第125話 第三章「響きは鏡にならない」前編
カゲノハ村からの返事は、六本の界塔が二度目に鳴ったころ届いた。
九つの音が重なったところで、ナギの口にまた金属の味が広がった。左の耳栓を深くし、五拍を数える。今回は五つ目まで届いたが、額の奥が脈打つ。
「聞き分けは三路まで。残りは書き手を二人」
能力が落ちたとは言わない。今できる数を先に申告する。ルゥが時刻を、ユラが鏡文字を受け持ち、響路士一人の耳へ全てを押し込まない形にした。
第一到達碑の工房。
響路台の代わりに、ナギは六枚の番号板を円へ並べる。
真ん中は空けた。
「何で六枚?」
カナタが訊く。
「折り目の重さが六方向」
「六番目!」
「まだ」
「何でもまだって言う!」
「確認してないから」
ナギは一枚目を鳴らす。
細い金属音。
二枚目。
低い木の音。
三枚目。
銀の余韻。
六枚とも違う。
「同じ音にしないの?」
ユラが訊く。
「折り返されたとき、どこから来たか分からなくなる」
「鏡みたいに逆になる」
「響きは鏡にならない。返った場所ごとに、違う音を残す」
ナギは鈴を五回。
カゲノハ村へ、現在確認。
長い間。
連標網の途中で、いくつもの中継音が返る。
ミナモの銀枝。
三番港の銅鈴。
トマリギ島の帰鐘。
最後。
へこんだ薬箱の底を叩く音。
こん。
こん。
こん。
こん。
こん。
『カゲノハ村。発着場の現標板。今、ここ』
「アカリ!」
カナタが番号板へ顔を近づける。
『近い』
「世界の果てだぞ!」
『声が』
「場所は遠い!」
『返事は近い』
「ナギみたい!」
『連標網だから』
アカリの後ろで、別の音が三つ返る。
天頂門補修台。
『安全階段、二十八段。今日は一段、短くする!』
「増やしたんじゃなかったのか!」
『第一歩号の帆柱が当たりそうだから!』
「俺たちのため!」
『村のため!』
作業小屋。
『ルゥさんの机、右の引き出し三段!』
「二段だった!」
『部品が増えました!』
「重さは!」
『脚を一本追加!』
「机に五本脚は要らない!」
『今は立ってます!』
「勝手に完成させないで!」
『途中です!』
新しい発着場。
『外海船、一隻。昨日着港。船員三。旅人一』
「知らない船!」
『知ったから、今は名前がある』
「誰!」
薄い木札を、遠慮がちに五回叩く音がした。
『ソラネ。カゲノハ村の旅人宿。今、ここ』
「誰だ!」
『昨日来た人』とアカリ。
『外海の風棚から来ました』
旅疲れの混じる、四十二歳の女の声だった。
『古い宿札を持っていたんです』
その前日。
外海航路の小舟が発着場へ着いたとき、ソラネは擦り減った木札を胸へ下げていた。
――苔灯宿。
ソラネの靴底は、右だけ二枚、左は一枚。長い航路で歩き方が変わり、古い案内札より先に身体のほうが現在へ作り替えられていた。笑うと左奥の歯が一本ない。
札を見せる手は右だったが、アカリが古い宿へ入れないと告げた瞬間、木札を受け取ったのは左手だった。子どもの頃に直された利き手が、怒りや不安の時だけ戻る。
「そこに住んでいる人の名前を、先に教えてください」
古い権利を押し通すより、今の受取人を確かめる質問が先に出た。
十年以上前の旅案内に載っていた、カゲノハ村の宿名。
「そこへ泊まりたいんです」
ソラネは言った。
アカリは古い村図を開いた。
苔灯宿の建物は残っている。
けれど、今は三人家族の家だった。
窓辺には子どもの靴。
戸口には、宿ではなく畑当番の札。
「宿じゃない」
「札にはあります」
「札が古い」
「建物はある?」
「ある。でも、知らない旅人を受け取る家じゃない」
アカリはソラネをそのまま歩かせなかった。
薬箱の横へ結んだ黄緑色の旗を外す。
布の中央には、文字のない宛名札の輪郭。
まだ標術名はない。
まず、紙札へ《苔灯宿》と書いた。
旗は動かない。
次に、《旅人宿》と書く。
やはり動かない。
「場所の名前では働かない?」
セノが横から覗く。
「まだ決めない」
アカリは現標板を確かめた。
今の旅人宿の受取人は、宿守のキヌ婆。
ただし、今朝の返事はまだない。
アカリは小鐘を五回鳴らす。
「キヌ婆。今、どこ」
少しして、村の東側から杖で板を叩く音。
こん。
こん。
こん。
こん。
こん。
『旅人宿の入口。今、ここ。客、一人ぶん受け取れるよ』
アカリは紙札へ《キヌ》と書き、現標板の新しい返事へ重ねた。
黄緑の旗が、弱く東へ傾く。
「動いた!」
セノが叫ぶ。
「道は?」
ソラネが訊く。
「出ない」
旗が示すのは、受け取る人のいる方角だけだった。
その間には、工事中の南荷道。
昨日から一段下がった階段。
古い村図では通れることになっている、閉鎖中の薬師橋。
黄緑の旗は、閉鎖札を避けてくれない。
まっすぐキヌ婆へ傾くだけ。
「道は私が選ぶ」
アカリは新しい村図を開く。
「受け取る人は、旗に聞く」
ソラネの荷を一つ持ち、先へ歩いた。
黄緑の布は弱く東を示す。
アカリはその方向だけを確かめ、現在の階段と根道を選ぶ。
古い苔灯宿の前では、家の子どもが窓から手を振った。
ソラネは木札を見てから、今の家へ頭を下げる。
そこへ入ろうとはしなかった。
旅人宿の入口では、キヌ婆が杖を持ったまま待っていた。
六十七歳。左手の鍵束を二度鳴らし、ソラネの靴を一目見る。遠い顔は霞んでも、近くの靴紐と荷擦れはよく見えた。旅人の靴は部屋番号ではなく、疲れの深い順に並べる。
「昔の苔灯宿へ戻す部屋はないよ」
温かい声だが、断り方は明確だった。
「今の一号室なら空いている。空っぽじゃない。次の客を待っていた部屋だ」
受付棚には、縁の焦げた古い椀が鍵受けとして置かれていた。底に《アステル》の薄い傷。旅に出た者の道具を祭壇へして部屋を塞ぐのではなく、今日も鍵を置くために使っている。
「昔ここにいた人が戻っても、昔の部屋を明け渡すとは限らないよ」
キヌ婆はソラネではなく、遠い未来の帰還者へ言うように続けた。
「帰った人にも、今いる人にも、まず今日の戸口で名乗ってもらう」
迎えることと、昔の場所を返すことを同じにしない宿守だった。
杖の頭には、古い家の鍵と、今の宿の鍵が別々に下がっている。似ていても同じ鍵穴へは入らない。
「受取人、本人応答あり」
アカリが言う。
「旅人、ソラネ」
「今、ここ」
ソラネも五回、木札を叩いた。
黄緑の旗は、初めて一度も別の人へ傾かず、配達先まで届いた。
「宛先旗だねえ」
キヌ婆が笑う。
「仮なら」
アカリはすぐに答えた。
「標術名は、まだ空欄」
その直後、キヌ婆が荷物を置くため宿の奥へ入った。
旗は入口へ傾いたまま。
「動いた人は追わない」
ソラネが言う。
「最後に返事をした場所だけ」
「名前を知らなかったら?」
「書けない」
「返事がなかったら?」
「傾かない」
「道は?」
「作れない」
アカリは紙札へ記した。
――既知の名前。
――現在の返事。
――一度、正しい受取人へ案内。
――移動後は外す。
――道は作らない。
初めての成功は、できないことを五つ増やした。
それでも、ソラネは古い宿の家族を追い出さず、今日の旅人宿へ着いた。
現在のカゲノハ村。
響路の向こうで、アカリはその記録を一行ずつ読み上げた。
「俺がいない間に、知らない旅人を案内した!」
『村の仕事』
「俺も案内できる!」
『古い宿へ連れていきそう』
「札どおりだぞ!」
『だから止めた』
「厳しい!」
カナタは白い折り目を見る。
向こうには、エルたちの船影。
こちらには、到達旗で埋まった町。
古い札の場所へ旅人を押し込まず。
今、受け取る人の返事を待つ。
「カゲノハ村も、誰かにとっての向こう側になってるかもしれない」
口にしてから、カナタは少し驚いた顔をした。
アカリはすぐに答えない。
薬箱の底を一度だけ鳴らす。
『昨日、なった』
「何が?」
『ソラネの向こう側』
連標網の縁を、金色の古い音が横切った。
『たまには帰れ』
ナギは黒い記録札を一枚置き、今届いている声の列から外す。
カナタは古い声へ呼びかけなかった。
代わりに、アカリへ訊く。
「こっちの先客は、まだ名前が分からない」
『返事は』
「ある!」
「応答らしい音」とナギ。
『空欄を作る』
「カゲノハ村に?」
『名前が分かったら書く場所』
「俺より先に、知らないやつを?」
『カナタは旅先の欄にある』
「世界の果てって書いてくれ!」
『本人確認が取れたら』
「俺は本人!」
『場所の』
「厳しい!」
ソラネの声が、少し遅れて響路へ入る。
『世界の果てにも、旅人を受け取る人はいますか』
カナタは白い折り目の向こうを見る。
ユラ。
まだ会っていないエル。
閉じようとする岸。
旗で埋まった地面。
「いる」
すぐに言いかける。
止まる。
「いるか、聞く」
『返事、待ってます』
響路が静かになる。