第129話 第五章「十三年前の落岸」前編
閉岸準備の夜。
セイガは、ザンバを第一界塔へ呼んだ。
「俺だけ?」
「黒旗の《終点》を持っていた者に聞きたい」
「今は岐点だ」
ザンバの機巧腕の留め具が、塔の冷えで低く鳴った。ない指が、閉じる線の数だけ痛む。彼は機巧の右手で壁を支え、生身の左手で名簿を受け取った。
「切ることを知っている。だから、一人で切らない」
「それでも、切ることを知っている」
第一界塔の内部には、十三年前の記録が封じられていた。
セイガは外套から薄い名簿を出した。表紙に番号はない。落ちた順ではなく、呼ばれていた名の順に並べ直したものだ。
頁をめくる左手は正確だったが、右手は紙へ触れない。右は、人を引き上げるために残している手だった。十三年前、その手で届かなかった者の欄だけ、紙の端が何度も折り直されていた。
石壁へ浮かぶ光景。
青空側の橋。
紫空側の船団。
若いセイガ。
当時の二色旗は、一本の線ではない。
二本の細い線。
間に空白。
「今の旗と違う」
「事故のあと、自分で閉じた」
記録の中。
表側から五本の橋杭が伸びる。
向こう側から、六本目の光。
まだ遠い。
折返し潮が迫る。
人々が叫ぶ。
待て。
間に合わない。
こちらから完成させろ。
先に旗を立てた隊へ名誉を。
紫側へ渡る最初の権利を。
声が重なる。
若いセイガは、五本の杭を一本へ束ねた。
『《界定》――内は、表岸!』
橋が青空側の重さを持つ。
紫岸へ届く。
向こうの人々が踏む。
足が、青空の下へ落ちる。
船が傾く。
表側から渡った者は、紫空で上へ落ちる。
二つの重さが橋を裂く。
人々。
旗。
名前。
白い折り目の外へ消える。
セイガは記録を止めた。
「何人」
ザンバが訊く。
「表で百八」
「裏は」
「数えなかった」
「数えられなかった?」
「数えなかった」
セイガは言葉を変えない。
「裏の船を反影と記録した。人ではないことにした」
「なぜ」
「岸守を続けるためだ」
「続ける必要があったか」
「残った町が落ちかけた」
「別の者へ渡せば」
「誰も引き受けなかった」
「だから嘘を?」
「ああ」
セイガは白黒の縫い目を親指でなぞる。公の場なら「私は正しかった」と言うための姿勢だった。だが塔の中には、ザンバと名簿しかいない。
「俺は、あの判断が正しかったと証明したかった」
初めて一人称が変わる。
「橋を閉じ続ければ、死んだ者が無駄ではなくなると思った。権限を渡したいとも思った。渡したあと、別の者が開いて、俺の十二年を誤りにするのが怖かった」
「両方か」
「ああ。町を守りたい。自分も守りたい」
安全を語る指導者の中に、正しさを失いたくない一人の男がいた。どちらかを消した説明にはしなかった。
ザンバは記録の中の若い男を見る。
自分と似ている。
何かを失ったあと、選択を唯一の正解にする顔。
「俺はアステルを敗者と呼んだ」
「知っている」
「自分が間違えたと認めれば、二十年が崩れると思った」
「崩れたか」
「まだ崩れている」
灰旗を広げる。
「だが、崩れた場所から別の道は出た」
「私にも、旗を変えろと」
「俺は説教に向いていない」
「知っている」
「会ったばかりだ」
「顔で分かる」
ザンバは片目を細める。
「うつったな」
「主に船長のせいだ」
記録の続きを、ナギとルゥが外から持ってくる。
「勝手に入った!」
セイガが言う。
「呼ばれてないのは知ってる」とルゥ。
「でも、記録が途中」
ナギは小さな響瓶を掲げる。
十三年前の映像が消えたあとも、塔の石に音が残っている。
助けを呼ぶ声。
橋を切れという声。
名前。
数字。
そして。
『六つ目、できた!』
紫空側の声。
映像では、もう橋が裂けたあと。
セイガの顔が固まる。
「返事は、来てた」
ナギが言う。
「いつ」
「あなたが橋を開いた直後」
「遅かった」
「待たなかったから」
「二刻では――」
「あと七呼吸」
ナギは記録音を分ける。
セイガの命令。
橋の起動。
紫側の返事。
間は、七呼吸。
「七」
セイガの口が動く。
「七呼吸、待てばよかったと言うのか」
「結果だけなら」
「なら同じだ」
「違う」
ナギはまた言う。
「七呼吸で必ず助かったとは言わない。でも、返事を待たなかった事実は残す」
「責めたいのか」
「次に同じことをしないため」
ルゥは記録映像を止めた場所へ銀鋲を当てる。
「映像を切ったあと、橋の原図も消した?」
「封じた」
「どこ」
セイガは答えない。
ルゥが壁を叩く。
一つだけ、音の違う石。
カナタならすぐ壊す。
ルゥは工具で丁寧に外す。
奥に、青黒い板。
両岸橋の原図。
表側の半分。
紫側から送られた半分。
重ねると、六つ目の空白に文字が浮かぶ。
鏡文字。
ユラが追いつき、読む。
「《迎えの岸》」
セイガの目が閉じる。
「見ていた」
「十三年前に?」
「事故のあと」
「なら、エルたちが人だって!」
「分かった」
「七年、反影って言った!」
「ああ」
ユラの拳が、セイガの胸へ入る。
強くはない。
男の体が一歩下がる。
「七年分」
「足りんだろう」
「あとで増やす」
「そうしろ」
「止めないの?」とカナタが塔の入口から言う。
「いつからいた!」
「今!」
「主に最初から」とザンバ。
「隠れるの上手い!」
「お前が大きい」
カナタは原図を見る。
「六つ目を作ればいい!」
「半分ずつ」と全員。
「分かってる!」
「今の返事、早い」とルゥ。
「でも分かってる!」
原図には、六つの役目。
行く道。
帰る岸。
再会点。
次へ渡す途中。
現在地。
最後。
向こうの一歩を受ける空白。
「閉岸式まで、一日半」
ルゥは帳面へ線を引く。
「表側の橋は、私が半分まで作る」
「俺が道!」
「最後の一歩手前まで」
「分かってる!」
「ナギは、向こうへ図を送る」
「声だけじゃ足りない」
「ユラが鏡文字」
「送る」
「ザンバは、重さを二つに」
「三つだ」
「できる?」
「今から探す」
全員がセイガを見る。
「私は閉岸準備を続ける」
ユラが拳を上げる。
「待て」
「何!」
「岸守として、失敗したときの道を残す」
「最初から閉じる気?」
「お前たちの方法が間に合わなければ」
「間に合わせる!」とカナタ。
「できるまで、とは言うな」
セイガの声が厳しい。
「潮は待たない」
カナタの口が止まる。
五番目の旗。
止まること。
今いる者を数えること。
「間に合わなかったら」
カナタは言う。
「その時点で、今いる人をもう一度数える」
「閉じるか」
「分からない」
「答えになっていない」
「でも、向こうを数えずには決めない」
セイガは原図を見る。
七呼吸、待てなかった十三年前。
「それでいい」
小さな声だった。
「褒めた?」
「一度も」
「ザンバみたい!」
「うつった」とザンバ。
「最悪だ」とセイガ。
「ああ」
両岸橋の設計は、こちら側の図だけでは足りなかった。
青空側の重さ。
白い折り目の幅。
六本の界塔。
到達旗林の来路。
そこまでは読める。
紫空側の船。
第六杭。
帰岸灯。
向こうの足場が、どの方向を下とするか。
分からない。
「見えないなら、未踏路!」
「出さない」
ルゥは即答した。
「まだ何もしてない!」
「する顔」
「みんな顔で決める!」
第一歩号の甲板は、臨時工房になっていた。
表側の地図。
原図。
ユラの七年分の手紙。
エルが送った紫岸の略図。
全部を重ねても、向きが合わない。
鏡文字にすれば左右は合う。
上下が逆。
重さは、紙では書けない。
ルゥは髪から銀鋲を二本抜き、一本を青岸の図へ、一本を紫岸の空欄へ置いた。近くの線は鮮明でも、白い折り目の向こうの人影はもう顔として見えない。片眼鏡を上げると、今度は手元の細線が揺れた。
左手首を支える帯を締め直す。全部を自分で測ろうとすれば、《継ぎ路》より先に指が切れる。
「紫岸の機巧師へ。こちらで向こうの荷重を書かない。測り方だけ送る」
完成させる代わりに、完成させない範囲を技術として渡した。
「連標網へ聞く」
ナギが提案した。
「みんな、世界の果てを知らないぞ」
「答えじゃなく、似た経験」
「五つの町!」
「一つずつ」
最初。
トマリギ島。
イオラとガルド。
始標旗と次標旗。
ナギは問いを送る。
「片方だけで、道を作るとどうなる」
『戻るだけになる』
イオラの返事。
『始点が相手の到着を決めたら、次標ではない』
「両方が返事をするまで?」
『道は張らない』
「潮が来たら?」
長い間。
『避難路は別に作る。会う道と、助ける道を一つにしない』
ルゥが帳面へ書く。
――迎える橋と、救助路を分ける。
二つ目。
三番港。
ミオとスズ。
「別々の重さで、同じ場所へ会える?」
『会う場所だけ決める』とミオ。
『歩き方はそろえない』とスズ。
「足場は?」
『再会点へ着いた側が、自分の地面を持つ』
――中央を一つの重さにしない。
三つ目。
ミナモ。
キリ。
「半分の設計を、向こうへ渡す方法」
『完成図を送らない』
「送る前に完成しないと!」とカナタ。
『向こうの条件を書く欄を空ける』
「空白!」
『試した範囲、壊れた場所、次の課題も送る』
――未完成の責任を記録する。
四つ目。
ノクティル。
リラ。
「返事が見えない相手を、どこまで待つ」
『現在地を返せる間』