第128話 第四章「裏へ送る一歩」後編

ナギは青い帳面の空白へ書く。

――エル。

――本人応答あり。

――現在地、未確認。

「場所!」

ナギが声を通す。

「エル。今、どこ」

返事。

『紫岸……仮泊……第六杭』

「第六!」

カナタが叫ぶ。

「人数!」

『船……四十七』

「人は!」

『百八十六』

ナギの筆が止まる。

数えられる。

反影ではない。

百八十六人。

「潮は!」

ユラが訊く。

『二日……ない』

「セイガと同じ!」

『こちら……橋……半分』

「こっちも半分!」

ルゥが模型を掲げる。

見えない。

ユラが鏡文字の板に描く。

「六つ目は?」

『迎え……場所』

声が途切れる。

界定の線が強く光った。

片靴旗の裏へ《外》の印が浮かぶ。

「切られる!」

ナギが響路旗を押さえる。

六つ目の空白へ、白黒の線が入ろうとする。

「誰!」

旗林の外。

岸守の作業員たちが、閉岸索を張っている。

夜の準備を始めたのだ。

「止めて!」

ユラが走る。

トワが前へ出る。

「作業命令が出た」

「エルがいる!」

「聞いた」

「百八十六人!」

「聞いた!」

トワの顔は青い。

「だから、怖いんだ」

「何が!」

「開けて、また落とすことが」

「閉じたら、向こうが落ちる!」

「こっちを落とせない!」

「どっちかじゃない!」

カナタが叫ぶ。

「両方って、言うだけなら簡単だ!」

トワが怒鳴り返す。

カナタの口が止まる。

いつも自分が言ってきた。

両方。

全部。

できるまで。

その間、誰が重さを支えるか。

「じゃあ、手伝え」

ルゥがトワへ帳面を投げる。

「何を」

「第一到達旗の来路。古い旗を抜かず、向きを変える方法」

「向きを?」

「表だけを岸へ向けてる。裏面を使う」

「裏は空白だ」

「だから」

ルゥは六つ目の空白を指す。

「向こうへ見せられる」

トワは帳面を受け取る。

第一旗守として。

閉岸作業員として。

百八十六人の声を聞いた者として。

「一晩」

「何?」

「第一到達旗を動かせるか調べる」

「閉岸式は?」

「準備は続ける」

「どっちだ!」

「両方」

トワは苦い顔で言った。

「簡単に言うな」

「今、言ったのはお前!」

「だから難しい!」

界定の線が完全に閉じる前。

エルの声が最後に届く。

『ユラ』

「何!」

『会ったら……最初に……』

音が切れる。

「何を言うの!」

返事はない。

ナギは帳面へ書く。

――現在応答、途絶。

――消失ではない。

――閉岸索による遮断。

ユラはその行を何度も見る。

透明旗の空白へ息を吹き込もうとして、途中で止めた。喉が詰まり、エルの名を口にできない。代わりに、銀の紙舟の右端を二度なぞる。

「名前、言わなくても消えない?」

「言えないことと、いないことは同じじゃない」

ナギの返事を聞いて、ユラはようやく一度だけ頷いた。

「消えてない」

「消さない」

ナギは答える。

片靴旗の裏には、初めて向こうへ届いた声の振動が残っていた。

夜。

青空側は暗く。

紫空側は朝だった。

到達旗林の裏面だけが、向こうの光を受けて白く浮かんでいる。

トワは第一到達旗の根元へ座っていた。

紫空側の朝が眩しく、遠い人影は白い染みにしか見えない。トワは目を細める代わりに、旗竿の振動へ指を当てた。見えない時は、三百年続いた旗の音で距離を測る。

動く岸の揺れで胃が返りそうになるたび、石突を一度磨く。今夜はすでに十二度目だった。

手には、ルゥの白い帳面。

頁の上には、旗竿を抜かずに回す輪。

重さを逃がす六本の支え。

表と裏を別々に張る索。

全部、完成していない。

「読める?」

カナタが旗の向こうから顔を出す。

「字は」

「俺より!」

「比べる相手が低い」

「到達した高さは俺が上!」

「旗を倒した数も」

「記録!」

「事故」

「両方!」

カナタは第一到達旗の裏へ回る。

真っ白。

三百年、誰も文字を書いていない。

「何で回したくない?」

「回したら、最初の人が向こうを向く」

「いいだろ」

「町へ背を向ける」

「でも、向こうへ顔を見せる」

「お前は簡単に言う」

「難しい!」

「どっちだ」

トワは旗の表を見上げる。

六つの星。

最初の遠征隊。

その一人が、トワの祖先。

「子どものころ、毎朝ここへ連れてこられた」

「旗を磨く?」

「名前を読む」

「長い!」

「全部」

「俺なら途中で寝る!」

「知ってる」

「会ったばかり!」

「顔で分かる」

「みんな使うようになった!」

トワは少しだけ笑う。

「祖父は言った。最初の人が旗を立てたから、後の人は戻る場所を見つけた。だから第一は、町の前を向き続ける」

「帰る旗みたいだな」

「到達旗だ」

「来た人へ、ここだって言う」

「そうだ」

「向こうから来る人には?」

トワは答えない。

「今まで、いないことにしてた」

「俺が決めたわけじゃない」

「でも、守ってる」

「仕事だ」

「俺も船長!」

「比べるな」

「壊しても?」

「主にお前が」

「それでも第一歩号を守る!」

カナタは船首の《一》を見る。

第一到達碑から落ちた金属。

「でも、第五翼が誰かを落とすなら直す」

「壊すだろ」

「直す!」

「主にルゥが」

「俺も持つ!」

「重いだけ」

「役に立つ!」

トワは帳面へ戻る。

「旗を回したら、第一の権利も裏へ向く」

「権利?」

「岸に最も近い倉庫。閉岸時の避難順。界塔の使用」

「旗の向きで変わる?」

「規則では」

「じゃあ、規則も回す!」

「それは紙だ」

「裏に書く!」

「簡単に言うな」

「難しい!」

同じやり取り。

今度は、二人とも少し笑った。

旗林の外側。

ネネが片靴旗の根元を掘っている。

「何してる!」

トワが走る。

「番号探し!」

「地面にない!」

「落ちた!」

「船へ巻かれた!」

「船を探した!」

ネネは泥だらけの手を出す。

小さな金属片。

数字の九。

「九百二十七の九!」

「一桁だけ!」

「始まり!」

カナタが喜ぶ。

「残り、九百二十七!」

「数字の数が増えてる!」とトワ。

ルゥが第一歩号から来る。

手に、曲がった番号板。

「探してたの、これ?」

九二七。

船底の六脚岸輪に挟まっていた。

「見つかった!」

ネネが抱きつく。

トワは番号板と旗を確認する。

紋章。

穴の傷。

古い修復糸。

「第九百二十七旗。確認」

「立てられる!」

「元の場所へ」

ネネは外側の穴を見る。

折返し潮で最初に落ちる列。

少し迷う。

「ここじゃなくてもいい」

「何?」

「ひいひいおばあちゃんは、片方の靴で来た」

旗を抱く。

「旗が、同じ穴じゃないと来たことにならない?」

トワは答えられない。

カナタも。

ルゥが言う。

「来た道は、旗に残ってる」

「じゃあ、内側へ移せる?」

「誰かの旗をどかす必要がある」

「一緒に立てる?」

「重さがぶつかる」

「向きを変えたら?」

ネネは片靴旗を半回転させる。

表を紫空へ。

白い裏を青空側へ。

「裏の場所、空いてる」

トワの顔が上がる。

一本の旗竿。

二つの向き。

場所を増やさず、見せる相手を増やす。

「第一旗も」

カナタが言う。

「回せる」

トワは第一到達旗を見る。

祖先の名を町へ背けるのではない。

向こうへ見せる。

裏へ、町の今を書く。

「試す」

「今?」

「小さい旗から」

「ひいひいおばあちゃん!」

ネネが胸を張る。

ルゥは片靴旗の根元へ回転輪をつける。

トワが索を張る。

カナタとネネが竿を持つ。

「一、二――」

「三!」

「まだ!」

カナタが先に押す。

旗竿が半分回る。

重さが急に紫空へ向く。

四人の体が壁へ落ちる。

「うわっ!」

「だから待てって!」

ルゥの銀糸が全員を道へ戻す。

片靴旗は、表を紫空へ向けて立った。

白い裏面。

ネネは炭筆を持つ。

「何て書く?」

「こんにちは!」とカナタ。

「先に名前」とトワ。

「ひいひいおばあちゃんの?」

番号板に刻まれた名。

――ネマ。

ネネは鏡文字で書く。

最初は逆の逆になる。

ユラが直す。

――ネマ。片方の靴で来た。

その下。

――一歩、空いてる。

「誰に?」

ネネが訊く。

「次に来る人」とユラ。

「エルも?」

「うん」

白い折り目の向こう。

紫空の人影が、旗を見た。

小さく手を振る。

ネネも振る。

向こうの光が強くなり、ネネの視界の端が一瞬だけ欠けた。

「一、二、三」

数え終えるまで、手を振る役をトワへ渡す。三つ目で見えるようになると、今度は両手で大きく振った。できない数呼吸を隠さず渡しても、片靴旗は倒れなかった。

片靴旗の来路が、初めて二方向へ風を通した。

第一到達旗の布が、遠くで一度だけ揺れた。