第134話 第七章「閉岸評議」後編

ユラは、向こうの場所をこちらの言葉で埋めない。

トワは、旗の表だけを正面にしない。

セイガは、内を一つだけに決めない。

「役目、多い!」

カナタが白い帳面を見る。

「自分の一つだけ覚えて」とルゥ。

「最後を作らない!」

「救助要請がなければ」

「増えた!」

「覚えて!」

第一歩号を第六塔の横へ固定する。

休重錨は、六方向の重さを掴む。

今度は勝手に下りないよう、ルゥが鍵を三つ。

カナタの手へ縄を一本。

「俺を鍵に?」

「触らない鍵」

「船長!」

「だから」

ミナモの硝子枝を、中央の仮足場へ六本。

三番旗の再会紋を、中央の位置だけへ。

四番旗の《次稿》記録を、紫側へ送る設計線へ。

五番旗の現在地点を、両岸の名簿へ。

二番目の旗はない。

トマリギ島に立ったまま。

帰る場所を持ち歩かない。

その代わり、青岸にも紫岸にも、それぞれ帰る灯を確認する。

「俺たちの帰る場所は?」

カナタが訊く。

「今は第一歩号」とナギ。

「カゲノハ村!」

「帰る場所は複数」

「全部!」

「今いる場所は一つ」

「第一歩号!」

「それでいい」

ナギは両岸へ名簿を送る。

青岸。

試験者、ユラ。

「私?」

「本人が決める」とセイガ。

ユラは一呼吸迷う。

「行く」

紫岸。

試験者、エル。

『行く』

返事はすぐ。

「早い!」

『七年待った』

「私も!」

二人の現在地を五番旗へ。

ユラ。

青岸第六塔。

エル。

紫岸第六杭。

それぞれの後ろに、戻る道。

前には、半分の橋。

「開始は夜明け前」

ルゥが言う。

「今じゃないの?」

カナタが訊く。

「潮の重さが最も弱い瞬間」

「待つ!」

「作業する!」

「同じ!」

旗林では、外側の到達旗が一枚ずつ回される。

表を紫空へ。

裏へ鏡文字。

――ここへ来た。

――一歩、空いている。

全部は間に合わない。

だから、外側から。

落ちやすい旗から。

順番を守るためではなく、今危ない場所から。

トワは一枚ずつ番号を記録する。

元の向き。

回した時刻。

重さの変化。

「第一旗は?」

ネネが訊く。

「最後」

「一番なのに?」

「一番重いから」

「最初じゃない!」

「役目で順番が変わる」

トワは少し笑う。

第一界塔。

セイガは閉岸索を切らずに緩める。

いつでも閉じられる。

いつでも試験を続けられる。

二つの可能性を、同じ手に持つ。

「迷ってる?」

ザンバが訊く。

「岸守は迷わない」

「旗が揺れている」

「潮だ」

「内側もな」

「お前には見えるか」

「似た揺れを知っている」

ザンバは灰旗を広げる。

黒い点の間に、細い線を一本加えようとする。

表。

裏。

間。

三つ目は、まだ出ない。

「分けるだけでは足りない」

「何が要る」

「どちらにも入れない意志」

「外にするのと同じでは」

「違う」

ザンバ自身が、その違いを探している。

内でも外でもない。

捨てる場所ではなく。

両方が立てる空間。

「難しいな」

「カナタにうつった」

「最悪だ」

「ああ」

夜明け前。

連標網から、五つの返事。

トマリギ島。

三番港。

ミナモ。

ノクティル。

カゲノハ村。

みんな、違う音。

同じ応援にはそろえない。

『返事を待って』

『別々に踏んで』

『途中を残して』

『今いる人を数えて』

『知らない人の場所を一人ぶん』

カナタは全部聞く。

「分かった!」

「一つずつ言って」とルゥ。

「最後を作らない!」

「次」

「救助なら作る!」

「次」

「向こうの返事を待つ!」

「次」

「旗を立てたい!」

「それは今の気持ち」

「消さない!」

「そこも大事」

白旗の銀色の《一》は、まだ薄い。

願いを消さず。

行動だけを選ぶ。

橋を完成させない人たちは、それぞれ自分の一歩手前へ立った。

青空側の夜が薄くなり。

紫空側の朝が暗くなる。

二つの時刻が、白い折り目の上で同じ灰色になった。

試験開始。

ユラは第六塔の先に立つ。

透明旗を両手で握る。

向こう側。

エルも第六杭の先へ。

初めて、互いの顔がはっきり見えた。

エルは深い鍔の帽子を外した。青岸の光へ目が潤み、片耳を押さえたまま笑う。笑うと片側の犬歯が少し長い。手紙の中で何度も整えた顔より、ずっと不器用で、眩しさに弱い。

ユラは「会いたかった」と言うつもりだった。七年、最初の言葉として温めてきた。けれど喉が詰まり、出たのは別の言葉だった。

「右の靴紐、裏返ってる」

『会って最初が、それ?』

「直すから、こっちへ来て」

理想の友達ではなく、靴紐を間違える今の相手へ手を伸ばした。

七年分の文字より。

声より。

近い。

「髪、紫だったんだ」

ユラが言う。

『手紙に書いた』

「濃さは書いてない」

『ユラは、考えると旗の空白へ指を入れる』

「見えてる?」

『今』

二人は笑う。

ナギが点呼を始める。

「青岸試験者、ユラ」

「第六塔。今、ここ」

「紫岸試験者、エル」

『第六杭。今、ここ』

「帰路」

「青岸」

『紫岸帰岸灯』

「救助要請」

「なし」

『なし』

「開始」

カナタは白旗を突く。

「標術――《未踏路》! 中央の一歩手前まで!」

一歩。

二歩。

三。

光板が色のない空間へ伸びる。

最後は作らない。

白旗が先へ引く。

カナタは両足を踏ん張る。

「ここまで!」

紫側。

エルたちの仮橋も伸びる。

裏重板。

星輪索。

最後の一歩手前で止まる。

ルゥが銀鋲を両岸へ打つ。

《継ぎ路》!」

表側の光板は表の重さへ。

紫側の仮橋は紫の重さへ。

同じ場所へ重ねない。

中央の縁だけを、別々の糸で囲む。

ザンバが灰旗を振る。

《岐点》

黒い点。

青空側。

紫空側。

二本の重さを分ける。

その間。

何もない空白。

三つ目の線は、まだ出ない。

「ユラ」

ナギが言う。

「一歩」

ユラは走る。

一歩。

二歩。

未踏路の端。

その先は何もない。

透明旗を掲げる。

六つの弧。

中央を閉じない。

「私の場所を作らない」

小さく言う。

「エルの場所も取らない」

足を上げる。

空白へ。

透明な半歩が生まれる。

表側の重さを持つ。

ユラの足が着く。

薄い。

揺れる。

でも落ちない。

「一歩!」

カナタが小声で叫ぶ。

「小さく!」とルゥ。

「小さく叫んだ!」

エルも走る。

紫の仮橋の端。

透明半旗を掲げる。

『こちらの場所を作らない』

向こう側からの一歩。

紫の重さを持つ透明板。

エルの足が着く。

二人の間に、あと一歩。

ユラから見れば、エルは逆さま。

エルから見れば、ユラが逆さま。

手を伸ばす。

届かない。

「中央」

ナギが両方の呼吸を聞く。

「同時にしない」

ユラが先に吐く。

エルが少し遅れて吸う。

二枚の半旗が向かい合う。

中央に、透明な一歩が生まれかける。

誰の重さもない。

踏む人に合わせる場所。

「今」

二人が同時ではなく、互いの動きを見て踏み出す。

ユラが半歩。

エルが半歩。

透明な中央が、両方の足を受けようとする。

その瞬間。

到達旗林の最外列で、旗が一本抜けた。

折返し潮の風。

まだ夜明け前なのに、紫の波が岸へ届き始めた。

抜けた旗の来路が、中央へ流れ込む。

青空側の重さ。

透明な一歩が、白く染まる。

「戻って!」

ルゥが叫ぶ。

ユラは足を引く。

エルも。

中央の板が青岸の地面になる。

紫側の足場が引かれる。

エルが傾く。

「エル!」

カナタの白旗が光る。

一歩を出せる。

けれど、本人はまだ自分の仮橋へ戻れる。

「救助!」

ナギが問う。

『不要!』

エルが叫ぶ。

紫の船員が索を引く。

エルは自分の一歩で仮橋へ戻る。

カナタは旗を止める。

「出さなかった!」

「今は正しい」とルゥ。

外側の旗区から、もう一本抜ける。

次。

試験は中止。

トワたちが旗林へ走る。

ネネの片靴旗は回転輪のおかげで風を逃がした。

隣の旗は、まだ表だけを青岸へ向けている。

紫の潮を押し返し。

反動で根元が抜けた。

「全部、回す!」

トワが叫ぶ。

「間に合わない!」と旗守たち。

「外側から!」

「閉岸索を先に!」

「向きを変えれば風が抜ける!」

「失敗したら!」

「今、抜けてる!」

町の人々が旗へ手をかける。

一枚。

二枚。

表を紫空へ。

裏へ鏡文字。

まだ文字を書く時間のない旗には、白い布を一枚だけ結ぶ。

空きの印。

試験は、人を中央へ立たせられなかった。

だが。

ユラとエルは、互いの一歩を見た。

カナタは、頼まれない救助を出さずに待てた。

透明な中央は、一呼吸だけ両方を受けようとした。

「失敗?」

カナタが訊く。

「未完成」とルゥ。

「四番目!」

「今は喜ばない!」

六本の界塔が警鐘を鳴らす。

夜明け前。

折返し潮は、予定よりさらに早く来ていた。