第115話 第十章「名前のない一人」前編
ナギは一つにまとめない。
全部を板へ残す。
――三日前、拾得。
――氏名、不明。
――ヤミツバメ号との返事あり。
――ノイ号移送説あり。
――現在位置、未確認。
「寝台を叩いて!」
リラが叫ぶ。
遠い暗舟で、弱い音が二つした。
こん。
こん。
同じ場所から。
「ヤミツバメ号、意識なしは一人じゃない!」
《在標》の輪郭が二つへ分かれる。
「二百八十三」
ナギが板へ書く。
「全員、今の場所が出た」
「じゃあ行く!」
カナタは待っていた白旗を振り上げた。
ノクティルと無灯泊の間には、ネブラの尾が残した《夜裂き》が流れている。
幅は五十歩。
右へ落ちる重さ。
左へ落ちる重さ。
上も下も一呼吸ごとに入れ替わる、黒い川。
「ノイ号の手前!」
「手前?」
リラが訊く。
「最後は、そっちから!」
ミナモで覚えたこと。
未踏路を相手の足元まで完成させない。
カナタの白旗から、一歩分の光板が生まれる。
一枚。
二枚。
夜裂きへ入った三枚目が、四方向へ裂けた。
「《継ぎ路》!」
ルゥの銀糸が、裂けた板を一呼吸だけ縫う。
「《岐点》!」
ザンバの黒い点が、重さを二つに分ける。
ノクティルへ落ちる流れ。
無灯泊へ落ちる流れ。
「ナギ!」
「位置、右へ七! 次、下へ三! ノイ号は動いてる!」
「動くな!」
『止まったら縄がたわむ!』とハル。
「じゃあ、同じくらい動け!」
「分かりにくい!」
未踏路は夜裂きの中央まで届いた。
ノイ号まで、あと一歩。
カナタは旗を止める。
「リラ!」
少女は夜色の旗を抱え、光板へ足を置いた。
「私が行く」
「迎えの道はここまで!」
「分かった!」
リラが走る。
一枚。
二枚。
最後の板。
その先は空白。
ハルがノイ号から縄を投げる。
少し届かない。
リラは跳んだ。
黒い重さが体を横へ引く。
指が縄を掴む。
「離すな!」
「七年、離してない!」
ハルが引く。
リラは、自分の最後の一歩でノイ号の甲板へ着地した。
男は二十五歳になっていた。
藍色の髪は肩まで伸び、右腕には星殻を編んだ包帯。
顔は記憶より細い。
十八歳の兄の面影はある。けれど、腰をかばう立ち方も、星殻縄の結び順も、無灯泊で七年かけて得たものだった。ノクティルへ帰れば昔の役へ戻る人ではない。
ハルは妹の黒い耳飾りとは反対側の耳へ触れた。リラの前でだけ出る癖。戻れなかった兄と、今の共同体の人間を同時に持つ手つきだった。
けれど、笑い方は変わらない。
「大きくなったな」
リラは一歩近づく。
拳を握る。
ハルが少し身構える。
妹は兄の胸を五つ叩いた。
こん。
こん。
こん。
こん。
こん。
ハルも、自分の胸を五つ叩く。
「今、ここだ」
「遅い」
「悪かった」
「聞こえてた?」
「ずっと叩いてた」
「なら、よかった」
「よくない!」
リラは兄へ抱きついたまま、腹へ拳を入れた。
「ぐっ」
「七年分!」
「今ので全部?」
「あと二千五百回!」
「多い!」
夜裂きの向こうから、カナタが叫ぶ。
「あとでにしろ! 道が切れる!」
「聞こえてたの!?」
「夜は声が通る!」
再会した二人の足元で、ノイ号が大きく軋んだ。
二つの船団は、まだ別々の夜にいた。
夜裂きは閉じ始めていた。
ネブラの尾が遠ざかり、左右へ分かれていた重さが一つへ戻ろうとしている。
黒い川の幅が、一呼吸ごとに狭くなる。
閉じる瞬間、間にあるものは押し潰される。
「三十六隻、全部をそのまま渡す時間はない!」
ルゥは銀糸の震えを読み、叫んだ。
「一隻ずつなら!」
「一隻十呼吸でも六刻!」
「道を太くする!」
「重さも三十六倍!」
「じゃあ、速く!」
「壊す速度が上がる!」
ハルはノイ号の操舵輪を握ったまま、無灯泊を見渡した。
七年間。
三十六隻は、一本の縄の網として生き延びた。
一隻の炉が止まれば、隣から熱を渡した。
一隻の帆が裂ければ、三隻で重さを受けた。
どれが先頭でも最後尾でもない。
切れば、もう同じ形には戻らない。
「ばらす」
ザンバが言った。
ハルは反射的に工具を五角形へ並べた。腰が痛んでも座らず、ノイ号の操舵輪から離れない。
「僕らは七年、この形で生きた」
声は穏やかだが、道具を置く音だけが大きい。怒っているときほど投げなくなる。
「分けるなら、なくすためじゃない。今の家族と役目を、別の船へ渡すためだ」
「散る!」
「散らすのではない。役目を分ける」
灰旗を夜裂きへ向ける。
「動ける船。人を運ぶ船。炉を運ぶ船。動けない船。今の役目を選べ」
「今から?」
「今しかない」
ハルはリラを見る。
「ノクティルへ行けば、また同じ速さで走るのか」
「変える」
「誰が」
「私たち」
リラは《在標》の旗を掲げた。
「止まれる船団にする」
ハルは一度目を閉じ、笑った。
「じゃあ、分けよう」
船腹を五つ叩く。
無灯泊中へ、命令ではなく問いを送る。
「動ける船!」
五つの返事。
「人を運べる船!」
別の返事。
「炉を外せる船!」
工具音。
「残る船!」
返事が遅れる。
やがて、十二隻から弱い五つが来た。
『船体は渡れない』
「人は?」
『渡す』
「船名は?」
『持っていく』
「来た道は?」
少し長い沈黙。
『次へ渡す』
ハルはノイ号の古い旗を抜いた。
布は半分しかない。
「動けない船は、人と炉を隣へ。星殻板と船名板を外せ。空になった船には、ここまで来た印を残す!」
『船を捨てるのか!』
「途中を渡す!」
第一歩号の帆柱で、灰青色の小旗が光った。
四番目の旗。
完成しなかったものを、次の手へ渡す《次稿》。
無灯泊の人々が、自分の船を選び直す。
眠った寝台。
何度も直した床。
星殻を拾った傷。
七年の暮らしを、全部は持っていけない。
だから、何を残し、何を渡すかを自分で決める。
旗を外す。
船名板を抱える。
使える炉を小舟へ移す。
星殻の板へ、文字や絵を刻む。
――ここまで来た。
――帆は右から裂ける。
――冬の夜潮では、炉を三拍休ませる。
――続きは、次の船へ。
四番目の小旗の空白へ、十二隻の記録が一つずつ映った。
「なくならない!」
カナタが叫ぶ。
「船は残る」とハル。
「続きがなくならない!」
「それなら、行ける」
移送が始まった。
動ける二十四隻は、一列にならない。
軽い舟は上へ落ちる流れ。
人を満載した船は、横へ穏やかな流れ。
炉を載せた小舟は、熱を逃がせる下側。
ザンバの《岐点》が、夜裂きの重さを役目ごとに分ける。
「選べ!」
船員たちは、自分の船に合う流れへ旗を向ける。
ルゥの銀糸は、全船を同じ間隔で縫わない。
「小舟、七呼吸!」
『七!』
「人船、十二!」
『十二!』
「炉舟、三呼吸ごとに一度止めて!」
『止まったら落ちる!』
「止まる場所を隣が作る!」
ノクティル側の船々も、違うやり方で受ける。
寝台船は布を広げ。
畑船は土箱を横へ出し。
工房船は炉輪を回す。
一つの橋ではない。
船から船へ渡る、何十本もの短い道。
カナタは一歩分の光板を置き続ける。
「動ける船の手前!」
光板。
「人船の手前!」
次。
「炉舟の――どれだ!」
「赤い点!」とナギ。
「赤いのが三つ!」
「右から二つ目!」
「俺の右?」
「在標の右!」
「旗に右があるのか!」
「今作る!」
「分かりにくい!」
言い争いながらも、道は一枚ずつ届く。
先星号が夜裂きへ入った。
「マーレ!」
リラが叫ぶ。
「何してる!」
「追う」
マーレの金旗には、もう全船を引く一つ星がない。
潰れた紋の跡に、小さな金の点だけが残っている。
「標術――《追星》!」
金線が伸びる。
ノクティル全体ではない。
先星号一隻だけを、ノイ号へ向ける。
「私が追う相手は、私が選ぶ」
先星号が四方の重さへ引かれる。
「右へ三歩!」
リラの《在標》が位置を返す。
「下へ二歩!」
「下はどっちだ!」
「金線の向いてるほう!」
「カナタみたいなことを言うな!」
「聞こえてるぞ!」
先星号は、未踏路と無灯泊の仮橋の間へ入った。
マーレが金旗の石突を、両方へ渡す。
船体そのものが、一歩分の空白を埋める橋になる。
「先頭の船が橋になった!」
カナタの目が輝く。
「船は橋じゃない!」とルゥ。
「前に道を走った!」
「今は事故じゃない!」
先星号の甲板を、人々が走る。
未踏路。
先星号。
星殻板の仮橋。
夜裂きの向こうへ。
マーレとハルの視線が合った。
「久しぶり」とハル。
「遅い」
「妹と同じことを言うな」
「七年分だ」
「許す?」
「今は運べ」
「今の返事」
ハルは炉を担ぐ。
マーレは金旗で道を支える。
謝罪はあと。
許しもあと。
今は、ここにいる人を渡す。
《在標》の点が一つずつ、ノクティル側へ移る。
二十人。
百人。
二百人。
同じ中心へ重ならない。
船ごとの場所を保ったまま、夜裂きを越える。
「残り!」
ナギが呼ぶ。
『ノイ号!』
『ヤミツバメ号の最後の寝台!』
『炉舟二!』
「点は!」
リラが旗を見る。
夜裂きの向こうに、三つ。
ノイ号が最後に動いた。
主炉は弱い。
七年分の傷が船腹で軋む。
ハルが操舵輪を握る。
「リラ、先へ渡れ!」
「一緒に!」
「誰かが操舵を!」
「二人で!」
「重い!」
「知ってる!」
兄妹で操舵輪を回す。
ノイ号が夜裂きへ入った。
左右から重さが船体を潰す。
「ルゥ!」
「もう縫ってる!」
銀糸が古い傷を一呼吸ずつ支える。
「ザンバ!」
「選べ!」
二本の流れ。
「マーレ!」
「追う!」
金線がノイ号の船首へ絡む。
「ナギ!」
「ノクティル側まで、十二、九、七!」