第126話 第三章「響きは鏡にならない」後編

世界の果てには、まだ誰の受取札もなかった。

日暮れまで、あと半刻。

カナタたちは、オリベの到達証会館へ呼ばれた。

町で最も大きな建物。

床にも。

壁にも。

天井にも、番号札が並んでいる。

第一到達。

第十。

第百。

北風路最初。

夜間最初。

一人旅最初。

到達の仕方が違うたび、新しい一番が増えていた。

「全部一番!」

カナタが喜ぶ。

「一番が多すぎる」

ルゥは額を押さえる。

「でも、誰も二番じゃない!」

「そう見えるだけ」

トワが言った。

彼は第一旗守の外套へ着替えている。

動く床のせいで顔色は悪い。それでも旗竿の石突を磨く手だけは止めない。説明が長くなるほど喉が掠れ、最後の一語だけ咳へ変わる。

「第一旗守は、正しく記録される」

言い切ったあと、誰にも聞こえない声で付け足した。

「……面白くなくても」

正しい子孫として残るより、一度くらい自分の失敗で笑われたい。そんな願いを、本人だけが伝統への不敬だと思っていた。

白い布の胸に、《一》

その下に、補修糸を示す銀線。

「到達証には値段がある」

「売るのか?」

「船の停泊区画。倉庫の位置。界塔を使う順番。古い旗ほど、岸に近い権利を持つ」

「一番なら便利!」

「後から来た人は、外側」

「空いてる!」

「折返し潮では、外側から落ちる」

カナタの笑みが止まる。

会館の中央に、円卓。

到達旗の家々を代表する者が座っている。

第一到達家。

第十。

最古の修理組。

遠征商会。

旗林に場所を持たない新参者は、壁際に立つ。

ネネと母親も、片靴旗の番号札が見つからないため中へ入れない。

「旗はあるぞ!」

カナタが言う。

「番号が確認できない」と受付。

「本人がいる!」

「到達者本人ではない」

「家族!」

「記録上、順位が不明」

「難しい!」

ネネは片方だけ大きい靴で床を蹴る。

「ひいひいおばあちゃんは、一番だった!」

「何の?」

「片方の靴!」

受付は困った顔をした。

カナタは白旗を受付台へ置く。

「俺は?」

「到達旗なし」

「世界の果てにいる!」

「名板許可前」

「本人!」

「規則」

「狭い!」

ルゥが襟を引く。

「今は会議」

セイガは円卓の中央に立つ。

「折返し潮まで三日。閉岸式には、全到達旗の標力が要る」

反対する声は少ない。

十三年前の落岸を知る者。

家を失った者。

紫空から何かが近づくたび、重さが揺れる町で暮らしてきた者。

「閉じれば安全か」

ザンバが訊く。

「表側は」

「裏は」

「外だ」

「人がいる」

会館が静まる。

セイガの目が細くなる。

「証明は」

「返事」

ナギが青い帳面を開く。

「七年の手紙。現在応答らしい三音。問いで距離が変わる。記録ではない」

「推測だ」

「本人確認を止めたのは、界定」

「岸を守るためだ」

「確認しなければ、いないことにできる」

ナギの声は大きくない。

それでも会館の端まで届く。

「返事を聞かないことを、安全と呼ばないで」

ざわめき。

到達家の一人が立つ。

白い髭の老女。

「裏から来た船で、十三年前に何人死んだ」

「数えていない」とユラ。

「なら、いるか分からない」

「数えなかったから!」

「表側は百八人を失った」

「向こうも!」

「推測だ」

同じ言葉。

知らない相手を、数えない。

数えていないから、いないことにする。

五番目の旗を得る前のノクティルと同じ。

カナタは円卓へ一歩出る。

「俺が向こうへ行く!」

「だから話を飛ばさない!」

ルゥが腰を掴む。

「行って本人を連れてくる!」

「橋がない!」

「作る!」

「十三年前と同じ!」

ユラの声に、カナタは止まる。

会館の者たちは、その一瞬を見た。

未踏路士が迷った。

だからこそ、何人かの表情が変わる。

「閉岸式を手伝うなら」

セイガが言う。

「第一到達碑の隣へ、カナタの名を同じ大きさで刻む」

「第一と同じ?」

「到達順では最後だ。だが、空の岸を越えた船として記す」

「俺たち、まだ越えてない!」とルゥ。

「白線へ船首を出した」

「半分!」

「半分越えた最初!」とカナタ。

「増やさない!」

名を残せる。

父へ。

村へ。

自分へ。

ここまで来た証。

カナタは第一到達旗を見る。

会館の天井から、古い布が垂れている。

その下へ自分の名。

胸が熱くなる。

「条件は?」

《未踏路》で、六本の界塔を一つの閉岸線へつなぐ」

「一つに?」

「空の折り目を固定する」

ルゥが眉を寄せる。

「紫側の重さは、どこへ逃がす」

「外へ返す」

「外に船がいる」

「反影だ」

「返事がある!」

「確認されていない」

ナギの空白欄。

エル。

まだ未確認。

けれど、消せない。

「日暮れまでに決めるんじゃなかった?」

カナタが訊く。

「今が日暮れだ」

青空側の太陽が沈み始める。

紫空側では、同じ光が昇る。

白い折り目の上で、二つの時刻が重なる。

「俺は」

カナタは白旗を握る。

立てたい。

名を残したい。

向こうの先客にも会いたい。

両方。

いつもの答え。

「閉じない」

やっと言った。

会館がざわめく。

「でも、町も落とさない」

「方法は」とセイガ。

「探す!」

「三日で?」

「一歩ずつ!」

「答えではない」

「お前の答えは、向こうを消す!」

セイガの二色旗が揺れる。

カナタは続ける。

「俺の名板は、あと!」

「欲しくないのか」

「欲しい!」

「正直」とユラ。

「だから、向こうの名前も書ける板にする!」

「本人確認前」とナギ。

「先に確認!」

「順番はそれ」

トワが円卓から立つ。

「第一旗守として反対する」

「何に!」

「閉岸を延期すれば、外側の旗から落ちる。ネネの旗も。新しい旗も。守れない」

「じゃあ、外側を内へ!」

「古い旗を動かす?」

「空いてる場所へ!」

「どこに」

旗林は、旗で埋まっている。

誰かの到達。

誰かの誇り。

誰かの権利。

空白がない。

カナタは答えられない。

ネネが壁際から言った。

「私の旗、倉庫でもいい」

「嫌だろ!」

「落ちるより」

「でも、ひいひいおばあちゃんの!」

「なくならない」

九歳の子どもが、カナタより先に言う。

「番号がなくても、私が知ってる」

カナタは片靴旗を見る。

到達を残すこと。

場所を占め続けること。

同じではない。

まだ、うまく言葉にできない。

セイガは会議を終える。

「閉岸式の準備は進める」

「止める!」

「方法を示せ」

「示す!」

「三日後までに」

「一日で!」

「減らすな」とルゥ。

「早いほうがいい!」

会館を出ると、白い折り目の向こうに紫の波。

先ほどより大きい。

ユラの透明旗が、風もないのに揺れた。

ナギの六つ目の空白へ、かすかな音が戻る。

こん。

こん。

間。

こん――。

今度は、その後ろに人の声が重なっていた。

聞き取れない。

けれど、確かに誰かが叫んでいる。

カナタは白い折り目へ向く。

「こんにちは!」

声は届かない。

「もっと大きく!」

白旗を口元へ。

「標術――《未踏路》! 声の道!」

一歩分の光板が生まれる。

声が板を蹴り、白線へ走る。

界定の線へぶつかる。

こちらへ折り返される。

『こんにちは!』

自分の声が、町中へ返った。

「元気だな!」

「自分!」とルゥ。

紫空の人影が、両手を口へ当てる。

何かを叫ぶ。

聞こえない。

それでも、口の形だけは見えた。

ユラが鏡文字の手紙を握る。

「エルも、こんにちはって」

「分かる?」

「たぶん」

「本人確認は?」とナギ。

「まだ」

「じゃあ、届かせる」

四人と一人は、旗だらけの岸へ戻った。

空いている一歩を探すために。

オリベの六本の界塔は、同じ形をしていなかった。

第一塔は、青空側の道へ根を下ろす白い塔。

第二塔は、紫空側の重さを押し返す黒い塔。

第三塔は、船の到着を数える鐘塔。

第四塔は、出ていく風を整える帆塔。

第五塔は、到達旗林の標力を集める索塔。

六番目だけは、何も載っていない細い柱だった。

「完成してない!」

カナタが喜ぶ。

セイガは六番目の柱へ近づく前に、周囲の扉を目で数えた。入口二つ。避難口一つ。作業員七人。返事六つ。数の合わない一人へ視線を戻してから、ようやく柱を見る。

強い反射光に右目を細める。残像が消えるまで、境界の判断を急がない。安全を守る癖と、十三年前から抜けられない恐れは、同じ動作の中にあった。

「喜ぶ場所?」

ユラが訊く。

「四番目の町で覚えた! 空白には続きがある!」

「何でも未完成ならいいわけじゃない」

ルゥは第六塔の根元へ銀鋲を当てた。

《継ぎ路》

銀糸が石の内部へ入る。

空ではない。

何本もの設計線が途中まで来て、塔の中央で止まっている。

表から三本。

裏から三本。

「六本を一つへ集める塔じゃない」

「何へ?」

「ここで、いったん止める」

「塔なのに?」

「受け取る先が決まるまで」

「五番目!」

「少し似てる」

「褒めた!」

「旗を」

「俺をじゃない!」

第六塔の上には、台座だけがある。

旗穴は、円ではない。