第136話 第八章「向こう側からの第一歩」後編
セイガの旗に、細い空白が生まれる。
閉岸線が一呼吸だけ止まる。
ユラとエルは同時ではなく、互いの足を見て最後の半歩を出す。
透明な中央。
足が着く。
向きは逆。
重さも違う。
同じ場所へ立つ。
手を伸ばす。
指が触れる。
透明膜を一枚挟んで。
「エル?」
「ユラ?」
初めて、顔と声と触れた振動が一つになる。
ユラは七年ぶん温めた「会いたかった」を、今度こそ言おうとした。喉が閉じる。右親指も痛み、透明膜の上でうまく曲がらない。
代わりに、エルの風底靴の紐へ指を伸ばした。
「やっぱり逆」
「見えて最初から、そればかり」
「落ちたら困る」
「落ちないために逆なの」
エルは片耳を覆ったまま、長い犬歯を少し見せて笑う。ユラも笑った。会いたかったと言えない自分まで、手紙の中の理想より不器用なエルに見られた。
エルは笑うと右の頬だけ少し上がった。
ユラは考えると、本当に旗の空白へ指を入れていた。
「会ったら、最初に言うこと」
エルが言う。
「何!」
「字、前より上手くなった」
「七年あったから!」
「私も」
「見れば分かる!」
二人が笑う。
その瞬間。
閉岸線の奥から、何千本もの《一》が浮かび上がった。
到達旗林。
第一。
最初。
先に着いた者。
旗の表を向こうへ回したことで、抑えられていた到達願が一斉に目を覚ました。
全部が中央へ走る。
「何だ!」
カナタの白旗にも、銀色の《一》がはっきり浮かぶ。
ユラとエルの足元。
誰のものでもない透明な場所へ。
最初の印を置こうとする。
「離れて!」
ルゥが叫ぶ。
二人は手を離さない。
透明な中央へ、巨大な影が立ち上がった。
六本の界塔が、すべて鳴った。
一つ。
二つ。
三。
青空側の鐘。
紫空側へ返る鐘。
到着。
出航。
索。
最後に、第六塔の空白が音を出す。
ごおおおん――。
閉岸式は、セイガの命令ではなかった。
イナサ一人の願いでもない。
三百年分の到達旗。
先に着いたことを残したい人々。
町を守りたい恐れ。
向こうを知らないまま閉じた歴史。
カナタの、世界の果てへ最初の旗を立てたい願い。
全部が、一本の線へ流れ込む。
白黒の境界が太くなる。
透明な中央を押し潰す。
「ユラ!」
カナタは未踏路を二人の手前へ出す。
「戻れ!」
青岸側。
エルにも、紫側の仮橋が戻る。
二人は別々の岸へ走る。
最後に手を離す。
触れた時間は、十呼吸もない。
それでも、会ったことは消えない。
「閉岸線を止める!」
ルゥが銀鋲を六本の界塔へ投げる。
「《継ぎ路》――逆縫い!」
塔から中央へ向かう線を、元の旗へ返す。
一本。
二本。
白黒の光が戻りかける。
到達旗の《一》が、銀糸を食う。
「つながらない!」
ザンバが灰旗を振る。
「《岐点》!」
閉岸線を表と裏へ分ける。
二本に増えた線が、それぞれの岸を締める。
「分けても閉じる!」
「三つ目!」
ザンバは中央の細線を伸ばす。
透明な間。
だが、到達旗の《一》がそこへ先回りする。
誰より先に。
場所を取る。
線が銀色に染まる。
「俺の旗まで!」
カナタの白旗の中央。
銀色の一。
無数の道の紋章を押し分け、太くなる。
「カナタ、放して!」
ルゥが叫ぶ。
「白旗を?」
「一度、術を止めて!」
「ユラが!」
「戻ってる!」
「エルが!」
「向こうへ戻った!」
「でも中央が!」
「今の未踏路が、閉岸線の餌!」
カナタは旗を引く。
光板が一枚ずつ消える。
透明な中央が細くなる。
ユラは青岸へ。
エルは紫岸へ。
二人とも、自分の岸へ戻る。
閉岸線だけが残る。
第一到達碑の上。
金属の《一》が光る。
船首にはまった一も。
カナタの旗の一も。
三つが呼び合う。
到達旗林の番号が消え始める。
二。
三。
百。
千。
全部が一へ。
「番号が!」
トワが旗へしがみつく。
片靴旗の九二七も、一になる。
ネネが泣く。
「ひいひいおばあちゃんの九百二十七!」
「旗を離すな!」
トワは番号板を抱える。
表の紋章。
裏の鏡文字。
どちらも銀色の一へ塗り潰される。
第一到達旗が地面から抜けた。
太い竿が、中央の白黒線へ刺さる。
次の旗。
次。
何千本もの旗竿が脚になる。
布が胴。
番号板が鱗。
中央に、丸い金属の顔。
第一号。
「標災」
ザンバが灰旗を抜く。
「《先占獣サキドリ》」
第一号の金属面から、細い角が一本伸びた。《一》を横へ倒したような角で、先端だけが絶えず左右へ振れる。目ではなく、その角で「最初に着いた匂い」を探していた。
喉元には、番号板と古い旗布を詰める半透明の袋。第一到達碑を向いた時だけ大きく膨らみ、無記名の救助布へは反応しない。口は左右同じではなく、磨り減った左顎だけが番号板を噛むため厚い。
獣は人間の権利を理解しているのではない。古い到達旗へ染みついた最初の風、所有札の金属臭、同じ場所へ重なる足跡を巣材と餌にしていた。三百年の制度が、サキドリにとって巨大な餌場を作っていた。
「知ってるのか!」
「古い国境で見た」
「何をする!」
「最初の者だけを内にする」
先占獣サキドリが一歩を踏む。
何千本の旗脚が、同じ場所へ刺さる。
そこにいた人々の足元へ、《二番》の印。
地面が拒む。
人々が道の外へ押し出される。
壁へ。
空へ。
「一番以外、立てない!」
ルゥが銀鋲を投げる。
「《継ぎ路》!」
押し出された人々と道をつなぐ。
銀糸の根元へ《二番》。
糸ごと抜ける。
「つながらない!」
ナギが響路旗を掲げる。
「全員、返事!」
青岸。
紫岸。
旗林。
第六塔。
第一歩号。
返事がある場所へ、五番旗の点を出す。
サキドリの脚が、二番以降の点を踏み潰す。
「一つしか残さない!」
ユラが透明旗を広げる。
中央の空白へ人々の足を入れようとする。
一呼吸だけ、所有者のない膜。
十人が落ちる前に止まる。
「道の手前!」
カナタが一歩分の光板。
人々が自分で最後の一歩を踏み、道へ戻る。
「今の!」
ユラが旗を見る。
「空白には、一番が入らない!」
サキドリの第一号が開く。
何千人もの声。
「一番を渡すな!」
「あとから来る者を入れるな!」
「場所がなくなる!」
紫空側。
エルたちの船団にも《二番》の印。
白い折り目から押し返される。
折返し潮は後ろ。
閉岸線は前。
逃げ場がない。
「エル!」
ユラが叫ぶ。
エルは第六杭へ透明半旗を突き立てる。
『ここにいる!』
ナギがその返事を拾う。
「百八十六、まだいる!」
「町も!」
青岸の声。
「二千三百七十六!」
「第一歩号!」
「四人と一隻!」
サキドリは数字を一つへ変える。
それでも、返事そのものは消せない。
違う場所から。
違う音。
違う重さ。
何千もの「ここ」が、第一号の体内でぶつかる。
獣は怒り、空の折り目へ頭を向けた。
紫岸。
まだ誰も青岸へ到達していない場所。
最初になれる場所。
何千本の脚が一斉に走る。
「先に行く気だ!」
カナタの胸が熱くなる。
負ける。
世界の果てに、自分より先に旗を立てられる。
白旗の《一》が強く光る。
「負けるか!」
カナタは走った。
「カナタ!」
ルゥの声。
第一到達碑を蹴る。
白旗を突く。
「標術――《未踏路》!」
サキドリの前へ、一歩。
さらに一歩。
紫空へ。
光路は曲がらない。
獣の第一号が、表側の重さを押しつけている。
「行ける!」
カナタは空を駆ける。
サキドリも隣を走る。
一歩ごとに、カナタの道へ《第一》の印。
「俺の道だ!」
白旗で払う。
さらに前。
紫岸が近づく。
エルが見える。
来るなと手を振っている。
カナタは最後の光板を出そうとする。
「向こう岸!」
巨大な一枚。
全部。
一気に。
白旗が輝く。
そのとき。
工具箱が後頭部へ飛んできた。
「いってえ!」
光板が止まる。
ルゥの銀糸が工具箱の取っ手へ伸びていた。
「あんた、誰と競争してるの!」
「あいつ!」
「その先にいる人とも!?」
カナタは紫岸を見る。
エルたちの船が傾いている。
自分の未踏路が、青空の下を押しつけていた。
十三年前と同じ。
「俺の道が」
「戻して!」
ユラが追いつく。
透明旗を光路へ叩く。
中央の空白が、一歩分の道を抜く。
光路に穴。
「うわっ!」
カナタは白旗を突き、落下を止める。
サキドリは止まらない。
何千本の脚を束ね、穴を越えようとする。
ザンバの灰旗。
「《岐点》!」
一本の脚が三本へ。
右。
左。
中央。
どれが先か決められず、絡まる。
「戻れ!」
ザンバが叫ぶ。
「まだ向こうへ!」
「今のお前は、獣の二番目だ!」
言葉が胸へ入る。
サキドリの前を追う。
先に着くことだけを見て。
エルたちを道の下へする。
白旗の《一》。
自分で受け入れた印。
「くそっ!」
カナタは旗を振り下ろす。
「戻る!」
光路を青岸へ折る。
カナタ。
ユラ。
ザンバが走る。
ルゥは最後尾で銀糸を引き、光板を一枚ずつ外す。
紫岸へ押していた重さが弱まる。
エルたちの船が戻る。
サキドリだけが、白い折り目の中央に残った。
何千本の脚を、両岸へ刺す。
自分を世界の中心にするように。