第135話 第八章「向こう側からの第一歩」前編

最外旗区の避難が始まった。

旗を抜けば、町の重さが減る。

抜かなければ、旗ごと人が外へ引かれる。

回せば、風は逃げる。

しかし、回転輪が足りない。

「手で持つ!」

ネネが片靴旗へしがみつく。

「子どもは避難!」

「私の旗!」

「俺が持つ!」

カナタが旗竿を受け取る。

同時に白旗も。

二本。

「重い!」

「到達二人ぶん!」

「俺も到達者!」

「三人ぶん!」

トワは旗守たちへ指示を出す。

「番号を残せ! 抜いた旗は倉庫じゃない、第三塔の空き床へ!」

「順番は!」

「今は人!」

自分で言って、トワの顔が変わる。

今までなら、番号を先にした。

「あとで戻す?」

カナタが訊く。

「戻すか、回すか、立て直す」

「同じ場所?」

「そのとき決める」

「未完成!」

「今はそれでいい!」

旗林の内側では、第一到達家の長イナサが閉岸索を集めていた。

白髪の老女。

評議で最も強く閉岸を求めた者。

五十八歳。白髪は年齢より早く増えた。昔の凍風で傷めた指は、右と左で温度の感じ方が違う。細い索は生身の右手、力の要る綱は感覚の鈍い左手で握る。

遠い旗は霞むのに、手元の結び目は誰より早く見つける。緊張すると片目を閉じ、扉、人、鳴った鐘を順に数える。今朝は避難口三。旗守二十九。返ってこない声、一。数えるほど、閉じる決意が硬くなっていた。

第一到達旗の六つ星と同じ紋を背負っている。

「外側の旗を抜けば、閉岸の標力が足りない!」

「今、人が落ちる!」

トワが答える。

「閉じれば全体を守れる!」

「紫岸は!」

「外だ!」

「四百二十一人を、まだ外って言うのか!」

イナサの顔が歪む。

「私は表の百八人を知っている」

「向こうの名前も聞いた!」

「聞いたから、こちらを危険にできるのか!」

「どっちかじゃない!」

「方法は失敗した!」

夜明け前の試験。

人は中央へ立てなかった。

イナサの言葉は間違っていない。

「もう一度!」

カナタが言う。

「潮が来ている!」

「今度は旗を回して!」

「全旗は間に合わない!」

「じゃあ、間に合う分!」

「町を賭けるのか!」

問いが突き刺さる。

カナタは答えられない。

第一歩号の響路台。

ナギが全現在地を数え直す。

返事が重なり、口の奥へ金属の味が戻る。ナギは五拍を数え、三拍目で止めた。もう一人では正確に分けられない。

「ユラ、青岸の名。トワ、旗区の時刻。紫岸はエルへ返してもらう」

響路士が全員を数えるのではない。各地が自分で返し、彼女は欠けた箇所だけを聞く。点呼そのものを、三つの岸へ渡した。

青岸、二千三百七十六。

避難済み、千八百九十。

外旗区、四百八十六。

紫岸、百八十六。

最後尾船、無人確認。

ノノ、救助済み。

第一歩号、四人と一隻。

ユラ。

トワ。

ネネ。

セイガ。

イナサ。

「数字を言って何になる!」

イナサが叫ぶ。

「誰を外にするか、見える」

ナギは答える。

「見えたら選べない!」

「選べないから、見ないの?」

「町を守る者は、選ぶ!」

イナサは第一到達旗の索へ手をかける。

「岸守長はどこ!」

セイガは第六塔。

ザンバと三つ目の境界を探している。

「待てない!」

イナサは閉岸鐘へ向かう。

トワが前へ立つ。

「第一旗守として、まだ索を渡しません」

「見習いが!」

「旗を守る仕事です」

「町を守れ!」

「旗の向こうに来る人も、町になるかもしれない!」

「かもしれない、で!」

イナサの杖が、トワの肩へ当たる。

青年は下がらない。

片靴旗を持つカナタも。

「俺、世界の果てに旗を立てたい!」

「今それを言うか!」とルゥ。

「でも、向こうの場所を取って立てるのは違う!」

イナサはカナタを見る。

「到達者なら分かるだろう。先に来た者の誇りが」

「分かる!」

「なら!」

「だから、あとから来るやつの最初も残す!」

「一番は一つだ!」

「向こうから見れば、向こうが一番!」

「世界を二つにする気か!」

「最初から二つある!」

白い折り目。

青空。

紫空。

同じ岸を、反対から見る二つの世界。

「一つに決めたら、どっちかが落ちる!」

カナタの声が旗林へ響く。

イナサは杖を下ろさない。

折返し潮が、紫岸の最後尾へぶつかる。

船団が大きく傾く。

響路から救助要請。

『第三十七船、索切断!』

ナギがすぐ位置を聞く。

「人!」

『六人!』

「救助必要?」

『必要!』

「カナタ!」

「行く!」

白旗を突く。

救助路。

迎え路とは別。

第六塔から、紫側の第三十七船の手前まで。

一歩。

二歩。

潮が光板を曲げる。

ザンバの岐点が分ける。

ルゥの銀糸が重さを逃がす。

六人が紫岸へ走る。

最後の一人。

足を負傷している。

「助けて!」

「聞いた!」

最後まで道を出す。

救助成功。

その間に。

イナサは別の閉岸鐘へ向かった。

トワが気づく。

「待って!」

鐘の綱が引かれる。

一音。

ごおん――。

六本の界塔が反応する。

閉岸式の予備起動。

到達旗林の旗が、一斉に青空側へ向いた。

回転させた三百枚まで、元へ戻ろうとする。

「止めて!」

トワが索へ飛びつく。

「今、潮が来てる!」

イナサの目に涙がある。

「返事を待って、また失うのは嫌だ!」

十三年前。

彼女も家族を失った。

閉じたい願いは、恐れだけではない。

「でも!」

トワが叫ぶ。

「今度は、向こうの名前を知ってる!」

二音目の鐘が鳴りかける。

セイガの二色旗が飛んだ。

鐘の綱を壁へ縫い止める。

「岸守長!」

男が第六塔から降りてくる。

「予備起動を止める」

「町が落ちる!」

「まだ落とさない」

「試験は失敗した!」

「未完成だ」

「言葉を変えるな!」

「違う」

セイガ自身が言う。

「失敗と未完成は違う。十三年前、私は同じにした」

イナサの手が震える。

「夜明けまでと言った」

「もう夜明けだ!」

青空側に、細い朝の光。

紫空側には、暗い潮。

確かに時刻は来た。

セイガは町を見る。

試験は人を渡せなかった。

潮は早い。

救助が続く。

「現在地、再確認」

ナギが言う。

「今?」

「今だから」

五つの音。

青岸。

紫岸。

第一歩号。

旗林。

第六塔。

返事が重なる。

欠けているのは、閉岸鐘のそば。

「イナサ」

「ここだ!」

「本人応答あり」

老女は泣きながら笑う。

「何の役に立つ!」

「あなたも落とさない」

ナギが答える。

その瞬間。

折返し潮の先端が、白い折り目へ届いた。

町全体が大きく揺れる。

第二の閉岸鐘が、誰も引かずに鳴った。

ごおん――。

予備起動が本式へ変わる。

六本の界塔から、白黒の線が走り始めた。

「閉岸を止める!」

セイガは二色旗を振る。

白黒の線を第六塔へ戻そうとする。

だが、到達旗林の四千本が一斉に標力を流している。

一人の旗では止まらない。

「旗を回せ!」

トワが叫ぶ。

町の人々が到達旗へ手をかける。

潮の風。

閉岸の引き。

竿は重い。

一枚目。

二枚目。

片靴旗が先に回る。

白い裏面。

――一歩、空いてる。

紫空へ向く。

閉岸線が一瞬、細くなる。

「効く!」

カナタが白旗を掲げる。

「声の道!」

町中へ叫ぶ。

『旗の裏を向こうへ!』

「何を書く!」

『名前! 来た道! 空いてるって!』

「時間がない!」

『白いままでもいい!』

何も書かれていない裏面。

それ自体が、まだ誰の印もない場所になる。

旗が回る。

百。

二百。

閉岸線が揺れる。

紫岸側。

エルたちの船団が潮へ押される。

第六杭が折れかける。

『ユラ!』

「いる!」

『今、行く!』

「待って!」

ユラは第六塔の先へ走る。

閉岸線が中央を狭めている。

あと一刻もない。

「試験じゃない!」

ルゥが銀鋲を投げる。

「戻る道を残して!」

表側の未踏路。

紫側の仮橋。

両方が閉岸線に押し潰される前。

カナタは白旗を突く。

「中央の一歩手前まで!」

光板。

一歩。

二歩。

潮が曲げる。

ザンバの岐点。

「表の重さ!」

一本。

「裏の重さ!」

二本。

「間!」

三つ目。

灰旗の黒い点から、細い線が生まれかける。

どちらにも入らない。

外へ捨てる線でもない。

中央を通るだけの線。

「出た!」

カナタが叫ぶ。

「まだ細い!」

「でも三つ!」

ルゥは三本の重さを別々に縫う。

「ユラ!」

「行く!」

ユラは未踏路を走る。

最後の一歩手前。

透明旗を掲げる。

表側の半歩。

足が着く。

紫側。

エルが仮橋を走る。

潮で板が一枚外れる。

船員がつなぐ。

最後の一歩手前。

透明半旗。

向こう側の半歩。

二人の間に、あと一歩。

閉岸線が迫る。

白と黒の壁。

中央を消そうとする。

「エル!」

「ユラ!」

二人は踏み出す。

先に、エルの足が仮橋を離れる。

カナタの白旗が光る。

一歩を出せる。

助けられる。

でも、エルは求めていない。

自分の透明半旗を振る。

紫の重さを持つ一歩。

向こう側から生まれる。

「そっちの一歩!」

カナタは旗を止める。

エルの足が着く。

ユラも。

二人の透明板が中央へ近づく。

あと半歩。

閉岸線が、二人の間へ落ちる。

セイガが二色旗で受ける。

「内は、一つではない!」

白黒の線が二本へ分かれる。

その間に、透明な帯。

「間の岸!」