第121話 第一章「空の折り目へ刺さる」前編

道がないなら、最初の一歩になればいい。

誰かが二歩目を重ねれば、足跡は道になる。

三歩目が別の方角へ進んでも、また会う旗があれば道は途切れない。

四歩目を、自分より先へ行く誰かへ渡せば、まだ会っていない手が続きを作れる。

五歩目を急がず、今いる者を数えれば、返事の遅い誰かを消さずに待てる。

では、六歩目を置きたい場所に、すでに誰かの足跡があったなら。

先に着いたことは、そこを自分のものにする理由になるのだろうか。

自分の旗を立てる前に、向こうから来る一歩ぶん、場所を空ける。

カナタは、先に着けば、その場所へ自分の旗を立ててよいと思っていた。

星航船団ノクティルの休泊港を出て、十八日目。

飛空艇《第一歩号》は、順調に世界の端へ刺さっていた。

「抜けない!」

船首にぶら下がったカナタが、両足で船腹を蹴る。

右膝だけが、最初の一蹴に半拍遅れた。昔の着地で残した傷が、白い折り目の冷えを拾って鈍く鳴っている。

カナタは痛みとは呼ばない。

「今のは助走!」

「誰も訊いてない!」

操舵輪の向こうから、ルゥだけが遅れを見ていた。

その両手は、巨大な円盤の取っ手を握っていた。

正式名称、《休重錨兼可変重継舵》

カナタの中では、《第五翼》

止まるための機巧なのに、出航直後に勝手に下り、夜潮の途中で勝手に上がり、朝食の鍋へ一度だけ戻ろうとした。

今は、青い空へ走る一本の白線へ深々と食い込んでいる。

「だから、勝手に下ろすなって言ったでしょ!」

操舵輪にしがみついたルゥが叫ぶ。

白線は遠くなるほど、彼女の目には細い傷へほどける。ルゥは舌打ちと一緒に、左右どちらにも掛けられる薄い片眼鏡を、今日は右目へ当てた。使わない意地より、船体が先だった。

髪から銀鋲を一本抜く。危険が増えるほど一本ずつ減らす、彼女だけの数え方だ。左手首には《継ぎ路》の古い反動が残り、鋲を握るたび親指の付け根が小さく震えた。

「下ろしてない! 世界のほうから刺さってきた!」

「世界は鍋蓋に刺さらない!」

「鍋蓋じゃない! 第五翼!」

「止まる板!」

「なら、止まった!」

「船首だけ!」

第一歩号の船尾は、まだ夜海から続く風路に押されていた。

船首だけが白線へ固定され、船体は弓のように反っている。

色違いの帆。

銀枝の透明羽根。

三脚群島の曲がる木羽。

ミナモのつぎはぎ。

ノクティルの星殻板。

旅の傷を抱えた船全体が、ぎぎぎ、と嫌な音を立てた。

「第一歩号が二つになる!」

響路士席に腰を固定したナギが、青い帳面から顔を上げる。

左右で違う銀鈴。

背中には、離れた五つの音紋を持つ白い響路旗。

膝の青い帳面には、出航以来の現在地と返事が細かく書かれている。

右耳には返事を拾う細い鈴。左耳には、船体の軋みを削る青い耳栓。大事な判定の前には、舌先で前歯の裏を五回押す。

一、二、三、四。

五つ目の前に、口の奥へ金属の味が出た。音が重なりすぎる前触れだ。ナギは隠さず、帳面の端へ《過負荷、一》と書いた。聞こえることと、聞き続けられることは別だった。

「二つになったら、二艘で進める!」

「船員も半分!」とルゥ。

「俺は船首!」

「私は船尾を取る!」

「誰が決めたの!」

甲板の後ろでは、ザンバが椅子ごと帆柱へ縄で結ばれていた。

灰色の旗には、黒い点から五本の線が伸びている。

五本目は遠くへ向かわず、点のそばで小さな輪を作っていた。

休む道。

今いる場所へ戻る線。

右の機巧腕が帆柱の縄を固定し、生身の左手が椅子の脚を半指だけずらした。白線の冷えに反応して、ないはずの右指が一本ずつ痛む。

ザンバは顔へ出さない。代わりに、機巧腕ではなく左手で灰旗の輪へ触れた。壊す手と、受け取る手を同じにしないためだった。

「船長」

「何だ!」

「昨日、休重錨へ白旗を結んだな」

「世界の果てを逃がさないように!」

「外せ」

「なんで!」

「お前の《未踏路》が、白線を行き先だと思っている」

カナタの白旗から、細い金色の線が円盤へ伸びていた。

円盤は白線へ。

白線は、空の向こうへ。

「もっと早く言え!」

「六度言った」

「俺には?」

「主にお前へ」

「聞いてない!」

「知っている」

ナギが響路旗を掲げた。

「一度、全員返事」

「今?」

「船が二つになる前」

鈴を五回。

ちりん。

ちりん。

ちりん。

ちりん。

ちりん。

「船長カナタ」

「船首! 靴、二つ!」

「航路機巧師ルゥ」

「操舵輪。船体、まだ一つ!」

「響路士ナギ」

「響路台。返路、四つ。現在応答なし」

「監視役ザンバ」

「船尾」

「第一歩号」

四人が船腹を叩く。

こん。

こん。

こん。

こん。

朝火炉が、ごうん、と低く返した。

「五つ。全員いる」

「じゃあ外す!」

カナタが白旗の結び目へ手を伸ばす。

「待って」

ナギの声が変わった。

五つの返事の余韻。

その向こう。

白線の反対側から、別の音が来る。

こん。

こん。

少し間を置いて。

こん――。

「六つ目?」

カナタが目を輝かせる。

「三つ」

「でも、知らない音!」

「うん」

ナギは目を閉じる。

残響ではない。

同じ場所で繰り返す記録でもない。

一音目より二音目が近く。

三音目には、迷いがある。

「向こう側がある」

「世界の果ての向こう!」

「たぶん」

「行く!」

「今、船が裂ける!」

ルゥの工具箱が飛んだ。

カナタは白旗で受ける。

その勢いで結び目が外れた。

休重錨が白線から抜ける。

瞬間。

第一歩号の上下が、六つに増えた。

「うおっ!」

カナタは船首から空へ落ちた。

ただし、青空の上へ。

ルゥの工具箱は右へ。

ナギの帳面は左へ。

ザンバの椅子は斜め後ろへ。

食料袋だけが、その場で回転する。

「重さがばらばら!」

ルゥは銀鋲を三本投げた。

「標術――《継ぎ路》!」

一本がカナタの腰へ。

一本がナギの帳面へ。

一本が操舵輪へ刺さる。

銀糸が三つを甲板へ縫い止めた。

第一歩号そのものは、白線へ向かって横倒しになる。

銀枝の透明羽根が一斉に開く。

表。

裏。

上。

下。

前。

後ろ。

六方向の重さを同時に読み、全部へ行こうとして震えた。

「銀枝が迷ってる!」

「気合い!」

「機巧に気合いを求めない!」

白線の向こうから、小さな舟が飛び出した。

薄い板を何枚も折り重ねた船体。

帆は表と裏に一枚ずつ。

船底にも甲板にも操舵輪があり、ひっくり返っても進める形だ。

その船首に、一人の少女が立っていた。

短い灰緑色の髪。

左右で形の違う靴。

片方は重い銀底。

片方は薄い風底。

背中には、ほとんど透明な旗。

布には、開いた六つの弧。

どの弧も中央へ届かず、真ん中に丸い空白が残っている。

少女は長い棒の先につけた網を、白線へ伸ばしていた。

網の中には、小さな銀色の紙舟。

少女は網を引く前に、紙舟の六つの折り角を素早く数えた。最後に透明旗の中央の空白へ、ふっと一息だけ吹き込む。誰かの側を先に満たさないための、彼女なりの癖らしい。

右親指には細い白布。痛む指の代わりに左手で網索を結んでいる。今日、重い銀底は左足。明日は左右を入れ替えるつもりなのか、風底の靴紐だけ結び目が逆だった。

「取れた!」

少女が叫ぶ。

直後。

横倒しの第一歩号が迫った。

「前!」

カナタが叫ぶ。

「見えてる!」

少女が答える。

「どいてくれ!」

「そっちがどいて!」

「舵が効かない!」

「空の折り目へ休重錨を刺すからでしょ!」

「初めてなのに知ってるのか!?」

「初めてでやる人がいると思わなかった!」

二隻の間。

白線の向こうから、透明な布が飛んでくる。

布の先に、誰かの手。

紫色の空。

逆さまの人影。

「エル!」

少女が叫ぶ。

名を呼んだところで、喉が一度だけ引っかかった。二度目は出ない。少女は代わりに、網を持つ左手を伸ばした。

網を放し、透明な布へ手を伸ばす。

第一歩号の船首が、折り舟の裏帆へ迫る。

エルと呼ぶ声も、衝突を避けろという警告も聞こえた。カナタは船を先へ出すのではなく、透明な布の手前へ一歩を置くほうを選んだ。

「取る!」

カナタは白旗を抜いた。

「標術――《未踏路》! あの布の手前!」

一歩分の光板。

白線へ触れた瞬間、直角に折れた。

こちら側へ戻る坂になる。

「道まで帰ってくる!」

「この岸では、向こうへ行くものが全部こっちへ返る!」

少女は曲がる光板を踏み、最後の一歩を跳んだ。

透明な布を掴む。

同時に、白線から吹く風が彼女をこちらへ弾いた。

カナタが腰を抱える。

「取った!」

「離さないで!」

「任せろ!」

「全部って言わないの?」

「両手が塞がってる!」

二人は光板へ落ちる。

第一歩号の船首へ転がる。

折り舟の裏帆へ、休重錨の円盤が引っかかった。

さらに少女の網が、岸に張られた旗索へ絡む。

三つが一本になる。

「ルゥ!」

「今度こそ重さを戻す!」

ルゥは操舵輪を全力で回した。