第123話 第二章「旗だらけの岸」前編

左右の靴底は同じ厚さではない。左が半指ぶん高く、古い脚の差を埋めていた。それでもセイガは境界線の上だけを選び、どちら側へも踵を落とさない。

旗を持つのは左手。人へ触れる時だけ使う右手は、今は外套の内側にしまわれていた。歩くたび、親指が白黒の縫い目を一度なぞる。町を分ける線を確かめているのか、自分が線から外れていないと確かめているのか、見ただけでは分からなかった。

「岸守長セイガ」

ユラが小さく言う。

セイガは倒れた旗。

割れた看板。

へこんだ第一到達碑。

船首にはまった《一》

最後に、響路台と六つ目の空白を見る。

「外来船」

低い声。

「返事のない相手を、数に入れるな」

「返事はある」

ナギが答えた。

「反響だ」

「音が変わってる」

「聞く者が意味を足している」

「記録なら問いで変わらない」

ナギは鈴を一度鳴らす。

「エル。今、どこ」

白い折り目。

長い間。

こん。

こん。

間。

こん――。

先ほどより、三音目が近い。

セイガの目が、ほんの一瞬だけ揺れた。

右手が外套の胸元へ動き、そこで止まる。セイガは何も取り出さず、白黒の線をもう一度、親指でまっすぐにした。

「知ってる音?」

ナギが訊く。

「知らん」

「今、知ってる顔をした!」とカナタ。

「顔で分かるようになったの?」とルゥ。

「少し!」

セイガは二色旗を振る。

「標術――《界定》

白黒の線が、響路台と白い折り目の間へ走った。

六つ目の音が切れる。

紙舟へ《外》の印。

ユラの透明旗にも。

――外。

「それを渡せ」

「嫌」

「閉岸式まで、外から来たものを内へ置けない」

「閉岸?」

ルゥが眉を寄せる。

「三日後、《折返し潮》が来る」

セイガは紫空を示す。

遠くに、雲と星を巻き込む濃い波が見える。

「今夜から六本の界塔と全到達旗を結び、空の折り目を閉じる」

「向こう側は?」とナギ。

「なくなる」

ユラの顔から色が消える。

「エルたちが、潮に押されてる」

「だから閉じる」

「来ようとしてる!」

「来れば、こちらも落ちる」

「迎える場所を作る!」

「十三年前、作って失敗した」

セイガはカナタの白旗を見る。

「ただし」

第一到達碑を示す。

「閉岸式に力を貸すなら、名板を置くことを許す」

「名板?」

「世界の果てへ到達した証だ。旗は新設できない。だが、第一到達碑の隣へ名を残せる」

カナタの目が動いた。

「カナタって書ける!」

「そこだけ喜ばないで」

ルゥが小声で言う。

セイガは背を向ける。

「日暮れまでに決めろ。船の修理は町が行う。外来者を閉じ込める法はない」

「出られる?」

「来た側へなら」

「向こうへは?」

「ここが終点だ」

ザンバの灰旗が、小さく揺れた。

終点。

かつて、彼がすべての道へ置こうとした言葉。

セイガは去った。

白黒の線だけが町に残る。

ナギの帳面。

六つ目の欄は、音を失った。

それでも、空白のまま消されなかった。

折岸都市オリベは、一本の長い港だった。

青空側には、旅人を迎える《青面港》

白い折り目の向こうには、門も窓も閉ざされた《裏面港》

町の人々は、裏面を港と呼ばない。

壁。

反影。

空の外。

名前をつけないことで、そこに誰もいないことにしていた。

「でも、家があるぞ」

カナタは紫空側へ顔を出す。

重さが変わり、髪だけ先に落ちる。

壁の向こう。

逆さまの塔。

遠い船。

白い線へ近づく人影。

「反影」

旗を起こしていた青年が言う。

年は十七ほど。

黒髪を短く切り、腰へ何十本もの旗縄を巻いている。

背中の旗は古い白。

中央に、小さな《一》と、その下へ長い修復糸。

トワは近づく旗なら糸のほつれまで見抜くのに、三十歩を越える顔は輪郭でしか分からない。今日は二十七歩目から霞む日らしく、カナタの白旗を見てから本人の顔へ焦点が合うまで、一呼吸遅れた。

動く床に弱いのか、腰の旗縄を握る指が白い。気分が悪い時ほど、旗竿の石突を親指で磨く。正しい言葉を選ぶ前に、喉の奥で一度だけ咳を殺した。

「人みたいに動くこともある」

「手紙を書く影がいるか?」

「見たいものを見てる」

「名前は?」

「トワ」

「影の?」

「俺の!」

「先に言え!」

「訊いたの、そっち!」

トワは第一到達旗を守る《第一旗守》見習いだった。

第一到達遠征隊の子孫。

三百年近く前、空の岸へ最初の旗を立てた人々の名を、毎朝拭くのが仕事だ。

「一番目の旗、見せてくれ!」

「倒しただろ」

「全部同じに見えた!」

「それを旗の前で言う?」

トワは第一到達碑の隣へ立つ。

一番古い旗だけは、ほかより太い竿を持っている。

布は白く褪せ。

中央に、六つの星。

その下へ文章が刺繍されていた。

「読める?」

「星!」

「文字」

「長い!」

ルゥが読み上げる。

《我ら、空の岸へ初めて立つ。ここより先を、外と定める》

「格好いい!」

「最後まで聞いて」とルゥ。

《後から来る者は、我らの旗を見て帰路を知れ》

「帰る旗?」

「到達旗」

トワは布の端を直す。

「この旗が立ってから、オリベができた。来た人は、自分の旗を後ろへ立てた。旗林が岸を支えてる」

「何で?」

「旗が来た道の重さを覚えてるから」

ルゥが地面へ銀鋲を当てる。

《継ぎ路》

細い銀糸が、第一到達旗の根元へ入る。

そこから何千本もの旗へ。

さらに町の六本の界塔へ。

「本当に支柱になってる」

「抜けば町が落ちる?」

カナタが旗竿へ手をかける。

「触るな!」

トワとルゥが同時に叩いた。

「確かめただけ!」

「手で確かめない!」

「でも、順番まで必要?」

ナギが訊く。

到達旗の根元へ、耳を近づけている。

古い旗ほど、深い音。

新しい旗ほど、高い音。

確かに、重さの層を作っている。

けれど。

「順番が少し変わっても、全体の響きは同じ」

「違う」とトワ。

「第一は第一だ」

「役目?」

「誇り」

「町を支えるのは?」

「両方」

ナギは青い帳面へ書く。

――到達旗林。

――構造上必要、旗ごとの来路。

――番号順、構造上の必要は未確認。

「未確認って書くな!」

「確認してない」

「第一旗守が言った!」

「本人の意見」

「役目の記録!」

「分ける」

トワはナギを苦手そうに見る。

「何でも分けるんだな」

「同じにすると聞こえなくなる」

「何が」

「本当の違い」

旗林の端で、小さな子どもが旗竿を抱えていた。

九歳ほど。

髪を左右で違う高さに結び、片方の靴だけ大きい。

笑うと、欠けた前歯が一本見えた。白い折り目が強く光ると、ネネは反射的に右目を閉じる。昔ぶつけた頭のせいで、眩しさのあとだけ視界の端が短く消える。

「一、二、三」

三つ数えてから目を開く。大人に心配されたくないので、本人は《まばたきが長いだけ》と言い張っていた。

「トワ兄!」

「ネネ。そこ、まだ持つな!」

「倒れる!」

「だから離れて!」

ネネが抱える旗は、細い。

布には片方だけの靴。

番号板は、第九百二十七。

「これが、片方の靴で着いた最初?」

カナタが目を輝かせる。

「ひいひいおばあちゃん!」

ネネは胸を張る。

「霧の中で片目を閉じて、左の靴をなくして着いた!」

古い記録には、勇ましい到達文だけではなく、別の手で書かれた一行もある。

――ネマ、霧で右目を傷め、左足首を捻る。怖いと三度言い、四度目に進む。

英雄の旗にも、恐れた人の身体が残っていた。ネマは今の問いへ答えない。片靴と、食い違う二つの記録だけが、その日の人を違う角度から伝えている。

「格好いい!」

「事故記録」とトワ。

「到達記録!」とネネ。

「俺と同じ!」とカナタ。

「同じにしないで!」とルゥ。

ネネの旗は、倒れた列の外側へ戻されるところだった。

けれど番号札が一枚なくなっている。

「二百一本の中に混ざった」

トワが言う。

「番号がないと立てられない?」

「順番が分からない」

「旗の本人は分かる!」

ネネが布を抱く。

「靴!」

「記録上、番号が要る」

「今、倒れる!」

旗竿の穴から、白い風が噴き出す。

裏面港へ向かっていた重さが、青空側へ流れる。

トワは縄を巻く。

「仮置きする」

「どこ?」

「番号が見つかるまで倉庫」

「外すの?」

「仕方ない」

ネネの顔が曇る。

カナタは旗竿を受け取った。

「俺が持つ!」

「何で!」

「番号を探す間、ここに立つ!」

「人間を支柱にしない!」

「得意だ!」

「何が!?」

白旗を背中へ。

片靴旗を両手へ。

カナタは穴の上へ立つ。

風が下から吹く。

体が浮く。

「重い!」

「旗は道の重さを持つって言ったでしょ!」

トワが縄を腰へ巻く。

「いつまで?」

「番号を見つけるまで!」

「二百一本の札から?」

「できるまで!」

「日暮れまでに閉岸式の返事をするんでしょ!」とルゥ。

「同時に!」

「動けない!」

「ここから考える!」

ネネが旗の根元へ座った。