第130話 第五章「十三年前の落岸」後編

「返らなくなったら?」

『消えたと決めない。最後の確認時刻を書く』

「助けを求めてるかは?」

『本人の合図』

――待つことと救助を分ける。

五つ目。

カゲノハ村。

アカリ。

「知らない人の場所を、どう空ける」

『全部空けない』

「なんで!」

『住んでる人もいる』

「じゃあ、どれくらい!」

『一人ぶんから』

旅人宿のソラネが笑う。

『最初は寝台一つでした』

「少ない!」

『荷物を広げたら、棚が一つ増えました』

「増えた!」

『使う人が来たから』

アカリが続ける。

『空けるだけじゃ、場所にならない』

「何が要る?」

『来た人が使って、今いる人が受け入れること』

――空白は、使われて初めて場所になる。

五つの返事。

誰も橋の答えは持っていない。

でも、こちら側だけで完成させない条件が増えた。

「連標網、便利!」

「答えを持ってこない」とナギ。

「今、いっぱい来た!」

「材料」

「同じだ!」

「違う」

ルゥは五つの材料を設計へ入れる。

一。

表側の未踏路は、中央の一歩手前で止める。

二。

紫側の仮橋も、中央の一歩手前で止めてもらう。

三。

中央は固定しない。

踏んだ者の重さへ、硝子枝が曲がる。

四。

返事が途切れた者は、最後の確認位置を残す。

五。

救助を求める声があれば、迎えの一歩とは別に未踏路を出す。

「六つ目は?」

カナタが訊く。

「向こう」

「まだ空白!」

「それでいい」

「分からないまま?」

「分からないから、向こうが書く」

ユラは鏡文字の設計板を作る。

紫空から読める向き。

表側から見れば逆。

「カナタも名前」

「任せろ!」

三文字。

カ。

ナ。

タ。

「何のため?」

「誰が書いたか」

「俺の案じゃない!」

「未踏路を出す人」

「じゃあ大きく!」

「図を隠さないで!」

カナタの名前は、設計の端へ小さく書き直された。

ナギは送信経路を作る。

片靴旗。

第六塔。

硝子枝。

五番旗の現在地。

四番旗の未完成記録。

「旗を全部使う!」

カナタが喜ぶ。

「二番目はない」とルゥ。

「トマリギ島にある!」

「帰る場所は持ち歩かない」

「分かってる!」

「顔が分かってない」と全員。

「顔で決めるな!」

設計板を折る。

一枚目。

二枚目。

最後だけ、ユラがエルの癖に合わせて強く折る。

「これで、エルは私からだって分かる」

「音と同じ」

ナギが頷く。

紙舟を片靴旗へ載せる。

未踏路は、白線の手前まで。

最後は風へ渡す。

「標術――《未踏路》!」

光板。

紙舟が進む。

端から飛ぶ。

界定の線へ触れる。

ナギの響路が、返事のある隙間を開く。

紙舟は一瞬、青空側へ押し戻される。

ユラの透明旗が受ける。

「裏書き!」

透明布に鏡文字が光る。

紙舟の《外》印が、向こうから読める《内》へ反転する。

白い折り目を越えた。

「行った!」

紫空側。

人影が走る。

紙舟を拾う。

エル。

開く。

図を見る。

長い間。

「返事は!」

「待つ」

「分かってる!」

三呼吸。

四。

五。

六。

「長い!」

「まだ六」

「五番目までしか待ってない!」

「今は六番目」

「増えた!」

エルが白い折り目へ板を掲げる。

鏡文字。

ユラが読む。

《こちらも、半分》

次。

《中央は、来た人の重さ》

ルゥの顔が上がる。

「同じ案!」

最後。

《六つ目は、迎えた人の返事》

「向こうが書いた!」

カナタが跳ぶ。

「答え!」

「まだ言葉」とルゥ。

「でも、同じ場所を見てる!」

紫空側で、エルたちが第六杭へ作業を始める。

表側でも。

同じ橋ではない。

同じ重さでもない。

互いの半分を、中央の空白へ向ける。

こちら側しかなかった地図に、初めて向こうの線が加わった。

橋の試作を始める前に、ナギは向こう側の名簿を求めた。

「百八十六人、全部?」

カナタが訊く。

「数だけでは、返事が減ったとき誰か分からない」

「多い!」

「ノクティルでは二百八十三人を数えた」

「五つの音で!」

「一晩かかった」

「今は一日しかない!」

「だから、向こうにも数えてもらう」

エルたちの船団には、自分たちの点呼法があった。

紫空側の船腹を、二回。

帆柱を一回。

船ごとに違う最後の音。

四十七隻。

百八十六人。

エルは鏡文字で名板を掲げる。

ユラが読む。

「第一船、《ササラ》

「人の名前?」

「船」

「格好いい!」

「船長、サライ」

「似てる!」

紫空側の先頭船に、一人の女が立つ。

三十代後半。

濃い紫髪を短く束ね、肩へ裏重布を巻いている。

エルの叔母。

船団のまとめ役。

右足首には古い安全索の跡が一周し、立つ時だけその足を半歩外へ置く。小さな名板は近くへ寄せないと読めず、サライは船員から片眼鏡を借りた。借り物だと分かるよう、返すまで紐を自分の外套へ結ばない。

人前での声は低く、遠い船まで届く。姿勢が不自然なほど正しくなった時は、恐れている合図だった。子どもや外来者へ岸を渡すのが怖い。それでも、紫岸を《助けられる側》として青岸の歴史へ付け足されることは、もっと嫌っていた。

彼女は白い折り目へ手を上げた。

声の隙間を通す。

『青岸の者』

『救助されに来たのではない。先にいた者として、条件を出す』

最初の二言で、サライは関係の向きを決めた。

「俺たち!」

カナタが答える。

『船長は』

「カナタ!」

『何歳』

「十五!」

『戻れ』

「なんで!」

『子どもへ岸を任せない』

「世界の果てまで来た!」

『それが心配だ』

「正しいかも」とルゥ。

「味方!」

サライはセイガの姿を探す。

『岸守長は』

セイガは第一界塔から応答しない。

ユラが呼ぶ。

「セイガ!」

『十三年前の男か』

声が冷たくなる。

セイガは、ようやく界塔の音路へ手を置く。

「そうだ」

『向こうでは、あなたを《落岸》と呼ぶ』

「知っている」

『知らない。数えなかったから』

セイガの顔が固まる。

サライは名簿板を一枚掲げる。

四百二十一。

『十三年前、紫岸側で失った人数』

オリベの人々がざわめく。

初めて、数字になった。

反影ではない。

四百二十一人。

『名前もある』

名板が何枚も続く。

ユラが読み。

ナギが記録する。

セイガは一人ずつ聞く。

途中で目を逸らさない。

最後。

『エルの父も、その一人』

紫岸の人影が一度だけ片耳を覆った。界塔の音が重なると、エルには細い耳鳴りが走る。彼女は「見えているから大丈夫」と言いかけ、途中でやめた。大丈夫かどうかを、見えていることだけで決めないためだった。

深い紫に見えた髪は、光の薄い場所では濃紺へ変わる。口を結ぶと片側の犬歯だけが少し覗いた。手紙の中でユラが想像していた、いつも穏やかな少女の顔ではなかった。父の名を聞く今のエルは、怒りを隠していなかった。

ユラがエルを見る。

手紙には書かれていなかった。

「知らなかった」

『書いたら、会えなくなる気がした』

エルの声。

「私には?」

『会ってから言うつもりだった』

「今、言った」

『まだ会ってない』

「声は会った!」

『顔はまだ』

二人の間に、小さな笑い。

サライは続ける。

『橋を信じろとは言わない』

「なんで!」とカナタ。

『十三年前、こちらも急いだ』

「向こうも?」

『第六杭が完成する前に、船を前へ出した。表側が待っていると思った』

「待ってなかった」とセイガ。

『こちらも、待たせていると思い込んだ』

両方が急いだ。

相手の返事を確かめず。

自分が遅れていると思い。

自分が先に完成させようとした。

「十三年前も、両方だった」

カナタが呟く。

「悪い意味で」とルゥ。

『だから今回は』

サライは紫岸の設計板を掲げる。

『中央の一歩を、どちらも作らない』

「同じ!」

『ただし、潮が来れば救助を求める船が出る』

「そのときは作る!」

『求めた船へだけ』

「分かってる!」

『本当に?』

「顔は見えないぞ!」

『声で分かる』

「アカリまで広がった!」

名簿を交換する。

青岸側。

オリベの現在人数、二千三百七十六。

外側の旗区、四百十二。

第一歩号、四人と一隻。

ユラ。

トワ。

ネネ。

セイガ。

紫岸側。

四十七隻。

百八十六人。

エル。

サライ。

子どもが二十三。

負傷者が十一。

「今いる人が増えた」

ナギは青い帳面を開いたまま言う。

「増えたんじゃない」

ユラが紫空を見る。

「今まで数えなかった」

「じゃあ、見えるようになった!」

カナタが言う。

「それも同じじゃない」とナギ。

「難しい!」

名簿の最後。

エルが一枚だけ空白の札を掲げた。

「誰?」

『最後尾船。返事なし、一名』

「名前は?」

『乗船記録がない』

「消えた?」

『未確認』

ナギとエルの言葉が同時になる。

空白を消さない。

潮が来るまでに確認する。

「俺が行く!」

「今は待つ」と三人。

「分かってる!」

カナタは拳を握る。

「返事が来たら、すぐ行く!」

向こう側にも、同じように急ぐ者がいる。

だから、エルが笑った。

『カナタ』

「何だ!」

『会ったら、最初に言うこと決めた』

「俺も!」

『何』

「こんにちは!」

『もう言った』

「じゃあ、友達になろう!」

『まだ会ってない』

「声は会った!」

ユラが笑う。

「私と同じ」

『じゃあ、会ってから』

エルは透明半旗を掲げる。

『最初の言葉は、会うまで空ける』

「六番目!」

カナタの声が両岸へ響いた。