第122話 第一章「空の折り目へ刺さる」後編
第一歩号は白線から離れる。
離れたまま、旗索に沿って猛烈な勢いで岸へ滑った。
白い折り目に沿って、巨大な町が伸びている。
半分は青空側。
半分は紫空側へ垂直に折れている。
家々は床にも壁にも建ち。
六本の大塔が、白線をまたいでいた。
町の外周には、数えきれないほどの旗。
赤。
青。
金。
黒。
旗竿の根元には、一枚ずつ番号板。
第一到達者。
第十八到達隊。
第九百二十七到達旗。
「旗がいっぱいだ!」
カナタの目が輝く。
「俺の場所、残ってるか!?」
「今それ!?」
進行方向に、大きな看板。
白い文字。
――到達旗の新設禁止。
「何て書いてある!」
「旗を立てるな!」とルゥ。
「俺の名前は書いてない!」
「全員に言ってる!」
第一歩号が看板へ突っ込んだ。
休重錨が板を真ん中から受け止める。
がん、と鐘のような音。
看板は二つに割れた。
「第五翼が守った!」
「看板を壊した!」
次に、船は到達旗の間へ入った。
帆が一本目をさらう。
旗索が二本目へ絡む。
三本目の竿が船腹を滑り、四本目と五本目を倒す。
整然と並んでいた旗が、順番に傾いていく。
一列。
二列。
三列。
「止めてぇぇぇ!」
少女の絶叫。
「休重錨!」
カナタが円盤の取っ手を引く。
六本の銀枝が開いた。
地面ではなく、都市の壁側へ刺さる。
第一歩号が九十度回る。
道が壁になり。
壁が床になる。
その先に、巨大な石碑があった。
中央には、大きな一文字。
――一。
「そこだけ読める!」
「喜ばないで!」
第一歩号は石碑の土台へ突っ込んだ。
石碑が揺れる。
上に載っていた金属の数字が外れ、船首の円盤へ落ちた。
一。
ぴたりとはまる。
船は、倒れた旗と割れた看板と折り舟を巻き込み、白い旗布の山へ突っ込んで止まった。
ぼふん、と何百枚もの布が舞う。
しばらくして、旗布の山からカナタの腕だけが出た。
「世界の果て……到達……!」
灰緑髪の少女が、隣から這い出す。
透明な旗を抱えたまま、拳を震わせている。
「新設禁止の前に、古い旗を二百一本倒す人がある!?」
「百三十七じゃないのか!」
「増えた!」
船首から、金属の一が落ちた。
からん、と気まずい音がした。
灰緑髪の少女の名は、ユラといった。
十五歳。
折岸都市オリベの《裏書き》見習い。
そして、第一歩号が倒した到達旗二百一本の整備担当だった。
右親指の白布は、さっきより赤くにじんでいた。旗縄を取ろうとした作業員へ、ユラは左手を先に出す。
「私がやる。誰かよりはまし」
「誰かと比べても、親指は治らない」
ナギに言われ、ユラは一瞬だけ口を閉じた。話す言葉は棘が先に出る。けれど弁償板の下端には、逆向きの小さな字で《けが人は先に薬場へ》と書いてあった。紙の上では、声よりずっと柔らかかった。
「弁償」
ユラは細長い板を、カナタの鼻先へ突き出した。
数字が三列。
「読めない!」
「二百一本」
「旗は折れてない!」
「倒れた」
「立てれば直る!」
「順番が変わった」
「旗に順番があるのか?」
「この町では、ある」
周囲では、白い作業服の人々が旗を一本ずつ起こしていた。
好きな場所へ戻すのではない。
番号板を読み。
古い旗を白い折り目の近くへ。
新しい旗を外側へ。
第一到達旗。
第二。
第三。
何千本もの旗が、世界の果てへ来た順番を地面へ縫い止めている。
「最初の旗が、こんなにあるのか」
カナタは感心した。
「最初は一つだろ」
「遠征隊ごとに、自分たちが最初だって言ったから」
「なんで?」
「北から来た最初。夜に着いた最初。二人組で来た最初。料理人の最初。片方の靴を失くして着いた最初」
「俺は?」
「休重錨を空の折り目へ刺して、到達旗二百一本を倒した最初」
「立てられる!」
「立てない!」
ルゥが後頭部を工具の柄で叩いた。
「先に船」
第一歩号は、旗林の横にある修理桟橋へ引きずられていた。
船体は四か所へこみ。
帆は二枚裂け。
銀枝の一本は紫空へ向いたまま戻らない。
休重錨には、第一到達碑の《一》がはまったまま。
「外れない」
ルゥが工具を差し込む。
「船名板にしよう!」
「数字だけ!」
「第一歩号の一!」
「他人の碑から落ちた一!」
「向こうから来た!」
「ぶつかって取った!」
「運命!」
「事故!」
響路士席で、ナギは響路台を組み直していた。
船首の衝突で、小さな響瓶が三つ割れている。
代わりに、到達旗の折れた番号板を円形に並べた。
「それ、使える?」
カナタが覗く。
「全部、来た場所を覚えてる」
「旗だから?」
「旗の根元だから」
「同じだ!」
「違う」
ナギは一枚ずつ指で叩く。
一。
三十二。
二百七。
別々の音。
どの板も、白い折り目のほうへ薄い返りを持っている。
「向こうから聞こえた三つ、探す」
「世界の果ての向こうへ返事!」
「まだ」
「聞こえたぞ!」
「聞こえたことと、届くことは別」
ナギは響路旗を広げる。
五つの音紋。
それぞれが、今までつないだ場所を持っている。
トマリギ島。
三番港。
ミナモ。
ノクティル。
カゲノハ村。
五つの返路。
世界の果てへ来た今も、全部が同じ方向にはない。
「一つずつ現在確認」
「今?」
「船を直す間」
「俺は旗を直す!」
「倒した旗」
「到達の練習!」
ユラが弁償板を増やした。
「今の言葉、追加」
「言葉にも弁償!?」
ナギは鈴を鳴らす。
トマリギ島へ。
ちりん。
長い間。
返事が一つ。
『始標塔。イオラ。今、ここ』
ナギの母の声。
三番港へ。
銅鈴が三つ、別々に返る。
『再会塔。ミオ』
『鐘歩島便。スズ』
『鉄歩工房。テオ』
「三つを一つにしない」
ナギはそれぞれ別の欄へ書く。
ミナモ。
少し遅れて、機巧音。
『次稿工房。キリ。未完成三十七件。本人応答あり』
「多い!」とカナタ。
『昨日より二件減った』
「完成した!」
『渡した』
「四番目!」
ノクティル。
夜色の五つ。
『休泊港。リラ。停泊船、四十二』
「増えた!」
『止まれる船が増えた』
「進んでない!」
『休む道が増えた』
ザンバの灰旗の輪が、わずかに光る。
最後。
カゲノハ村。
遠い。
連標網をいくつも渡る。
すぐには返らない。
カナタは響路台の前へ座る。
一呼吸。
二呼吸。
三。
立つ。
「遅い!」
「世界の果てまで来たから」
「声を大きくする!」
「空の折り目を割らないで」
そのとき。
白線の向こうから、先ほどの音。
こん。
こん。
間。
こん――。
今度は、最後に細い擦過音がついている。
紙を折る音。
「来た!」
カナタが響瓶へ顔を近づける。
ナギは手で止めた。
「同じ人」
「分かる?」
「迷い方が同じ」
「返事する!」
「何て」
「こんにちは!」
「声が通るか分からない」
「大きく!」
「大きさの問題じゃない」
ナギは五つの音紋の間に、六つ目の小さな空白を書いた。
点ではない。
まだ返路がない相手。
名前も。
場所も。
音の意味も分からない。
だから、埋めない。
「六つ目?」
カナタが訊く。
「未確認」
「いる?」
「返事らしい音はある」
「じゃあ、いる!」
「本人確認はまだ」
「厳しい!」
ユラは、ナギの帳面を横から見ていた。
六つ目の空白。
透明旗の中央と同じ形。
「それ」
「何?」
「消さないで」
「消さない」
「町では、向こうからの音は《反響》って書かれる」
「違うの?」
ナギが訊く。
ユラは白い折り目を見る。
「違う」
「どうして分かる」
「七年、返事をもらってる」
胸へ抱えた銀の紙舟。
開くと、左右が逆の文字。
ユラは開く前に六つの角を確認し、右端を二度なぞった。向こう側でエルが考える時も、同じ場所へ爪を置く。その微かな擦れを、七年ぶんの紙が覚えている。
最初の行は、鏡にかければ読める。
――きょうも、あなたの空が落ちませんように。
普段のユラなら口にしない長さの願いだった。
ルゥが覗く。
「鏡文字」
「向こうからなら正しい」
紙の端に、短い名前。
――エル。
「先ほどの人?」
ナギが訊く。
「たぶん」
「本人確認は?」
「会ったことない」
「じゃあ空白」
「名前はある」
ナギは六つ目の欄へ書く。
――エル。
その下。
――生存、未確認。
――応答音、三。
――向こう側がある可能性、高い。
「高いなら、行く!」
カナタが白旗を担ぐ。
ユラが襟を掴む。
「行けない」
「道を作る!」
「全部こっちへ折り返される」
「もっと強く!」
「十三年前、それをやった」
ユラの手が強くなる。
「橋も。船も。人も。半分、空の外へ落ちた」
旗林の奥。
六本の界塔が低く鳴った。
白い折り目から、町へ一本の線が走る。
白と黒。
第一歩号の船体に、小さな印が浮かんだ。
――内。
ユラの紙舟には。
――外。
「岸守長が来る」
町の人々が道を空ける。
白と黒の外套を着た男が、六本の塔の中央から歩いてきた。
四十代ほど。
短い白髪。
背中の旗も二色。
中央に一本のまっすぐな境界線。
男が一歩進むたび、壁へ落ちかけていた荷車が道へ戻る。