第120話 第十二章「初めて止まる場所」後編
ノクティルでは、全船の眠りが一巡し、次の見張りが返事をした時刻を朝と呼ぶようになっている。
誰か一人の鐘では決めない。
寝台船。
畑船。
工房船。
外へ出た夜影隊。
それぞれの朝が、《在標》へそろったとき、新しい一日が始まる。
休泊港には、第一歩号を見送る人々が集まっていた。
マーレ。
リラ。
ハル。
ドウマ。
バルド。
ルクと、右足に新しい固定具をつけたキト。
ルクは出航者の名を歌わず、本人が望む返し方だけを帳面へ書いた。キトは固定具の柄を整備士側へ向け、一呼吸休んでから自分で立つ。
ネリサは凹凸札を指で確かめ、アサネを抱く。ミナは白い旗の縁へ炭線を一本。ユエは遠くの荷台へ忘れ物を投げ返し、ソクは左手を胸へ置いて五つ目を待つ。
休泊港の見送りは、声のある者だけの列ではなかった。
氏名欄の空いていた女も、治療船の窓から手を振っている。
記憶はまだ戻らない。
今の自分で選んだ仮の呼び名だけを、板へ書いた。
――ヨル。
琥珀色の薄板眼鏡を掛け、苔灯りの青白さだけを弱めている。指先の凍傷で左右の温度感覚が違い、冷たい物にも必ず息を吹きかけてから口へ入れる。
過去の名を思い出すことは願っている。けれど、その瞬間に「ヨル」が仮の誤りとして消されることは望まない。今の名札と、文字の消えた古い札を二枚とも首へ下げた。
「夜で拾われたから?」
カナタが訊く。
「今は」
女は答えた。
「前の名前を思い出したら?」
「両方書く」
ヨルは鼻から短く息を抜き、遅れて肩を揺らした。笑うとすぐ次の仕事へ手を出し、怖さを隠す癖がある。今日は手を出さず、二枚の名札を自分で重ねた。
「関係を決めるのは、思い出した私」
「一つにしない?」
「ここまでの私も、今の私も消さない」
ルゥが白い帳面へ、その言葉を小さく残した。
ハルは星図を持ってきた。
以前のノクティルの図とは違う。
明るい星だけではない。
無灯泊が通った暗い潮。
ネブラの尾が残す星殻の場所。
船が止まりやすい静かな重場。
返事を待てる小さな輪。
北の端には、一本の白い線が描かれていた。
「これ、何だ!」
カナタの目が輝く。
「ネブラの背から見えた」
ハルが答える。
「星喰いを四つ追ったころ、一度だけ。空が、そこで折れてた」
「空が折れる?」
「星も夜潮も、その線から先へ落ちていく」
ザンバが星図を覗く。
「《空の岸》」
「知ってるの?」とナギ。
「噂だけだ。世界の空が終わり、外海へ流れ落ちる場所」
「世界の果て!」
カナタが叫ぶ。
「かもしれない」とルゥ。
「行く!」
「だから、かもしれない!」
「確かめる!」
今度は、誰もその行き先を勝手に全員のものにはしなかった。
カナタは一人ずつ見る。
「ルゥ」
「機巧都市の外にある重場を見たい」
「行く?」
「今は第一歩号で」
「ナギ」
「空の岸の向こうから返事が来るか、聞きたい」
「行く?」
「今は第一歩号で」
「ザンバ」
「監視する」
「どこで?」
「第一歩号で」
「俺は世界の果てへ!」
「誰も訊いてない」と三人。
「船長!」
カナタは嬉しそうに白旗を担いだ。
リラが、小さな夜色の旗を差し出す。
無灯泊三十六隻の古い旗布。
ノクティルの休泊索。
ユメ号の黒い糸。
それらを縫い合わせた返事用の旗。
中央には五つの白い点。
真ん中に空白。
「第一歩号の五番目の旗」
「本物を持っていっていいのか?」
「本物はここ」
休泊港の大旗を示す。
「これは、返すための一片」
「ノクティルまで届く?」
「遠ければ、すぐには届かない」
「じゃあ意味ない?」
「返事が来るまで、自分たちのここを忘れない」
リラは小旗の空白へ触れた。
「誰も答えなくても、自分で五つ鳴らしていい」
「一人で返事?」
「返事を待ってる自分も、今いる一人だから」
ナギが響路台の横へ小旗を結ぶ。
「連標網の中心にはしない」
「第一歩号、速いぞ!」
「速さと中心は違う」
「有名だぞ!」
「主に壊した港の数で」とザンバ。
「本当に広まってるのか!?」
「今のは事実に近い」
「もっと悪い!」
出航前の点呼が始まる。
マーレではなく、リラが夜色の旗を持つ。
けれど、彼女一人が全員を数えるのではない。
休泊港の人々が、それぞれ自分の隣へ返事を渡す。
最後に、第一歩号の番。
「船長カナタ」
「船首! 白旗! 靴は二つ!」
「一つ前に落としたでしょ」とルゥ。
「買った!」
「現在地だけでいい」
「第一歩号、船首!」
リラは頷く。
「航路機巧師ルゥ」
「操舵輪。朝火炉、正常。休重錨、たぶん正常」
「たぶん?」
「船長が触らなければ」
「触る!」
「今のうちに縛る?」
「出航後!」
「響路士ナギ」
「響路台。トマリギ島、三番港、ミナモ、カゲノハ村、ノクティルへ返路あり。全部、現在応答は別」
「監視役ザンバ」
「船尾」
「椅子?」
「俺だ」
「本人応答あり」
最後。
「第一歩号」
四人が船腹へ手を置く。
カナタ。
ルゥ。
ナギ。
ザンバ。
こん。
こん。
こん。
こん。
四つ。
全員が止まる。
「一つ足りない!」
カナタが叫ぶ。
「船の返事」
ナギが言う。
朝火炉が低く鳴った。
ごうん。
五つ目。
「第一歩号。機関応答あり」
「仲間!」
「機巧」とルゥ。
「両方」とナギ。
ザンバは何も言わない。
船腹を一度、軽く叩いた。
休泊港から、五つの音が返る。
ノクティル。
今、ここ。
さらに遠く。
連標網をいくつも渡り、カゲノハ村から遅い五つが来る。
アカリの薬箱。
黄緑の旗布が、音路の向こうで弱く揺れる。
『行き先、空の岸。現在地、休泊港。記録した』
「行ってくる!」
『帰る場所は、持っていかないで』
「分かってる!」
『今の顔、分かってない』
「顔は見えないだろ!」
『声で分かる』
「ナギみたいなこと言う!」
『迷ったら、五つ』
「おう!」
『帰るか迷ったら?』
カナタは少しだけ考える。
「先に、今いるやつを聞く!」
『本人応答あり。行き先は本人が決める』
響路が静かになる。
「出航!」
カナタが白旗を掲げる。
朝火炉が金色に燃える。
色違いの帆が開く。
透明羽根が、星のない夜の重さを読む。
第一歩号が休泊港を離れた。
三歩ぶん進む。
船底の休重錨が下りた。
がくん、と船が止まる。
四人が前へ転がった。
「第五翼が働いた!」
「勝手に下りた!」
「完成度が上がった!」
「故障!」
「今、ここに止まった!」
「港の前!」
「分かりやすい!」
休泊港から笑い声が上がる。
ドウマが工具を振る。
「二十八回目の爪が残ってる!」
ルゥが船底へ潜る。
「カナタ、触った?」
「出航した!」
「答えになってない!」
「触った!」
「知ってる!」
休重錨を巻き上げる。
今度こそ第一歩号は北へ向いた。
「空の岸は、北!」
ルゥが操舵輪を握る。
「分かってる!」
カナタは自信満々に南を指した。
「まっすぐ!」
「反対!」
「星がない!」
「在標がある!」
「今いる場所しか分からない!」
「地図を見て!」
「字が読めない!」
「自分の名前と『ここ』は書けるでしょ!」
「地図にカナタがない!」
「あるわけない!」
第一歩号が急旋回する。
船首の鍋蓋が休泊索を一枚さらった。
「弁償!」
リラの声が飛ぶ。
「帰りに!」
「帰るって言った!」
「弁償に!」
「ザンバと同じ!」
第一歩号は、星喰いネブラが落とした小さな星の種を越えていく。
遠い夜で、ネブラの尾が五度だけ低く潮を打った。食べ終えた回遊の合図。航路士たちは今後、その低周波と体内星の散り方を、逃げるためではなく餌場を避ける現在情報として記録する。
さらに遠く、白い前脚に似た光が一度だけ黒い体内を走り、休止鐘の音で消えた。サキヘが死んだのか、別の形へ移ったのかは未確認。分からないものを、倒したと書かない。
休泊港には、獣が残した白い殻片も保存された。耳孔が閉じる瞬間を測れば、船の速度がそろい過ぎた兆候を知ることができる。人の決まりを餌場にして肥えた生物の殻も、次の決まりを直す材料へ変わり始めていた。
後ろでは、ノクティルの点々が一つの輪にならず、それぞれの速度で動き始める。
速い船は先へ偵察へ。
遅い船は星殻を拾う。
疲れた船は休泊港へ残る。
出航する者も。
眠る者も。
返事を待つ者も。
同じ今の中にいる。
カナタは五番目の小旗を振った。
「今、ここだーっ!」
「まだ港から見える!」とリラ。
「返事は!」
休泊港の船腹が五つ鳴る。
こん。
こん。
こん。
こん。
こん。
道がないなら、最初の一歩になればいい。
誰かが二歩目を重ねれば、足跡は道になる。
三歩目が別の方角へ進んでも、また会う旗があれば道は途切れない。
四歩目を、自分より先へ行く誰かへ渡すこともできる。
そして、五歩目を急ぐ必要はない。
立ち止まり、今いる者を数える。
「ここにいる」と返す声があるなら、星のない夜でも道は消えない。
世界の果ては、まだ遠い。
けれど第一歩号は、初めて止まる場所を知った。
了