第133話 第七章「閉岸評議」前編
「小さく!」
「お前の旗は大きい」
「布を半分!」
「白旗は、今も道を作る」
「じゃあ、写し!」
「名板でもいい」
セイガの条件。
到達名板。
「旗じゃない」
「なぜ旗でなければならない」
カナタは答えかける。
父の白旗。
空白だった布。
村人の願いが集まった紋。
旅のすべて。
「こいつで来たから」
「なら、持って次へ行け」
「ここへ残したい!」
「自分を?」
「来たことを!」
「違う」
「何が!」
「今、お前は『来たこと』ではなく、『ここにいた自分』を置こうとしている」
「同じだ!」
「違う」
ナギの言葉。
ザンバが使う。
「道の記録は、持ち主がいなくても残る。お前は旗を立て、ここから先の自分を切り分けたい」
「切らない!」
「世界の果てへ着いたカナタを完成させたい」
胸へ刺さる。
カナタは白旗を握る。
ここまで来れば。
父へ追いつけると思った。
村で笑われた少年ではなくなると思った。
世界の果てへ来た者。
その一言で、自分を決められる。
「悪いか」
「悪くない」
「じゃあ!」
「完成したら、次へ行けない」
「行く!」
「完成した自分を守るために、先客を外へするかもしれん」
カナタは紫空を見る。
エル。
サライ。
百八十六人。
ノノ。
向こうから見れば、彼らが最初。
「父ちゃんは」
声が少し低くなる。
右膝の古傷が冷え、カナタは次の一歩へ出る代わりに踵を地面へ残した。白旗の中央ではなく、布の端を指でつまむ。
先に着きたい願いより、着いた自分を父に見てもらえない恐れのほうが大きい時、彼の声は低くなる。ザンバはそれを励まさない。否定もしない。名前を呼べない沈黙の代わりに、椅子をカナタの隣へ一脚ぶん近づけた。
「俺が旗を立てなくても、着いたって分かる?」
「死者へ聞くな」
「道になってる!」
「記録は答えない」
「じゃあ、誰に!」
「今いる者へ話せ」
「父ちゃんに言いたい!」
「言うことは止めん。返事を作るな」
カナタは第一到達碑へ背を向ける。
すぐ振り返る。
「一回だけ」
「何だ」
石碑へ向かって叫ぶ。
「父ちゃん! 世界の果てに着いたぞ!」
声が旗林へ響く。
白い折り目へ。
紫空へ。
返事はない。
代わりに、第一歩号の方向から五つの音。
ルゥが船腹を叩いている。
ナギ。
ユラ。
トワ。
ネネ。
五つ。
「今いる人が聞いた」
ザンバが言う。
「お前も?」
「不本意ながら」
「父ちゃんにも?」
「さあな」
「でも、言った!」
カナタは少し笑う。
白旗の銀色の《一》は、まだ薄く残る。
消えない。
立てたい願いも、消す必要はない。
ただ、その願いが誰かの一歩を押し出すとき、見なければならない。
「名板、欲しい」
「正直だな」
「向こうからも読めるやつ!」
「少しは学んだ」
「褒めた!」
「少しだけだ」
折返し潮まで、残り一日。
オリベの全区評議が開かれた。
円卓だけでは足りない。
到達証会館の床。
壁。
天井。
重さの向きごとに人々が立つ。
閉岸を求める者。
橋の試験を続けたい者。
どちらも、町を守りたい。
「透明膜は八呼吸」
ルゥが報告する。
「人を渡すには短い」
「箱は隣へ立った」とユラ。
「一度、紫の箱を落としかけた」
「カナタが干し茸を助けたから!」
「大事!」
「今は黙って!」
「最後尾の子どもは救助できた」とナギ。
「未踏路を最後まで出した」と閉岸派の老女。
「本人が助けを求めた」
「毎回、声を聞けるのか」
「聞く仕組みを作る」
「潮の中で?」
「だから、迎え路と救助路を分ける」
ザンバが灰旗を示す。
「岐点で重さを分ける」
「三つへ分けられるのか」
「今は二つ」
ざわめき。
「まだできない!」
「嘘をつくよりいい」とザンバ。
トワは回転させた片靴旗を会館へ持ち込む。
表に、ネマの到達記録。
裏に、鏡文字。
――一歩、空いてる。
「旗は、抜かずに向きを変えられる」
「小旗だからだ」と第一到達家の老女。
「外側の旗から試します」
「潮までに何本」
「三百」
「全旗は四千を超える」
「全部は無理です」
「なら閉じるしかない」
「向こうへ見せる旗は、三百でもゼロではない」
「残りは?」
トワは答えに詰まる。
ネネが壁際から叫ぶ。
「手で回す!」
「子どもは黙って」と受付。
「私の旗!」
「評議権がない」
「今いる!」
五番目の旗を知る者たちが、ネネを見る。
ナギが言う。
「本人応答あり」
会館に小さな笑い。
受付は困った顔で、ネネへ臨時札を渡す。
「一言だけ」
ネネは臨時札を胸へ留め、嬉しさで片方の髪結びを触った。大人と同じ卓へ入れた顔をした直後、腹が鳴る。
「一言のあと、蜜飴もらっていい?」
会館に笑いが起きる。ネネは赤くなったが、札を返さない。子どもであることと、意見を持つことのどちらも手放さなかった。
「ひいひいおばあちゃんは、片方の靴で来た!」
「そこから?」
「旗を立てた!」
「知っている」
「でも、私が回した!」
片靴旗を掲げる。
「来たこと、消えなかった!」
会館が静まる。
「向こうへ見せたら、ひいひいおばあちゃんが増えた!」
「増えてはいない」とトワ。
「知る人が!」
ネネは紫空側を指す。
「エルが手を振った!」
旗は場所を取ったまま。
到達記録も残る。
向きを変えることで、知らない相手へ道になる。
第一到達家の老女が、第一旗を見る。
「三百年、町へ向けて立った」
「次の三百年は、両方へ」とトワ。
「旗は一枚だ」
「回せます」
「風のたびに?」
「来る船の側へ」
「第一の顔を、外へ向けるのか」
「向こうから見れば、こちらが外です」
ユラの言葉。
老女は黙る。
セイガが評議の中央に立つ。
「岸守長として提案する」
全員が見る。
「橋試験を、夜明けまで続ける」
ユラの顔が上がる。
「夜明けまでに、人一人が安全に中央へ立てなければ、閉岸式を行う」
「相手は?」とナギ。
「両岸から一人ずつ」
「誰が決める」
「本人」
「救助要請が出たら?」
「試験を中止し、救助を優先する」
「閉岸は?」
「その時点で、今いる人数を数え直す」
カナタが笑う。
「俺と同じ!」
「お前から学んだとは言っていない」
「でも同じ!」
反対派が立つ。
「夜明けまでに潮が早まれば!」
「閉岸索は準備済みだ」
「向こうを数えて、町を落とす気か!」
「数えずに閉じれば、同じ事故を繰り返す」
セイガは自分の二色旗を見る。
「十三年前、私は七呼吸を待たなかった」
セイガは白黒の外套から名簿を出し、境界線の上へ置いた。左手で開き、右手は卓の端へ触れたままにする。頁の名を読むたび、左右で厚さの違う靴が一度ずつ床を鳴らした。
「私は安全を選んだ。今も、安全を捨てる気はない。ただし、誰を外へした安全かを隠さない」
橋へ賛成したのではない。境界を消すとも言わない。自分の古い判断だけを無謬にしないことから、岸守長としての次を始めた。
初めて、公の場で言う。
「裏側の返事を記録から外した。死者を反影とした」
会館が揺れる。
怒声。
問い。
セイガは全部受ける。
「四百二十一人」
ナギが数字を読む。
「紫岸側の死者」
名前の板を一枚ずつ掲げる。
向こうから送られた記録。
今、初めて町の歴史へ入る。
第一到達家の老女は目を閉じる。
「閉岸式は、岸守長一人の術ではできない」
「知っている」
「旗守が拒めば?」
「できない」
「なら、夜明けまで」
老女は杖をつく。
「第一旗は動かさない。だが、試験を見届ける」
評議は割れたまま終わる。
一つの答えにはならない。
それでも、夜明けまでの時間ができた。
「待つ時間!」
カナタが言う。
「作業時間」とルゥ。
「同じ!」
「違う!」
外へ出る。
紫空側では、折返し潮が星を一つ呑み込んだ。
残り、夜明けまで。
夜明けまでに、人一人が中央へ立つ。
そのために必要なのは、橋を完成させない人たちだった。
そして、壊れるまで役目を抱えない人たちだった。
ルゥは左手首へ木の副木を当て、銀鋲の半数を紫岸の機巧師へ渡す。ナギは左耳を完全に休ませ、返事の時刻記録をユラへ預ける。ザンバは機巧腕の留め具を外して冷やし、索を引く仕事をトワへ回した。
できないことを隠さず、役目の境目を増やす。橋の中央だけでなく、作る側にも空白が要った。
カナタは、最後の一歩を作らない。
ルゥは、表と裏を同じ重さへ縫わない。
ナギは、返事を一つの合図へそろえない。
ザンバは、二つの道を一つへ戻さない。