第119話 第十二章「初めて止まる場所」前編
アカリが呼んだ。
『監視役』
ザンバは返さない。
『ザンバ』
灰旗の石突が、甲板を一つ叩く。
次。
五つ。
「第一歩号。船尾」
『本人応答あり』
「それだけか」
『屋根板の弁償、まだ』
「現在地と関係あるか」
『今も残ってる』
「帰ったら払う」
ザンバは生身の左手で弁償板を受け取る仕草をした。機巧の右腕は切るため、左は受け取るため。帰ると言えば赦されたように聞こえるのが怖くて、弁償という仕事へ言い換える。
それでも、以前なら「払う」とだけ言った。今は、屋根板を直したあと誰と食事をするかまで、心のどこかで考えている。
カナタとルゥが振り向く。
「帰るの!?」
「弁償にだ」
「帰るって言った!」
「言葉を一つにするな」
ザンバは顔を逸らした。
響路の奥で、別の音が鳴った。
六つ鐘。
十年前と同じ間隔。
アステルの《帰還路》に残された記録が、道へ触れた者へ返す声。
『たまには帰れ』
父の声。
カナタの顔が上がる。
ナギはすぐに板を分けた。
――記録音声。
――発信時刻、十年前。
――現在応答ではない。
「父ちゃん」
『今の返事じゃない』
アカリの声が、やさしく重なる。
『でも、残ってる言葉』
「ああ」
『今の村からも返す』
薬箱。
工具。
杖。
木板。
生きている者たちの違う五音が来る。
『カゲノハ村。今、ここ』
カナタは目を閉じた。
父が残した村。
出発した日の村。
アカリたちが今暮らしている村。
同じ名前でも、同じ形ではない。
「今の返事を」
カナタは言った。
「父ちゃんの声と、同じ欄へ入れるな」
『分けてる』
「帰るかどうかを決める前に、今いるやつを聞く」
『いつ決めるの?』
「まだ決めない!」
『そこは前から変わらない』
「世界の果てを見てない!」
『それも前から聞いてる』
「でも、今を先に聞く!」
アカリは少し黙った。
『本人応答あり。帰路、未決定』
からかうように言ったあと、声を柔らかくする。
『待ってるだけじゃなく、こっちも進んでるから』
「おう!」
『迷ったら、今いる場所を返して』
「村まで届かなくても?」
『届くまで、自分で覚えて』
カナタは夜色の小旗へ触れた。
「第一歩号。休泊港。俺はここ」
カゲノハ村の現標板に、すぐではない新しい点が一つ加わった。
帰還の欄は、まだ空白だった。
空白のまま、消されなかった。
第一歩号の修理は、休泊港ができても終わらなかった。
船体には夜裂きの傷。
右の帆には無灯泊の星殻布。
船腹にはユメ号から分けてもらった黒板。
可変重継舵の鍋蓋は、疾行獣の脚を受けたとき少しへこみ、左右で回る速さが違っている。
「傷は来た道だからな!」
カナタが胸を張る。
「残していい傷と、落ちる傷は違う」
ルゥは鍋蓋の軸へ工具を差し込んだ。
近くの傷なら髪の毛ほどでも見える。遠い休泊港の人影は服の色でしか分からない。薄い片眼鏡を掛け、まず傷を観察し、次に負荷を計算し、感情は最後へ回す。
左手首の反動痛は残っている。今日は銀鋲を右側からしか抜けない。それでも「自分の番ではない」と隠さず、ドウマへ締め作業を渡した。
「これは直す」
「へこみが格好いい!」
「回すと船首だけ過去へ戻りそうな音がする!」
「帰還路!」
「故障!」
整備長ドウマが船底から顔を出す。
「へこみは半分残す」
「分かってる!」
カナタが喜ぶ。
「どこで重さが偏ったかを読む印だ」
「格好いいからじゃない!」
ルゥが釘を打つ。
「でも残る!」
「そこだけ聞くな!」
今回の大きな改修は、船底だった。
黒い楕円板。
星殻を何層も重ね、中央へ小さな輪を埋め込んでいる。
進む力は生まない。
重さの流れを読み、船が今いる場所に対してどれだけ動いているかを測る。
必要なら、流れへ薄い爪を掛ける。
「《休重錨》」
ルゥが図面へ名を書く。
「第五翼!」
カナタが上から書き足そうとする。
「字を覚えてから!」
「五なら書ける!」
「翼が書けないでしょ!」
「絵!」
鍋蓋を五枚描こうとする。
「増やすな!」
バルドが動く椅子で船の周囲を一周した。
休み肋を設計した老人は、黒い板の端を杖で叩く。
「錨は、一つの場所へ船を縫いつけるものではない」
「錨なのに?」
「夜海に地面はない」
「じゃあ、どこへ止まる」
「周りとの間へ」
バルドは《在標》の小旗を示す。
「第一歩号だけが止まっても、夜潮が変われば流される。隣の船。返事のある標。今の風。それらに対し、動きが小さくなる場所を探す」
「全部へつなぐ?」
「全部へつなげば、全部に引かれる」
ルゥは答えた。
「二つか三つ。今、必要な相手だけ」
「選ぶのは?」
「船員」
「船長!」
「全員」
「船長は全員の中に入る?」
「一人ぶん」
「少ない!」
試運転。
休重錨を下ろす。
黒い板が夜海へ触れる。
第一歩号の船首が急に沈んだ。
「止まった!」
「船尾が進んでる!」
船体が縦になる。
ザンバの椅子が甲板を滑り、カナタの背中へ当たった。
「重い!」
「椅子を方角にするな」
「座ってるお前も!」
「一人ぶんだ」
「今の会話を使うな!」
ナギが響路台から呼ぶ。
「基準、休泊港とツキミ号!」
「二つ!」
「休泊港、左後ろへ三。ツキミ号、右へ一!」
「どっちへ止まる!」
「間!」
「間は見えない!」
「返事を聞いて!」
休泊港から五つ。
ツキミ号から炉弁二回。
異なる二つの位置。
ルゥが休重錨の輪を半回転させる。
黒い爪が、二つの流れの間へ掛かった。
第一歩号が水平へ戻る。
ゆっくり流れている。
だが、どちらの船へも近づかない。
「停船」
ルゥが言う。
「今度こそ!」
カナタが両手を上げた。
休重錨が自動で巻き上がった。
第一歩号は反動で前へ跳ぶ。
カナタが船首の布束へ突っ込んだ。
「短い!」
「五呼吸設定!」
「ずっと止めろ!」
「最初から長くすると船底が抜ける!」
「できるまで!」
「一歩ずつ!」
試運転は二十七回続いた。
二十八回目に、第一歩号は三百呼吸、同じ間隔を保った。
カナタは二百九十八呼吸で寝た。
「成功?」
ルゥが訊く。
「本人応答なし。呼吸あり」
ナギが板へ書く。
「停船成功」とドウマ。
ザンバは甲板の後ろで、灰旗を広げていた。
黒い点から、五本目の線が伸びている。
ほかの線のように遠くへ向かわない。
点のそばで短い輪を作り、元の場所へ戻っている。
線が現れた瞬間、ザンバの機巧腕ではなく、生身の左手が灰旗を胸へ寄せた。感情が先に出た側だった。
休む道を持てば、贖罪が終わったように見える。その怖さで椅子を半指ずらす。けれど、輪は赦免ではない。明日の仕事へ戻るため、今いる場所へ一度帰る線だった。
「それ、何の道?」
起きたカナタが訊く。
「休む道だ」
「進まないのに?」
「進まぬ選択も、選択だ」
「どこへ着く?」
「今いる場所」
「五番目!」
「俺の五番旗ではない」
「でも増えた!」
「まだ名はない」
「《昼寝》!」
「却下だ」
「今、寝てた!」
「監視していた」
「目を閉じて!」
「内側を見ていた」
「ずるい!」
ルゥは白い帳面へ、夜海で作った仮留め図を写していた。
きれいな完成図にはしない。
三度外れた爪。
逆に回した輪。
バルドの書き足し。
ドウマの異なる板。
セノがカゲノハ村から送った止まり輪の図。
全部を残す。
頁の端へ、一行だけ書いた。
――止まる機巧は、動く機巧と同じだけ必要。
「ルゥ」
カナタが覗く。
「何て書いた」
「自分で読んで」
「止まる……き……」
「機巧」
「難しい!」
「じゃあ、先にこれ」
別の紙へ、三文字を書く。
カナタ。
「自分の名前は書ける!」
カナタは筆を持つ。
カ。
ナ。
タ。
静止した文字列では行を飛ばす少年が、今日は指で一画ずつ線を追った。最後へ急いで別の字に決めず、ルゥが「違う」と言うまで待つ。
右膝を机の下で伸ばし、冷めた星芋へ一度息を吹きかける。冒険ではない時間にも、自分がここにいると覚える練習だった。
最後の一画が、船の進行方向へ長く伸びた。
「道になった!」
「字が出航した!」
「次!」
ルゥは二文字を書く。
ここ。
「短い!」
「今いる場所だから」
カナタは何度も真似する。
一枚目は、こご。
二枚目は、ころ。
三枚目で、ようやく読める形になった。
――カナタ ここ。
ナギが夜色の小旗へ紙を結ぶ。
「返事が届かないときにも使える」
「誰が読む?」
「あとから来る人」
「俺がいなくても?」
「ここにいたことは残る」
カナタは紙をしばらく見た。
世界の果てへ立てる白旗。
その前に、自分の今を書く小さな紙。
「帰るときも使える?」
「帰る場所には、持ち歩かない二番旗がある」
「じゃあ、これは?」
「帰る途中で、自分を見失わないため」
カナタは紙を白旗の内側へ入れた。
中央の大きな空白は、まだ埋まらない。
けれど、その手前に今いる自分の名が残った。
第一歩号が休泊港を出る朝。
朝といっても、夜海は暗いままだった。