第117話 第十一章「五番目の旗」前編

船団のあちこちで、人々が同じように眠り始める。

治療船の一角では、ネリサが凹凸札を指で読み直していた。娘は温めた産着の中で、右足だけ同じ角を蹴り出す。低い船腹音では左を向き、高い鈴では眉間へ皺が寄った。

ネリサは一度眠り、起きて水を飲み、もう一度子の呼吸を数えた。それから名簿の空欄へ指を置く。

「アサネ」

前から候補にしていた名だった。朝の名簿のあとに生まれたから、というだけではない。母が、娘の顔と呼吸を見て選んだ、一人の名前だった。

ナギは名欄へ書く。

――アサネ。

産着の五点刺繍へ触れた左手の小指が、満腹のあとだけ開いた。ナギはそれを返事と書かず、「満腹後、左小指を開く」と身体欄へ記した。

橋の上。

炉の脇。

畑の土箱へ背中を預けたまま。

今までは、眠れば作業の列から落ちた。

今夜は、隣の者が名前と場所を返す。

「キト。第三寝台船、右橋」

怪我をした右足を毛布へ載せた十三歳のキトが、返事をしない。

ルクが寝台札を上げた。

札は三重結び。ルクは名前歌を途中まで口にし、キトが嫌そうに眉を動かしたため、そこで止めた。善意で名を歌えば誰も安心するわけではないと、十二歳なりに学び始めている。

高い警鐘は聞き取りにくい。代わりにキトの寝台脚へ足を当て、呼吸の低い振動を確かめた。

「眠ってる。呼吸あり。右足、固定済み」

「代理返事、確認」

ナギは板へ残す。

「起こさないの?」

カナタが訊く。

「寝たことを確認したの」

「返事してないぞ」

「返事できないときは、隣が今を返す」

「便利だな!」

「責任も増える」

ルクはキトの毛布を掛け直す。

「間違えたら?」

「起きた本人が直す」

「起きなかったら?」

「分からないと残す」

ナギの答えは変わらなかった。

治療船では、ヤミツバメ号から救った女が寝ている。

名前の文字は消えたまま。

本人の返事もない。

板には、こう書かれた。

――一人。

――成人と思われる。

――呼吸あり。

――氏名、未確認。

名前が分からなくても、人数から外さない。

過去が分からなくても、今いる場所を空白にしない。

数刻後。

女は一度だけ目を開いた。

「ここ……どこ」

そばにいたリラが、眠そうな目で答える。

「ノクティルの治療船」

「私……」

女は名札へ触れた。

何も思い出せない顔をする。

「名前、分からない」

「あとでいい」

リラは船腹を五つ叩いた。

「今は、ここ」

女の指が、布団を五回弱く叩く。

本人応答あり。

五回目だけ、凍傷の残る指が遅れた。右手と左手で温度が違うことも、今の体の返事だった。

リラは「名前を思い出すまで」と期限をつけなかった。過去名が戻ったとき、今の一人まで消す必要はない。その判断は、本人が目を覚ましてから持てばよい。

ナギは氏名欄を空白のまま、返事の印を濃くした。

先星号では、マーレが金旗を膝へ置いていた。

左手の火傷へ包帯が巻かれている。

目の前にはハル。

隣にはリラ。

三人とも、何から話せばよいか分からない。

「灯主」

ハルが先に口を開いた。

「もう違う」

「じゃあ、マーレ」

「……ああ」

「リラを運んでくれて、ありがとう」

マーレの顔が歪む。

「私は、お前の灯索を切った」

「僕が切れと言った」

「五つの音を、聞かなかったことにした」

「聞こえるまで叩いた」

「戻れなかった」

「こっちも追いつけなかった」

「七年だ」

「夜海では、長さが分からない」

「分からなくても長い!」

リラが二人の間から怒鳴った。

ハルとマーレが同時に黙る。

「謝ったら終わると思わないで」

「思っていない」とマーレ。

「許すかは?」

ハルは少し考える。

「あとで決める」

ハルは答えながら右上を見た。許すかを先送りにしたのではない。七年前の兄、無灯泊の船員、今ここにいる二十五歳の自分。その三人が同じ返事をするとは限らない。

マーレも謝罪を一度で終えようとせず、金旗ではなく休泊当番札を差し出した。

「明日の点呼を、手伝ってほしい」

赦しではなく、次の仕事を渡す申し出だった。

「今は?」

「眠い」

「私も」

兄妹は同じ場所へ座り込んだ。

マーレは泣きながら笑った。

「全船、停泊を継続する」

航路士が恐る恐る訊く。

「何刻まで」

以前なら、赤星までの距離で答えていた。

マーレは《在標》を見る。

眠っている点。

治療中の輪。

見張りへ立つ者。

まだ返事のない空白。

「点呼が終わるまで」

「もう終わったのでは」

「次の点呼が始まるまで、休む」

夜海では朝が来ない。

それでも、何千人もの眠りが一巡したころ、ノクティルはそれを朝と呼んだ。

星のない、暗い朝だった。

カナタは第一歩号の甲板で、三呼吸後に眠った。

世界の果ては、逃げなかった。

二か月後。

ノクティルの外周に、新しい港ができていた。

骨組みだけなら、二十日でできた。

残りの四十日は、止まる練習に使われた。

五日ごとに一度、船団は一刻だけ速度を落とした。

一回目は、畑船の根水が足りず、三つの土箱を枯らした。

二回目は、炉熱を逃がす順番を間違え、工房船の帆を七枚焼いた。

三回目は、薬舟を先へ通すため市場船が半日遅れ、朝食の星芋が夜食になった。

止まれば損失がないわけではない。

進めば誰も落ちないわけでもない。

無灯泊の人々は、星がなくても暮らしを区切る方法を教えた。

見張り縄の結び目を一つ送れば朝。

二つなら炉熱の交換。

三つなら、隣船の人数をもう一度確かめる。

灯りを使えない夜は、縄の温度と船腹の打音で、食事と薬と眠りの番を渡した。

ノクティルの人々は、止まった床で荷車をぶつけず運ぶところから覚えた。

試航のたび、失った物、守れた者、返事のなかった欄を別々に残した。

全員を数え終えない停止は、成功へ入れなかった。

《休泊港》

壊れた船を積む停泊庫ではない。

壊れる前に帆を畳む場所。

炉を弱める場所。

眠る者が、進む寝台へ縄で縛られなくてよい場所。

入口の看板には、大きな文字がある。

――停止三十呼吸以上、推奨。

「三十だけ?」

カナタが首を傾げる。

「最低」とリラ。

「俺、昨日三百呼吸寝た!」

「八百」とルゥ。

「世界の果てが八百呼吸遠くなった!」

「逃げてない」とザンバ。

「ネブラは逃げた!」

「追うな」

「みんな同じこと言う!」

休泊港の骨組みには、ノクティルで長く使われなかった《休み肋》が組み込まれていた。

設計したバルドは、動く椅子に座ったまま作業を指示する。

逆さ時計は今も椅子の背へ吊られている。以前は針が休みへ近づいても本人だけ立ち続けたが、今は三十呼吸ごとに縄束を弟子へ渡し、目を閉じる。

「返事が来てから休む」は禁止語になった。言えばルクが逆さ時計を正位置へ戻す。バルドは毎回怒り、毎回座る。熟練者も使う普通の航法へ休泊を変えるには、本人の休み方も公開する必要があった。

整備長ドウマは、第一歩号へ入れた黒い《静重板》を見本に、船ごとの仮留め具を作った。

傾く床では左足首へ布を三重に巻き、白い札の輪郭へ炭線を足す。若い整備士が図を受け取るたび、紙の角を直角へ合わせてから話し始めた。

ただし、同じ留め具を量産しようとした者には、出口を塞ぐ位置へ黙って立つ。船より船長を疑う老人は、自分の標準化欲まで同じように疑うようになっていた。

同じ機巧は一つもない。

寝台船用。

畑船用。

暗舟用。

小舟用。

「統一図は?」

若い整備士が訊く。

「ない」とドウマ。

「次の港で直せません」

「直し方を全部書け」

「多すぎます」

「だから人へ渡せ」

ミナモから届いた《次稿》の写しが、工房の壁へ張られている。

完成形ではない。

試した範囲。

失敗した場所。

次に確かめること。

受け取る人。

休泊港そのものが、四番目の旗の続きを歩いていた。

港の浅い星錨池では、ホシマルが五つの打音の四つ目に尾を振った。満腹になると、自分の鎖を口と尾で逆向きに結び直す。リラは餌を与える前に今日も一度謝る。

ホシマルは人の制度が変わったことを理解しない。ただ、休泊中は餌の間隔が安定し、頬袋を空にしたまま眠れるようになった。生き物の側の変化は、その程度で十分だった。

港の中央で、リラは大きな夜色の布を広げた。

無灯泊に残された十二隻。

渡ってきた二十四隻。

ユメ号。

ツキミ号。

ノクティルの古い小旗。

それぞれから一片ずつ切り、縫い合わせた布だった。

中央に五つの白い点。

その真ん中は空白。

旗の下では、ネリサがアサネの凹凸札を指で確かめていた。赤子は右足で毛布の角を蹴、ミナは白い旗布の境へ炭線を引く。ユエは外れた留め具を遠くの整備士へ正確に投げ、ソクは左手の身振りで点呼へ返す。

五番目の旗は、掲げるだけでは道にならない。声の強い者、弱い者、眠る者、名を後から得た者が、別々の方法で毎日使う道具になっていた。