第132話 第六章「一歩手前の実験」後編

船首。

中央。

船尾。

返事は、船尾。

さらに上下。

裏空の下。

荷室。

「確認」

エルたちは紫岸側の細い救助索を、船尾荷室へ向ける。

届かない。

あと五歩。

「未踏路、出す?」

カナタが訊く。

「本人が求めた」とナギ。

「どこまで?」

「紫岸救助索の手前」

「最後までじゃない?」

「向こうが取れる」

「分かった!」

白旗を突く。

「標術――《未踏路》! 救助索の手前まで!」

光板が、青岸からではなく第六塔の空白を経て伸びる。

中央へ表の重さを入れないよう、細く。

一歩。

二歩。

紫岸救助索の手前。

エルたちは索を光板へ載せる。

青空側の重さが入る。

索が一度沈む。

ルゥが硝子枝を曲げる。

「表の重さ、半分逃がす!」

ザンバが黒い点を入れる。

《岐点》

救助路と迎え路を分ける。

細い索は最後尾船へ届いた。

荷室の扉。

内側から、弱い音。

エルが鏡文字の札を送る。

――索を体へ。

返事。

二つ。

索が張る。

人影が荷室から出る。

小さな子ども。

十歳ほど。

紫色の外套を着ているが、旗がない。

年齢より肩幅が先に育ち、厨房用の外套だけ袖が余っていた。右のこめかみ近くに古い傷があり、その側の上方だけ視野が狭い。索が頭上から来た時、気づくのが半呼吸遅れた。

左手で索を巻き、右手は救助に来た船員の腕へ触れるために空ける。道具と人へ同じ手を使わない、小さな厨房見習いの規則だった。

「子ども!」

カナタが叫ぶ。

サライの顔が変わる。

『ノノ!』

「知ってる?」

『船団の厨房見習い。三日前、いなくなった』

「名簿は?」

『別の船で返事済みになっている』

同姓の大人と、一つに数えられていた。

「同じ名前?」

『呼び名が同じ』

「だから、空白!」

ナギは帳面を直す。

――ノノ。厨房見習い。十歳。

――同名者と誤統合。

――本人応答あり。

「一つにしない!」

カナタが言う。

「五番目!」

「今は六番目の前」

「でも役に立った!」

ノノは救助索へしがみつく。

最後尾船から紫岸へ。

途中、潮の風が強くなる。

索が裂ける。

「助けて!」

本人の声。

今度は、はっきり。

「聞いた!」

カナタは白旗を振る。

「ノノまで!」

最後の一歩を含む光板。

求められた場所へ。

ノノの足元を支える。

紫岸の船員が手を伸ばす。

子どもは自分で最後の一歩を踏む。

エルが受け止めた。

「着いた!」

カナタが両手を上げる。

「救助成功!」

ナギは帳面へ書く。

――救助要請あり。

――未踏路、最後まで使用。

――本人の一歩、残る。

「道を最後まで作ってもいい場合が増えた!」

「頼まれたとき」とルゥ。

「助けが必要なとき」とユラ。

「相手が踏めないとき」とナギ。

「全部覚える!」

「顔が不安」とザンバ。

「顔で決めるな!」

ノノは紫岸側で、白い折り目へ小さく頭を下げる。

『ありがとう』

「友達!」

ノノは礼を言ったあと、緊張が切れて大きなあくびをした。役目の話だけなら平気な顔をするのに、子ども扱いを避けようとした時ほど眠気を隠せない。

『干し茸の料理を作る。あと、仕事じゃない時間に遊びへ呼んで』

助けられた子どもでも、厨房を代表する賢い声でもない。誰かの遊びへ、ただのノノとして混ざりたかった。

『まだ』

「エルに似た!」

『厨房で干し茸を使う』

「もう友達!」

向こう側から笑いが返る。

名簿の空白は、一人の名前になった。

ただし。

ナギは空白欄そのものを消さない。

「まだ誰かいるかもしれない」

「ずっと空ける?」

「新しい返事のため」

ユラの透明旗が、わずかに光った。

二度目の試験では、箱に手をつけた。

「やっぱり握手!」

カナタが喜ぶ。

表側の箱から、木の腕。

紫側の箱から、裏重糸でできた腕。

二つの手を、中央の空白へ伸ばす。

ただし、触れさせない。

指先一つぶん、間を空ける。

「そこが大事」とルゥ。

「触れない握手?」

「最初は」

「寂しい!」

「壊れるよりいい」

試験開始。

未踏路は一歩手前。

紫の仮橋も。

二つの箱が、それぞれ自分の一歩を出す。

隣に並ぶ。

木の手。

紫糸の手。

指先一つぶんの空白。

ユラが透明旗を掲げる。

「空いてる場所」

六つの弧。

中央の空白。

前の試験で一呼吸だけ出た感覚を探す。

自分の場所を作らない。

向こうの手も引かない。

間へ、誰の重さも置かない。

ただ、触れたいという両方の動きを受ける。

薄い透明な膜が生まれる。

指先一つぶん。

木の手が触れる。

紫糸の手も。

二つは、膜の中で隣り合う。

重さは混ざらない。

それでも、触れた振動だけが互いへ伝わる。

「握手した!」

カナタが叫ぶ。

透明膜が驚いたように消える。

二つの手が離れる。

「大きい!」

ユラが怒る。

「成功!」

「一呼吸!」

「前より長い!」

エルが紫側で、同じ半旗を掲げる。

もう一度。

今度は、二人で。

ユラ。

エル。

二枚の半旗。

ユラは右親指を使えず、旗竿を左手の掌へ食い込ませる。エルは界塔の高音を避けるため片耳を塞ぎ、残る手だけで半旗を支える。

二人とも同じ形では立てない。だから、互いの不足を真似しなかった。ユラの旗が一度揺れ、エルの旗は半呼吸遅れて返す。そのずれが、透明膜を壊さず往復する最初の余地になった。

六つの弧が、白い折り目を挟んで重なる。

中央だけは閉じない。

透明膜。

一呼吸。

二。

三。

木の手と紫糸の手が触れる。

振動が往復する。

「三呼吸!」

カナタが小声で言う。

「小さくできる!」

四。

五。

膜が揺れる。

ナギが両岸の音を聞く。

「二人とも、同じ速さにしようとしてる」

「だめ?」

「違う呼吸で」

ユラは息を吐く。

エルは向こうで吸う。

同時にしない。

透明膜が安定する。

六。

七。

八。

「できた!」

ユラが笑う。

エルも。

膜が消えたあとも、木の手には紫糸の振動が残っている。

紫の手には、木の温度。

「名前をつける!」

カナタが言う。

「まだ試験」とルゥ。

《握手道》!」

「道じゃない」

《友達膜》!」

「軽い」

《六番目》!」

「まだ」とユラとナギ。

「みんな厳しい!」

セイガは第一界塔から試験を見ていた。

透明膜が消えた場所。

何も残っていない。

それでも、両方の手があったことは消えない。

「岸守長」

トワが隣へ立つ。

「第一到達旗の回転輪、作れます」

「動かせば、旗林の重さが乱れる」

「一枚ずつなら」

「潮まで時間がない」

「だから、一枚ずつ始める」

「閉岸索を張りながらか」

「両方」

「簡単に言うな」

「難しいです」

トワは正直に答える。

「でも、片靴旗は向こうへ風を通した」

「第一旗とは重さが違う」

「知ってます」

「失敗すれば、町が落ちる」

「閉じても、百八十六人が落ちるかもしれない」

「かもしれない、で町を賭けるのか」

「向こうも今いる」

ナギの言葉が、トワの中にも残っている。

セイガは二色旗を握る。

「夜明けまで、外側の旗だけ試せ」

「第一旗は?」

「最後だ」

「一番なのに?」

「重いものは、最後に動かす」

トワは少し笑う。

「順番が変わりましたね」

「構造上だ」

「本人の意見?」

「ナギにうつったか」

「主に」

第一歩号の甲板。

カナタは木の手を自分の腕へつけようとしていた。

「何してる!」

「次は俺!」

「まだ人は試さない!」

「手だけ!」

「人!」

「腕なら半分!」

「一人!」

重さの違う握手は、まだ箱同士。

けれど、両岸の人々は初めて、相手の振動を触れた。

反影ではない。

紙の文字だけでもない。

向こうから押し返す、今の力。

試験が終わった夜。

カナタは一人で、第一到達碑の前へ来た。

白旗を背負い。

手には、船首から外した小さな《一》の金属片。

第一到達碑には、六人の名。

三百年前。

最初の遠征隊。

彼らも笑われたのだろうか。

道がないと言われ。

無理だと言われ。

それでも来た。

「俺と同じ」

白旗を地面へ立てる真似をする。

旗竿の先が石へ触れる。

ほんの少し。

白い布の中央へ、銀色の《一》が浮かびかけた。

「やめろ」

ザンバの声。

カナタは旗を上げる。

「立ててない!」

「立てたかった」

「夢だぞ」

「知っている」

「父ちゃんに言った」

「聞いた」

「村のみんなにも」

「笑われていた」

「でも来た!」

「それも見た」

ザンバは第一到達碑の横へ立つ。

「なら、立ててもいいだろ」

「俺に許可を求めるな」

「止めた!」

「旗の一を見た」

白旗の中央。

まだ薄い銀線。

先に着いた証。

誰より最初。

ここは自分の場所。

「俺、最初じゃない」

「そうだ」

「でも、俺の世界からは最初かもしれない!」

「第一到達旗にも似た言葉がある」

「じゃあ立てられる!」

「一番を細かく分ければ、全員が一番になれる」

「いいじゃないか!」

「そのたび、場所を一つ取る」

旗林。

何千本。

外側の旗区。

新しい旗ほど、落ちやすい。

「場所を取らない旗にする」

「どうやって」