置くときは五角形に並べる。五打の合図が、生活の配置へまで残った男だった。
『聞こえるか、リラ』
リラの肩が跳ねた。
声は記憶より低い。
掠れている。
それでも、笑う前に少し息を吸う癖は変わっていない。
「兄さん?」
『今、どこだ』
リラは泣きながら笑った。
ユメ号の船腹を五つ叩く。
「いま、ここだ!」
夜色の旗で、一つの点が強くなる。
船名板の文字が半分欠けた暗舟。
――ノイ号。
『僕も、ここだ』
「遅い!」
『そっちが速すぎた』
「七年!」
『こっちは朝がない』
「言い訳の数え方まで変!」
リラは笑い、同時に声を詰まらせた。
カナタが白旗を掲げる。
「迎えに行く!」
「先に数える!」
ナギとリラが同時に叫んだ。
「会えたのに!?」
「声が一人ぶん返っただけ!」
リラは涙を拭い、旗へ向き直る。
「無灯泊、船の数!」
『三十六!』
「今いる人!」
『二百八十三!』
「朝の名簿?」
『朝がない! 昨日の縄替えのあと!』
「名簿はある?」
『船ごとの板が三枚。残りは頭の中!』
「頭を三十六隻に分けられる?」
『七年あれば慣れる!』
「慣れないで!」
ルゥが割り込む。
「動ける船は?」
『二十四。残り十二は、隣の船の縄がないと形を保てない』
「炉」
『使えるのが十九。弱いのが九。星殻熱だけが八』
「けが人」
『十九。意識なし二』
「返事できない二人の場所」
『ノイ号一。ヤミツバメ号一』
《在標》に淡い輪郭が二つ現れる。
本人の声ではない。
同行者が、目で見た場所を返した輪。
「船ごと、一人ずつ!」
リラが呼ぶ。
無灯泊から、五つの音が順番に返る。
ノイ号。
ヤミツバメ号。
カラツキ号。
船名を失った舟は、帆の継ぎ目や炉の鳴り方で答える。
一人。
十人。
百人。
二百八十二。
そこで、点が止まった。
「一人足りない」
ナギが言う。
『全員答えた!』
「今の点は二百八十二」
『数え間違いだ!』
「どっちの?」
『……こっちかもしれない』
「分からないなら、分からないと残す」
夜色の旗へ、空いた輪が一つ増えた。
「最後に人を移した船!」
ハルが無灯泊へ問い返す。
『三日前、壊れた小舟から一人拾った!』
『ヤミツバメ号へ!』
『いや、治療のあとノイ号へ――』
『寝台が足りなくて戻した!』
「どこ!」
返事が重なる。