第118話 第十一章「五番目の旗」後編

布の周囲には、さらに小さな輪がいくつも縫われている。

「完成?」

カナタが訊く。

「今は」

リラは答えた。

「返事した人は点」

一つを指す。

「声が出せなくても、隣が見ている人は淡い輪」

二つ目。

「名簿にいるけど、今の場所が分からない人は空いた輪」

三つ目。

「名簿から消すんじゃないんだな」

「うん」

「返事したら?」

「点になる」

「場所が変わったら?」

「点も動く」

「間違えたら?」

「本人か、次に見た人が直す」

「全部分かる旗?」

「違う」

リラははっきり言った。

「分からないことを、分からないまま残せる旗」

ナギが隣で頷く。

《在標》は、誰かを勝手に見つける標術じゃない。返事を受け取って、返事が来ていない場所も消さない標術」

「五つ叩けば、必ず届く?」

「届かないこともある」

「じゃあ意味ない?」

「返事を待つ間、自分のここを忘れない」

ナギは自分の小鐘を鳴らす。

「それに、五つは命令じゃない」

「何?」

「返していい、という合図」

同じ五つでも、返事は同じ形でなくてよい。

船腹。

鐘。

炉弁。

手。

瞬き。

隣人の言葉。

自分が今できる形で返す。

「だから、中央が空いてる」

リラは五点の真ん中へ指を入れる。

「全部の返事を、一人のところへ集めないため」

「旗なのに、中心がない」

マーレが言った。

金旗の一つ星を失った彼女は、今では全船の前に立っていない。

休泊港の点呼台で、各船から順番に報告を受けている。

肩書きも変わった。

《先灯主》ではない。

《点呼長》

「もっと格好いい名前はなかったのか」

カナタが訊く。

「私が決めた」とリラ。

「逃げられなかった」とマーレ。

「点呼長!」

子どもが港を走ってくる。

「第三寝台船、二人まだ寝てる!」

走ってきたのはルクだった。十二歳の声で大人の公用語を使い、寝台札は三重結び。点呼帳には名前歌の旋律記号まで書かれている。

以前なら二人を起こして返事を取った。今は、呼吸を確認し、本人が嫌う歌は口にせず、眠っているという現在を持ってきた。

「呼吸は」

「返事あり!」

「起こすな。出航を半刻遅らせる」

「前なら置いていった?」

「前の話を毎回確認するな」

「大事だから!」

子どもは笑って戻っていく。

マーレも、少しだけ笑った。

初めて休泊椅子へ腰を下ろしたまま。立ったまま食事を終える癖も、今日は途中で止めた。古い脱臼の肩を下ろすと、金旗を持たない手が不自然に空く。

「点呼長」という小さな肩書きを、まだ好きではない。それでも、自分が答えなくても船団がばらばらにならない朝を、一度ずつ数えている。

ハルは無灯泊の仲間と《夜影隊》を作った。

ネブラの尾を追い、落ちた星殻と、灯索を切られた暗舟を探す隊。

今度は完全に灯を消さない。

一隻ずつ、小さな《在標》の旗を持つ。

「戻ってきたのに、また出るのか?」

カナタが訊いた。

「戻ったから、外に残った船を探せる」

ハルは答えた。

「リラも一緒?」

「行かない」

リラの返事は早かった。

「七年も探したのに!」

「だから、今度は返事を受ける側に残る」

兄は外へ探しに行く。

妹は休泊港で、帰ってくる音と、まだ帰らない音を分けて受け取る。

五つの合図を送る時刻だけを決め、同じ船へ戻ることは決めなかった。

マーレも、先頭の金旗を取り戻さなかった。

速い道を一人で選ぶ代わりに、点呼台で各船の停止可能時間と不足物資を受け取る。

三人は、七年前の役へそのまま戻らないことを、それぞれ自分で選んだ。

「星殻縄」

「ある」

リラが兄の荷袋を検査する。

「水」

「ある」

「保存食」

「ある」

「予備旗」

「ある」

「寝袋」

「いらない」

「いる!」

ハルは右上を見て考え、腰へ伸びかけた手を途中で止めた。無灯泊の仲間には船員の声、リラには兄の声を使い分ける。

「持っていく。使うかは僕が決める」

「使わなかったら?」

「帰って報告する」

同じ船へ戻る約束ではない。返事を持ち帰る約束だった。

「船で寝る」

「床で寝ると腰を痛める!」

「七年平気だった」

「二十五歳は若くない!」

「十五歳に言われたくない!」

兄妹の言い争いを、夜影隊が笑う。

ハルは荷袋の中身を、暗闇でも五角形になる順へ並べ直した。寝袋だけを外へ出そうとし、腰へ手を当てたところをリラに見つかる。

「いつもの位置がずれただけ」

「それ、痛いときの言い方でしょ」

「誰に聞いた」

「七年待ってた妹」

再会しても、妹の期待どおりノクティルへ完全復帰はしない。リラもそれを止めない。代わりに、今の体と今の役目を隠さないよう怒る。

リラも灯拾い見習いではなくなった。

《在標守》

船団にいる者。

外へ出た者。

返事のできない者。

その今を、一人で抱え込まず、返事を受け取る人へ渡す仕事。

兄の音を一人で聞き続けた七年を、同じ形では誰にも繰り返させないために。

旗を立てる日。

カナタは一本目の白旗を抱えて、リラの前へ立った。

「これは、五番目?」

「私たちには、最初」

「俺たちには?」

カナタは数える。

「一本目は、行きたい場所へ立てる旗」

自分の白旗。

「二本目は、帰る場所」

トマリギ島。

「三本目は、別々に行く人が、また会う場所」

三番港。

「四本目は、続きを渡す場所」

ミナモ。

夜色の旗を見る。

「五本目は」

リラが船腹を五つ叩いた。

「次を決める前に、今いる場所を返す旗」

「前じゃないのか?」

「うん」

「後ろでもない?」

「違う」

「じゃあ、どこ?」

「ここ」

カナタは少し考え、笑った。

「進まない旗だ!」

「置いていかないで進むための旗」

「じゃあ、道だ!」

リラは大きな《在標旗》を休泊港へ立てた。

夜色の布が開く。

星のない海に、何千もの現在地が弱く浮かぶ。

どの点も、ほかの点の後ろへ並ばない。

全員が別々の場所から、同じ今へ返事をしていた。

休泊港へ大きな《在標旗》が立った日の夜。

ナギは第一歩号の響路台へ、小さな夜色の布を結んだ。

「連標網へつなぐ」

「ノクティル全部を?」

カナタが訊く。

「全部は送らない」

「なんで!」

「カゲノハ村の現標板が、船四百隻ぶんで埋まる」

「板を増やす!」

「村が板になる」

「広い村!」

「住む場所がなくなる!」

ナギは送る内容を分けた。

――星航船団ノクティル。

――休泊中。

――無灯泊二百八十三人、合流。

――未確認者、一名は本人応答あり。氏名欄は空白。

――第一歩号、四人と一隻。現在地、休泊港。

「四人と一隻」

カナタが嬉しそうに言う。

「船も数えるのか!」

「壊れたら返事が変わるから」

「仲間!」

「機巧」

「両方!」

五つの音を送る。

夜海を越え。

ミナモの中継鐘。

三番港の再会点。

トマリギ島の帰鐘塔。

何人もの受け手を通って、音はカゲノハ村へ届く。

返事はすぐには来ない。

カナタは響路台の前へ座った。

一呼吸。

二呼吸。

三。

立ち上がる。

「遅い!」

「世界の反対側に近いよ」

「声を大きくする!」

「夜海を壊さないで」

ナギは小鐘へ手を置く。

「返事が来るまで、自分のここを忘れない」

「分かってる」

カナタは船腹を五つ叩いた。

「第一歩号。休泊港。今、ここ」

それから、修理を手伝い。

眠り。

字の練習をし。

三度忘れかけたころ。

小鐘が鳴った。

こん。

こん。

こん。

こん。

こん。

『カゲノハ村。現標板。今、ここ』

「アカリ!」

『本人応答あり』

少女の声が笑う。

薬箱の底を叩いた、少し箱鳴りのする五つ。

その後ろで、黄緑の旗布が一度だけ擦れた。

続いて、別の返事。

『天頂門補修台。トウヤ。今、ここ』

金属を五回。

『作業小屋。セノ。今、ここ』

工具の柄。

『南橋。ハルガ。今、ここ』

太い木板。

『村役場。セルク』

村長の杖が、少し遅れて五つ。

一つの村なのに、返事は同じ場所から来ない。

現標板。

天頂門。

作業小屋。

南橋。

役場。

「村が広がってる」

カナタが言う。

『村は前から広い』とアカリ。

「俺の知ってる場所より!」

『それは、カナタがいない間も動いてるから』

アカリは今の村を報告する。

朝を入れる反射板が二枚増えた。

外から来た旅人用の小屋を、南橋の横へ建てた。

天頂門には安全階段がついた。

第一歩号が帰るとき、鍋蓋を引っかけないよう、発着場の柱を一本外した。

「俺のため!」

『村のため』

「同じだ!」

『違う』

ルゥが横から訊く。

「私の作業机は?」

『セノが使ってる』

「勝手に!?」

『置いてある工具は、使うものだって』

『ルゥさんの設計、少し変えました!』

セノの声が来る。

「どこを!」

『右側の引き出しを、二段に!』

「そこは重さが偏る!」

『今は脚を足してます!』

「勝手に完成させないで!」

『まだ未完成です!』

ルゥは怒りかけ、止まる。

ミナモで受け取った言葉。

続きを渡す。

「図を送って」

『もう送りました!』

「早い!」

『返事を待って止めてました!』

「……なら、見る」

ザンバは少し離れた船尾にいる。