第137話 第九章「一番が多すぎる」前編

先占獣サキドリは、第一到達碑を食った。

噛むのは左顎だけだった。石より先に、六人の名の周囲へ打たれた《第一》の金属粉を舐め取り、喉袋へ溜める。袋が満ちるほど一字角は真っ直ぐになり、何千本の旗脚も一本の線へ揃った。

逆に、迎え岸の無記名板や、皆で使う救助索には鼻先すら向けない。そこには「最初の持ち主」の匂いがない。サキドリの選び方は残酷でも、気まぐれではなかった。

石に刻まれた六人の名前が消える。

代わりに、一つ。

第一号。

次に第二到達旗。

第三。

番号も。

紋章も。

来た道も。

一つへ塗り潰す。

「ひいひいおばあちゃん!」

ネネが片靴旗へしがみつく。

布の靴紋が、銀色の一へ変わりかける。

サキドリの一字角が、ほかの旗より先に片靴旗へ向いた。ネマが失くした左靴の革と、九百二十七番の金属札。その二つが別々の到達臭を持ち、獣には二重の餌標として映っている。

ネネは理由を知らない。それでも、獣が旗の人柄ではなく、古い札と靴の匂いへ食いついていることだけは見抜いた。

「ひいひいおばあちゃんじゃなく、番号を食べてる!」

その言葉で、トワの守る手が布から番号板へ移った。

トワは番号板を抱え、旗竿を回す。

「裏へ!」

表が紫空へ。

裏の鏡文字。

――ネマ。片方の靴で来た。

サキドリの一が、裏面へ入ろうとする。

中央の《一歩、空いてる》だけで止まる。

「空白!」

トワが叫ぶ。

「名前のない場所は取れない!」

「町中へ作る!」

カナタは白旗を掲げる。

声の道。

『旗の裏へ、一歩ぶん空けろ!』

「到達記録が消える!」

『表は残せ!』

「裏は何を書く!」

『知らないなら、白いまま!』

人々が旗を回す。

表の紋章を紫岸へ見せる。

裏へ白い空白。

一枚。

十。

百。

サキドリの体から旗が外れ、元の竿へ戻る。

獣は何千本の脚を伸ばす。

回した旗を元へ戻そうとする。

ザンバが最短路へ黒い点。

《岐点》!」

一本の襲撃路が三つへ。

旗。

第一到達碑。

紫岸。

獣は全部を取ろうとし、脚を絡める。

「欲張り!」

カナタが叫ぶ。

「お前が言うな」とザンバ。

「今は言える!」

ナギは返事を町中へ分ける。

旗守。

避難区。

紫岸船団。

第一歩号。

同じ声へそろえない。

「片靴旗、本人応答!」

「ここ!」とネネ。

「第百八十旗!」

「ここだ!」

「番号不明旗!」

「ここ!」

サキドリは番号を一へ変える。

人々は名前で返す。

番号が消えても。

旗の穴が変わっても。

誰が来たかは、一人ずつ残る。

第一到達家のイナサは、第一旗の索へ立つ。

最も重い旗。

まだ回っていない。

「イナサ!」

トワが走る。

「回す!」

「三百年、町を向いた旗だ!」

「今、町を食ってる!」

「旗が悪いのではない!」

「だから、向きを変える!」

イナサは第一旗の表を見る。

六つの星。

祖先の名。

ここより先を外と定める。

「この言葉で、町が始まった」

「外にした人もいる!」

「当時は知らなかった!」

「今は知ってる!」

紫岸。

百八十六人。

十三年前の四百二十一人。

名前。

声。

手。

イナサは索を握る。

「回したら、祖先が町へ背を向ける」

「向こうへ顔を見せる!」

ネネが叫ぶ。

「ひいひいおばあちゃんも回った!」

「第一と九百二十七を同じにするな!」

「どっちも来た人!」

子どもの言葉。

イナサの手が止まる。

サキドリの脚が第一旗へ迫る。

カナタが未踏路を出す。

「旗の手前!」

一歩分。

脚を受け止める。

「長く保たない!」

「一歩でいい!」

トワ。

イナサ。

ネネ。

旗守たちが索へ手をかける。

第一旗を回す。

重い。

三百年分の来路。

町の権利。

誇り。

恐れ。

全部が竿へ絡む。

「一!」

カナタが数える。

「二!」

「三!」

「今は声をそろえていい?」とナギ。

「力を合わせる合図!」

「本人たちが選んだ」

「じゃあ!」

全員で。

「四!」

旗が少し回る。

「五!」

表の六つ星が紫空へ向く。

裏の白い布が青岸へ現れる。

イナサは炭筆を取る。

手が震える。

「何を書く」

トワが訊く。

老女は、祖先の言葉を見返す。

ここより先を、外と定める。

その裏へ。

鏡文字。

――こちらにも、人がいる。

次。

――一歩、空いている。

最後の文字。

サキドリの背骨が抜ける。

第一到達旗が、獣の体から外れる。

「回った!」

ネネが跳ぶ。

旗林全体へ、二方向の風。

青岸から紫岸へ。

紫岸から青岸へ。

サキドリの巨体が薄くなる。

それでも、第一号の金属面だけは残る。

カナタの白旗へ向く。

同じ《一》を持つ者へ。

「俺か」

先に着きたい願い。

消えていない。

獣はカナタを、自分の中心へ引いた。

カナタの足元へ、一本の道が生まれた。

自分で出していない。

サキドリの道。

まっすぐ第一号の顔へ。

一字角がカナタの白旗へ向く。新しい旗なのに、最初へ立ちたい願いの匂いだけは旗林のどれより濃い。喉袋の中で古い番号板が鳴り、獣の体は細長い《一》へ折れた。

サキドリにとってカナタは敵ではなく、最も新鮮な巣の中心だった。だから道を差し出す。食べるものを自分から第一へ呼ぶために。

「来い」

何千人もの声。

「最初になれ」

「世界の果てへ旗を立てろ」

「笑った者へ見せろ」

「父へ届かせろ」

全部、カナタの胸にある声。

「行くな!」

ルゥが銀糸を腰へ巻く。

「行く!」

「どっち!」

「あいつを殴る!」

「それなら行って!」

「放すのか!」

「戻る糸!」

「二番目!」

カナタはサキドリの道を走る。

白旗を構える。

第一号の顔が開く。

中に、何千枚もの旗。

喜び。

誇り。

不安。

後から来る者に、自分を消されたくない願い。

「お前も、着いたって言いたいだけか」

獣の牙。

《一》の形。

白旗の中央へ噛みつく。

銀色の一を、太くする。

「入れねえ!」

旗を横へ振る。

牙を受け流す。

「俺は最初になりたい!」

自分で叫ぶ。

ルゥたちが息を呑む。

「でも!」

サキドリの顔へ踏み込む。

「お前の最初で、エルたちを二番にするな!」

拳。

金属面へ当たる。

硬い。

手が痺れる。

サキドリが頭を振る。

カナタの体が空へ飛ぶ。

足元へ未踏路を出そうとする。

獣が先に《一》を置く。

光板がサキドリの場所になる。

「道なら取られる!」

カナタは白旗を引く。

何もない空へ落ちる。

「カナタ!」

ルゥの銀鋲。

腰へ絡む。

引く。

カナタは振り子のように獣の下へ回る。

そこに、第一歩号の休重錨。

六本の銀枝を広げ、間の重さへ停泊している円盤。

中央には、第一到達碑から落ちた大きな《一》

「それ!」

カナタは円盤へ両足をつく。

「何する気!」

「一番を返す!」

「どこへ!」

「持ち主!」

留め具を蹴る。

休重錨が船首から外れた。

「また外した!」

「今はわざと!」

円盤を両手で持つ。

サキドリの顔へ投げる。

「返却ぅっ!」

巨大な円盤が回転する。

中央の《一》を先頭に、第一号へぶつかった。

がぁん――!

町中の鐘が一度に鳴ったような音。

第一号の面がへこむ。

二つの一。

どちらが一番か決められない。

サキドリの頭が左右へ割れた。

「第五翼が働いた!」

「投げただけ!」

「飛んだ!」

「全部投げれば飛ぶ!」

割れた頭の中から、カナタの白旗へ銀糸が伸びる。

《一》を引き抜こうとする。

「今!」

ルゥが叫ぶ。

カナタは白旗の銀色へ指をかける。

外からついた印ではない。

自分が受け入れた願い。

簡単には剥がれない。

「立てたかった!」

引く。

「最初って言いたかった!」

少し浮く。

「父ちゃんに見せたかった!」

さらに。

「村のみんなに、笑ったやつらに!」

銀色の一が、旗の紋へ食い込む。

「でも!」

紫岸を見る。

エル。

サライ。

ノノ。

向こうから来た最初の人々。

「ここは俺の場所じゃない!」

引き抜く。

銀色の《一》が、小さな金属片になって手へ落ちた。

白旗の中央に、空白が戻る。

無数の道の紋章が光る。

「取れた!」

ユラが叫ぶ。

サキドリの第一号へ、大きな亀裂。

でも消えない。

獣の中には、カナタ以外の一番もある。

第一到達旗。

番号。

権利。

誇り。

町中の願い。

「全部、回す!」

トワが旗林から叫ぶ。

「向こうへ、表を!」

人々が旗を回す。

一枚ずつ。

名前を消さず。

紋を残し。

裏の空白を向こうへ見せる。

サキドリの体がほどける。

それでも第一号の顔が、透明な中央へ噛みつこうとする。

ユラとエルが、それぞれの半旗を掲げた。

六つの弧。

中央の空白。

「次は、私たち」

ユラが言う。

エルが頷く。

二人は、もう一度それぞれの一歩手前へ走った。

第一到達碑の内部へ、一時的に退く。

外では、先占獣サキドリが旗林を踏み荒らしている。

折返し潮は、紫空の半分。

残り、半刻。

ルゥはカナタの白旗を机へ広げた。

中央に空白が戻っている。