第124話 第二章「旗だらけの岸」後編
「私も」
「危ないぞ」
「ひいひいおばあちゃんの旗」
ネネは旗縄の端を足指で拾い、両手を空けて結び目を直した。トワが取り上げようとすると、欠けた歯を見せて睨む。
「子どもだからって、持つだけにしないで。どこへ仮置きするか、私にも訊いて」
答えを知っている子どもの声ではない。自分の家の旗について、初めて大人と同じ卓へ入りたい子どもの頼みだった。
「じゃあ、一緒!」
「勝手に役目を渡さないで」
ナギは片靴旗へ耳を当てた。
古い風。
霧。
片方の靴が空へ落ちる音。
その奥。
白い折り目の向こうから、紙を折る小さな音。
「エル」
ユラが顔を上げる。
ナギは響路旗を一度だけ振る。
界定の線がある。
音は通らない。
それでも、片靴旗に残る古い来路をたどると、線の手前まで行ける。
「旗の裏」
「何?」
「向こうへ何も書いてない」
ナギが言う。
カナタは片靴旗を見た。
表には、靴の紋。
名前。
到達の言葉。
裏は真っ白。
「全部そうだ」
ユラが旗林を見る。
「向こうから見たら、何もない旗」
「いっぱいあるのに!」
「こちらへ見せるために立てたから」
トワは第一到達旗を見る。
表だけの記録。
後から来る者。
ただし、こちら側から来る者だけ。
「向こうに人がいるって、決まってない」
「返事がある」
ナギが答える。
「反響だ」
「同じ言葉はセイガが言った」
「岸守長が正しい」
「今のは本人の意見」
「また分ける!」
白い折り目の向こう。
逆さまの人影が一枚の布を掲げた。
文字は左右が逆。
ユラが目を細める。
「《潮、三日》」
「エル?」
「たぶん」
「本人確認は?」とナギ。
「声が届けば」
「届ける」
「どうやって?」
ナギは到達旗林を見る。
何千本もの来路。
全部がこちら側へ向く。
「一つずつ聞く」
「日暮れまでに?」
「全部じゃない」
片靴旗。
第一到達旗。
最近の旗。
青空側から来た道の違いを使い、白線へ触れる場所を探す。
「響路は、道を作らない」
ナギは自分の旗を握る。
「でも、返事のある隙間は聞ける」
カナタは片靴旗を支えたまま笑った。
「じゃあ、先客にこんにちはだ!」
「まだ、相手の言葉が分からない」
「こんにちはは分かる!」
「なんで?」
「友達になる最初の言葉!」
ユラは少し笑った。
「エルに書く」
「俺も!」
「字は?」
「カナタ!」
「名前しか書けない」
「最初に大事!」
旗林の下で、響路士席は空いていた。
ナギはそこへ戻らず、何千本の旗の間へ歩き出す。
返事の道を探すため。
番号の一番ではなく。
まだ名前しか分からない六つ目の相手へ、こちらがいると伝えるために。
ユラの工房は、第一到達碑の中にあった。
表から見れば、ただの石の土台。
裏へ回ると、小さな留め金が六つ。
上。
下。
右。
左。
表。
最後の一つだけ、どこにも向いていない。
「隠し扉!」
カナタが目を輝かせる。
「点検口」
「隠れてる!」
「第一到達碑を内側から直すため」
「秘密の工房!」
「勝手に名前を増やさないで」
ユラが六つ目の留め金を押す。
石壁が横ではなく、奥へ折れた。
中には、銀色の紙舟が何百も吊られていた。
透明な布。
鏡文字の手紙。
小さな地図。
青空側では読めない記録ばかり。
「七年分?」
ルゥが訊く。
「最初は一枚」
ユラは最も古い紙を取る。
子どもの大きな字。
左右が逆。
――そら。
「間違ってる?」とカナタ。
「鏡文字」
「読めるぞ!」
「字を覚えたからね」
「俺より先に間違えた!」
「競わないで」
ユラは紙を裏返す。
下に、別の手。
――こっちでは、よめる。
「エル?」
「うん」
八歳のユラは、書き損じを白い折り目へ捨てた。
翌日、同じ紙が戻ってきた。
知らない文字を添えて。
次の手紙。
――あなたの空は、何色。
――青。
――こっちは紫。
――雲は下へ行く。
――こっちは上。
好きな食べ物。
嫌いな授業。
靴の形。
町の鐘。
ユラの返事は、会話より長かった。
――私は言い方がきついと、また叱られた。そっちでは、怒った時に何を直す。
エルの返事。
――皿を逆さに干す。全部落ちるから、怒っているのがすぐ分かる。
紙の上でだけ、二人は失敗も、恥ずかしい癖も、相手へ先に渡せた。七年の友達は、きれいな励ましだけで作られてはいなかった。
会ったことのない二人が、互いの世界を少しずつ書いた。
「友達だな!」
カナタが言う。
ユラは頷く。
「会ってなくても?」
「七年も返事したなら、十分!」
ナギは手紙を一枚ずつ叩く。
紙質が違う。
折り方も。
返る間隔も。
「同じ人が書いてる」
「字で分かる?」
「音で」
書き始めに、爪が紙へ当たる。
考えるとき、右端を二度なぞる。
最後の折りだけ少し強い。
「今聞こえた三つも?」
「最後が同じ」
ナギは青い帳面の空白へ、線を足す。
――エル。
――過去手紙、同一人物の可能性、高い。
――現在応答、界定により途絶。
「もう本人確認でいい!」
「会ってない」
「ユラは信じてる!」
「ユラの確認」
「厳しい!」
「でも、消さない」
ナギは空白の欄を残す。
ルゥは工房の中央にある模型を見つけた。
二枚の薄い板。
間に白い隙間。
板の重さは、互いに反対。
六つの輪が並ぶ。
一つ目には、外へ伸びる矢印。
二つ目には、戻る矢印。
三つ目には、二本の線が一点へ集まる紋。
四つ目には、途中で終わる線。
五つ目には、散らばる点。
六つ目だけが空白。
「これ」
ルゥの指が止まる。
一本目。
未踏路。
二本目。
帰る場所。
三本目。
再会点。
四本目。
次の手へ渡す途中。
五本目。
現在地。
「同じだ!」
カナタが叫ぶ。
「旅の旗と似てる」
「俺たちを待ってた!」
「逆かも」
「何が?」
「どこへ行っても必要だったから、似た形になる」
ルゥは六つ目の空白へ触れる。
「これは?」
「十三年前の《両岸橋》」
ユラが答えた。
「青空側と紫空側をつなぐため、六本の岸杭を使う予定だった」
「六つ目がない」
「作られなかった」
「間に合わなかった?」
「セイガが、いらないって言った」
カナタが模型を見る。
「五つあれば、あと一つは俺が作れる!」
「十三年前も、そう言った」
ユラの声が低くなる。
「表側の橋を全部作って、向こうへ押しつけた」
模型の上。
一本の太い線が、六つ目の空白を越えている。
その先に、黒い染み。
「向こうの重さは?」
ルゥが訊く。
「着いてから合わせるつもりだった」
「合わせられなかった」
「表から行った人は、紫空で上へ落ちた。向こうから来た船は、青空の下へ落ちた」
「どっちかに決めたから」
ザンバが模型を見る。
「境界を一本にした」
「お前の《終点》みたい?」
カナタが訊く。
「似ている」
ザンバは否定しない。
「片方を道にし、残りを外へする」
「今の《岐点》なら?」
「二つへ分けられる」
「表と裏!」
「それだけでは、間が落ちる」
「三つ目!」
「まだない」
「作る!」
「お前一人なら好きにしろ。町ごとはやめろ」
ルゥは模型へ銀鋲を置く。
表の板。
裏の板。
その間に、一歩分の隙間。
「六つ目は、橋の部品じゃない」
「何?」
「場所」
「空いてるぞ」
「空いてるから必要」
「難しい!」
ユラは最近の手紙を開いた。
結び目を解く左手が、二度滑った。右親指を庇ってきたせいで、左の腱まで張っている。ユラは反射的に「誰かよりは」と言いかけ、ナギの視線に気づいて飲み込んだ。
「痛い。だから、ここだけルゥ」
初めて役目を一つ渡す。ルゥは何も褒めず、銀鋲の先で封糸だけを切った。
鏡文字。
細い地図。
紫の波。
船団。
白い折り目へ向かう矢印。
その横。
――迎えの場所を、もう一歩。
「エルも、六つ目を作ってる」
「向こうから?」
「半分」
ユラは透明旗を広げる。
布の縁で糸が途切れている。
切られたのではない。
向こう側へ続くよう、最初から半分だけ織られている。
「こっちも半分?」
「うん」
「つなげれば完成!」
カナタが言う。
「また全部こっちで決める気?」
ユラの問いに、カナタの口が止まる。
「つなぐのはルゥ!」
「人を変えても同じ」
「じゃあ、どうする!」
「向こうの一歩を待つ」
「潮が来る!」
「分かってる」
「閉岸されたら、来ない!」
「分かってる!」
ユラの声が工房へ響く。
七年。
返事を待ち。
会う場所を考え。
今、三日後に岸が閉じる。
待つだけでは、失うかもしれない。
急げば、十三年前を繰り返す。
「難しいな」
カナタが小さく言う。
「最初の一歩より?」
「百倍」
「なら、考えて」
「走りながら!」
「止まって!」
「五番目!」
カナタは床へ座った。
三呼吸。
立つ。
「長い!」
「三呼吸!」とルゥ。
工房の外で、六本の界塔が鳴った。
日暮れまで、あと一刻。
ナギの小鈴が揺れる。
連標網から、遅い返事が近づいていた。
カゲノハ村。
今、生きている故郷から。