第116話 第十章「名前のない一人」後編

「カナタ!」

「一歩手前!」

白旗が最後の光板を置く。

ノイ号は、自分の一歩でその先へ乗った。

直後。

《在標》の点が、一つだけ夜裂きの向こうへ残った。

「待って!」

リラが叫ぶ。

ヤミツバメ号。

人は全員移したはずの船。

その暗い船腹に、空いた輪が一つある。

夜裂きは、あと十呼吸で閉じようとしていた。

「移送人数!」

ナギが叫ぶ。

ノクティル側の船々から、返事が来る。

意識のある者。

眠っている者を見た者。

抱いている赤子。

治療中の者。

一つずつ、現在の場所を返す。

「二百八十二!」

「名簿は二百八十三!」

「名簿じゃない!」

ナギは自分で言い直す。

「移送前に確認した今が、二百八十三!」

夜裂きの向こう。

ヤミツバメ号の空いた輪は、消えない。

返事はない。

目視する隣船も、もうこちら側へ渡っている。

「名前不明の人」

リラが言った。

「寝台ごと移したはず」

『一つの寝台に二人いた!』

ヤミツバメ号の船員が顔を青くする。

『先に船員を移した。拾った人は、その次の担架へ――』

『担架は空だった!』

『毛布が二枚重なってた!』

誰かを責める声が上がりかける。

「あとで!」

ナギが止めた。

「今は、最後に見た場所!」

『下甲板の二番寝台!』

『いや、夜裂きで船が回ったから上!』

『船首から十二歩!』

『今は船尾が船首になってる!』

「ばらばら!」

カナタが白旗を構える。

「だから交わる場所を探す!」

ナギは返事を一枚に潰さない。

《在標》の輪へ、別々の距離を重ねる。

ノイ号から十五歩。

先星号から二十二。

移送前のヤミツバメ号の二番寝台。

夜裂きの回転、右へ四分の一。

「今は……ここ!」

空いた輪が、暗い船の下側へ移った。

「行く!」

カナタが船首を蹴る。

「私も!」

リラが続く。

「待て!」

ハルが止める。

「兄さんはノイ号を支えて!」

「また一人で行く気か!」

「一人じゃない!」

リラは《在標》の旗を振る。

第一歩号。

ルゥ。

ナギ。

ザンバ。

ノクティル中の返事。

「つながってる!」

「それでも体は一つだ!」

「二つ!」

カナタが隣で胸を張る。

「数え方が不安!」

「今は合ってる!」

夜裂き、残り八呼吸。

カナタは白旗を突く。

「ヤミツバメ号の手前!」

一歩分の光板。

黒い重さが板を縦へ折る。

《継ぎ路》!」

ルゥの銀糸が、第一歩号と光板をつなぐ。

「長く保たない!」

「七呼吸で戻る!」

「行くのに七!」

「戻りは速く!」

「根拠!」

「夜裂きが押す!」

「それ、潰されるって意味!」

ザンバの《岐点》が、閉じる重さへ黒い点を置く。

「五呼吸だけ、帰る流れを分ける」

「五?」

「足りなければ、お前を置く」

「増やせ!」

「無理だ」

「帰る!」

「なら行け」

カナタとリラは光板を走った。

ヤミツバメ号は半分、夜裂きへ呑まれている。

帆柱が横へ伸び。

床が壁になり。

寝台は天井へぶら下がっていた。

「二番寝台!」

「どれ!」

「今の上!」

「上が三つある!」

《在標》の空いた輪が、船内で弱く揺れる。

返事はない。

それでも、移送前に誰かが見た場所。

カナタは輪の手前へ一歩を出す。

板が船室の壁を破った。

「入口、作った!」

「壊した!」

「同じだ!」

「違う!」

中へ飛び込む。

毛布の山。

空の寝台。

折れた水筒。

最も奥に、人の手が一本見えた。

「いた!」

若い女だった。

顔には星殻の粉。

首から、文字の消えた小さな名札を下げている。

琥珀色の薄板眼鏡が、寝台の下へ片方だけ落ちていた。右手と左手で温度が違う。古い凍傷の痕らしく、冷えた指だけが毛布を強く握る。

文字の消えた名札だけで、この女を「名を失った者」と決めるには早い。呼吸は浅く、食事の最後の一口を急いだ痕が口元に残り、欠けた薬瓶を胸へ抱えている。今ここで必要なのは、過去を当てることより体温を返すことだった。

呼びかけても返事はない。

リラが胸へ耳を当てる。

「生きてる」

「名前は?」

「読めない」

「じゃあ、何て呼ぶ!」

「今は、一人!」

リラは女を背負う。

夜裂き、残り四呼吸。

船体が潰れ始める。

「戻る!」

来た穴へ走る。

光板がない。

「道!」

カナタが白旗を振る。

「第一歩号!」

一歩。

途中で折れる。

二歩目は、夜裂きの下へ落ちる。

「位置が変わった!」

ナギの声が小鐘から来る。

「第一歩号、今は右上へ九! ノイ号が間に入った!」

「右上はどこ!」

「在標の二つの点が近いほう!」

「旗が見えない!」

「五つ叩いて!」

カナタはヤミツバメ号の床を五つ蹴る。

第一歩号から、鍋蓋の低い五音が返る。

暗闇の中に、位置が生まれる。

「そこ!」

白旗を返事へ突く。

一歩分の光板。

リラが女を背負って踏む。

最後の一歩は足りない。

夜裂き、残り一呼吸。

「跳べ!」

三人が同時に跳んだ。

第一歩号の船首から、ルゥの銀糸が飛ぶ。

リラの腰へ。

カナタの片足へ。

女の毛布へ。

引く。

夜裂きが閉じた。

黒い重さが背中をかすめる。

ヤミツバメ号は音もなく潰れ、夜へ消えた。

三人は第一歩号の船腹へぶつかった。

リラと女は甲板へ引き上げられる。

カナタだけ、船首の鍋蓋の取っ手へぶら下がった。

右膝は夜裂きへ引かれ、靴のない足が震えていた。救助の瞬間だけ白旗を口へくわえ、利き手を空けたため、女の毛布は最後まで離していない。

自分を助けろと叫べるようになったことも、旅の変化だった。全部を一人で直すと言わず、仲間の銀糸を待った。

「助けろーっ!」

「先に返事!」

ナギが叫ぶ。

「両手が塞がってる!」

「足!」

カナタは片足で船首を蹴る。

こん。

こん。

こん。

こん。

五つ目で靴が脱げた。

「だぁっ!」

靴が夜へ落ちる。

船首へ当たる。

こん。

五つ。

《在標》の最後の点が強くなる。

「第一歩号、全員ここ!」

ナギが宣言する。

治療船から、女の呼吸が返る。

本人の名前は、まだ分からない。

意識も戻らない。

それでも、一人ぶんの点がある。

「無灯泊、二百八十三」

リラが夜色の旗を掲げた。

「全員、今の場所へ渡った」

ノクティル中から、ばらばらの返事が上がる。

同じ声ではない。

同じ音でもない。

けれど、誰一人、遅れた船と一緒に消えたことにはされなかった。

星航船団ノクティルは、その夜、初めて完全に止まった。

正確には、同じ場所へ固まったのではない。

寝台船は吊り寝台を左右へ広げ、夜潮を受け流した。

畑船は土箱を船外へ張り出し、重さを根のように下ろした。

工房船は炉を落とさず、火を回転輪へ送り、前進の力をその場で回した。

小舟は帆を裏返し、進む風を後ろへ逃がした。

無灯泊から来た船々は、星殻の縄を隣へ渡し、互いの揺れを打ち消した。

止まり方は、船ごとに違う。

だから、ぶつからずに止まれた。

けれど、止まれば安全になるわけではなかった。

畑船は、前進風で回していた根水の水車が弱くなる。

工房船は、熱を後方へ捨てられず、炉室へ火が戻る。

寝台船は、流れる風を失い、吊り寝台の下へ冷気が溜まる。

小舟は、灯索の張力が消えると、夜潮へばらばらに流される。

進み続けることには犠牲があった。

止まることにも、別の危険と仕事があった。

第一歩号は、止まりきれなかった。

「仮留め輪、五回!」

ルゥが操舵輪の下へ潜り込む。

黒い薄板を組み込んだ輪が回る。

一。

二。

三。

四。

五。

一呼吸だけ、船首と船尾の重さがそろう。

「今!」

銀鋲を打つ。

第一歩号は、夜海と一緒にゆっくり流れながら、人工星のあった方角へ進むのをやめた。

「停船!」

カナタが胸を張る。

「漂泊!」

「止まった!」

「場所ごと動いてる!」

「今の場所にいる!」

ナギが船腹を五つ叩いた。

《在標》に、第一歩号の点が残る。

「それなら停船でいい」

リラが笑った。

その笑いが終わる前に、膝から崩れた。

「リラ!」

「眠い」

「返事あり」

ナギが支える。

「七年ぶん?」

「たぶん」

「一度には寝られないよ」

「じゃあ、少しずつ」

それでも眠る前に、リラは点呼板を三枚へ分けた。

一枚目は赤。

――呼吸、炉熱、根水、衝突。

今すぐ命に触れるもの。

二枚目は白。

――本人応答なし。目視、隣人、名札のいずれかで存在確認。

返事ができない者を、返事がないだけで人数から外さないための欄。

三枚目は灰。

――名前と場所が一致しない。記憶なし。複数名。発信者不明。

急いで一つの答えへ入れない欄。

「誰から見る」

マーレが訊いた。

「赤」

ナギとリラが同時に答えた。

「その次は?」

「返事がない船」

「名前が分からない人は?」

「そこにいることを先に」

「出航できる船は?」

「最後」

リラは眠い目で言い切った。

「出るかは、起きてから本人が決める」

担当も一人へ集めない。

ルクは寝台船。

ドウマは炉と機巧船。

ハルは無灯泊から来た船。

マーレは外周区ごとの未確認欄。

ナギは、各担当から届く違う形式の返事を受ける。

ただし、全部を自分の耳へ直結しない。

各区に一人ずつ受取人を決め、三つの札へ要点だけを渡す。

「間違えたら」

リラが訊く。

「誰が書いたか残す」

ナギ。

「起きた本人が直す」

ルク。

「直せないなら」

マーレ。

「未確認のまま、次へ渡す」

四人の答えがそろった。

同じ声ではなかった。

責任の場所だけが、はっきりした。

役目を渡し終えたリラは、ユメ号の甲板へ運ばれる途中で、もう眠っていた。