第127話 第四章「裏へ送る一歩」前編

向きの違う六つの半円が、中央の空白を囲んでいる。

ユラの透明旗と同じ。

「十三年前、ここへ六つ目の岸杭を立てるはずだった」

ユラが言う。

「でも、届かなかった」

「どこから?」

「向こうから」

セイガが塔の階段を上ってくる。

二色旗を肩へ担ぎ、顔はいつもどおり硬い。

「第六杭は、裏岸が作る予定だった」

「じゃあ、待てばよかった」

カナタが言う。

「潮まで二刻だった」

「二刻ある!」

「橋台は半分しかなかった」

「一歩ずつ!」

「十三年前のお前がいれば、そう言っただろう」

「俺なら作った!」

「だから落とした」

セイガの声は低い。

「表側の岸守だった俺は、未完成の五塔を一つへ重ねた。こちらから橋を伸ばせば間に合うと考えた」

「向こうの返事は?」とナギ。

「来ていなかった」

「待った?」

「待てなかった」

「違う」

ナギは帳面を閉じる。

「来てないことと、待てなかったことは別」

セイガの目が細くなる。

「言葉を分けて、死者が戻るか」

「戻らない」

「なら同じだ」

「違う」

ナギは引かない。

「同じにしたら、次も待たなくなる」

風が第六塔を通る。

何も載っていない台座から、細い笛のような音。

ナギの鈴が応える。

「向こうの杭、まだある」

「見えるのか?」とカナタ。

「聞こえる」

紫空側。

白い折り目の向こう。

六本目に対応する細い振動。

遠い。

でも、消えていない。

「十三年前の記録では?」

セイガが訊く。

「今の潮で揺れてる」

「記録も揺れる」

「問いで変わる」

ナギは塔へ五つ叩く。

「向こうの第六杭。今、どこ」

長い間。

最初の返り。

弱い。

次。

少し近い。

最後に、紙を三度折る音。

「誰かが叩いてる」

「エル!」

ユラが台座へ手を置く。

「向こうも、第六杭を直してる」

セイガは紫空を見ない。

「直して何になる」

「迎える場所」

「橋はまた落ちる」

「同じ橋にしない!」

ルゥは台座へ白い帳面を広げる。

「表の重さを裏へ押しつけない。裏も表へ合わせない。第六塔で両方をいったん止めて、踏んだ人の重さへ合わせる」

「そんな場所はない」

「だから空白」

「空白は部品ではない」

「ミナモで同じことを言った人がいた」

「どうなった」

「町を落としかけた」

「悪い例ではないか」

「そのあと、直した」

「主に私が!」とカナタ。

「主にルゥとキリ」とザンバ。

「俺も!」

「物理的には多く壊した」

「役に立った!」

ザンバは第六塔の縁へ立つ。

白線の向こうを見下ろす。

重さが二方向。

青空側の下。

紫空側の下。

中央には、どちらにも落ちる場所。

「セイガ」

「何だ」

「お前の《界定》は、今も二つしか持たんのか」

「内と外だ」

「表と裏ではない」

「同じだ」

「違う」

今度はザンバが、ナギと同じ言葉を使う。

「内を決めた瞬間、残りを外にする。お前は岸を二つに分けていない。一つだけを残している」

「黒旗の男に、境界を教わる気はない」

「だから知っている」

ザンバの灰旗。

黒い点から五本の線。

かつては終点一つ。

今は分岐。

帰る輪。

道を切ることしか知らなかった者の旗。

「俺は、自分の前だけを残した」

ザンバは言う。

「アステルの道を外へした。村も。仲間も。結果、俺一人しか内に残らなかった」

「私は町を残した」

「向こうを数えずにな」

セイガの二色旗が、風もないのに張る。

「町が落ちれば、数える者もいなくなる」

「だから、落とさない方法を探している」

ルゥが帳面を叩く。

「閉じる以外を」

セイガは第六塔の空白を見る。

一呼吸。

「二日」

「三日じゃなかった?」

ユラが振り向く。

「折返し潮が速まった」

「なんで今言うの!」

「第一歩号が白線へ未踏路を刺した」

「俺のせい!?」

「サキドリ風が一度生まれた」

「何だ、それ」

「到達旗の向きが、一斉に紫空へ引かれた。潮がこちらを岸だと認識した」

「旗を立ててないのに!」

「立てたがった」

カナタの白旗が小さく揺れる。

「顔で分かる?」

「旗で分かる」

日暮れの光が消える。

紫空側では、朝が始まる。

折返し潮は、遠い壁ではない。

ゆっくり形を持つ、巨大な波。

残り、二日。

「閉岸式は明夜へ前倒しする」

セイガは階段を下りる。

「待て!」

「待たない」

「それで十三年前に!」

ユラの声に、男の足が止まる。

「だから今度は、落ちる前に閉じる」

「また、返事を待たないの?」

「返事が何であれ、潮は来る」

「でも、迎える相手がいるかで方法は変わる!」

「二日で変えられるなら示せ」

セイガは去る。

第六塔の空白に、朝と夜の風が同時に入る。

笛の音。

ナギはその揺れを帳面へ書く。

――向こうの第六杭、現在応答あり。

――本人、未確認。

――閉岸まで、二日。

「確認する」

「どうやって?」とルゥ。

「声を通す隙間を探す」

「私が機巧を作る」

「俺が道を!」

「半分」とユラ。

「分かってる!」

「今の返事、早すぎた」とザンバ。

「でも分かってる!」

カナタは第六塔の空白へ白旗を入れかける。

全員が見る。

手を止める。

「入れてない!」

「少し賢くなった」とザンバ。

「褒めた!」

「少しだけだ」

声を通す隙間は、旗林の一番外側にあった。

新しい到達旗ほど、白い折り目から遠い。

来た道の重さも浅い。

そのため《界定》の線へ強く固定されず、裏面へ小さな揺れを逃がしている。

「古い旗より、新しい旗のほうが向こうへ近い?」

カナタが首を傾げる。

「場所は遠い」とナギ。

「じゃあ、なんで!」

「重さが決まってない」

「新しいから?」

「まだ、町の順番に慣れてない」

片靴旗の番号札は、まだ見つかっていない。

仮置きされた旗は、到達順の列から外れている。

だからこそ、白黒の線に完全には染まっていなかった。

「ひいひいおばあちゃん、役に立つ!」

ネネが旗竿へ抱きつく。

「前から役に立ってる」とトワ。

「倉庫へ入れようとした!」

「番号がなかったから!」

「番号より旗!」

「記録が要る!」

「今は声」

ナギが二人を止める。

片靴旗の裏へ、銀の小板を結ぶ。

ルゥがミナモの硝子枝を一本つける。

ユラは鏡文字で短い文を書く。

――エル。ユラ。聞こえる。

「カナタも!」

カナタが筆を取る。

大きく三文字。

カ。

ナ。

タ。

左右は正しい。

ただし、裏側から書いた。

「向こうで読める!」

「青空側で逆!」とルゥ。

「今は向こうへ送る!」

「珍しく合ってる」とユラ。

「褒めた!」

ナギは響路旗を片靴旗へ重ねる。

「声は一呼吸だけ」

「十分!」

「文章を決めて」

「こんにちは!」

「名前」とユラ。

「ユラ!」

「私が言う」

「カナタ!」

「自分」

「会いに行く!」

「約束しないで」とルゥ。

「じゃあ、いるか!」

「問いにして」

「エル! いるか!」

「大きい」

「届く!」

準備が整う。

白い折り目の手前。

片靴旗が表側の重さを少しだけ外す。

硝子枝が、音の向きを一つに決めず揺らす。

ユラの鏡文字が、向こうから読める目印になる。

ナギの《響路》が、返事のある場所を探す。

「標術――《響路》

五つの音紋が光る。

トマリギ島。

三番港。

ミナモ。

ノクティル。

カゲノハ村。

既に返路を持つ五つを、一度すべて閉じる。

六つ目の空白だけを、白い折り目へ向ける。

「一人で?」

カナタが訊く。

「返事は一人から来るとは限らない」

「エルだ!」

「ほかの人もいる」

「なら、こんにちは!」

「声」

ナギが頷く。

「今」

カナタは白旗を口元へ。

「標術――《未踏路》! 声の一歩!」

一枚だけ。

大きくしない。

白線の手前まで。

「エル! いるか!」

声が光板へ乗る。

片靴旗の来路を通る。

界定の線へ触れる。

折り返される前に、硝子枝が六方向へ震える。

そのうち一つ。

紫空側へ、薄い音が抜けた。

ユラは透明旗を掲げる。

「エル! ユラ!」

白線の向こう。

人影が立ち止まる。

両手を口へ。

声はすぐには来ない。

長い間。

カナタが一歩出る。

「待つ」

ナギが袖を掴む。

「分かってる!」

三呼吸。

四。

五。

「長い!」

「返事」

紫空側の硝子杭が鳴る。

こん。

こん。

間。

こん――。

続いて、かすかな声。

『……ユ……ラ』

ユラの顔が固まる。

「今、名前!」

「本人確認、一部」

ナギの声も少し震える。

「エル!」

『ユラ!』

今度は、はっきり。

七年分の紙より近い。

けれど、白い折り目一枚が遠い。

「いる!」

『いる!』

二人は同じ言葉を返す。