第138話 第九章「一番が多すぎる」後編

銀色の《一》は、カナタの手の中。

「捨てる?」

ユラが訊く。

「捨てない」

「戻す?」

「戻さない」

「どうする」

「持つ」

カナタは金属片を握る。

「最初になりたいって思ったことまで、なくしたくない」

「それでいい」とルゥ。

「褒めた?」

「気持ちを」

「俺は?」

「行動を見てから」

「厳しい!」

ユラとエルの透明半旗。

表側の一枚。

紫側の一枚。

白い折り目を挟み、二つはまだ触れない。

「六つ目は、迎えの場所」

ルゥが原図を開く。

「でも、場所を空けるだけでは保たない」

「アカリが言ってた!」

「使う人と、受け入れる人」

「ユラとエル!」

「最初は」

「また増える?」

「場所は一人ぶんから。来る人が増えれば広がる」

「旗を立てる場所は?」

「中央」

カナタの顔が上がる。

「俺の?」

「透明旗」

「先に取られた!」

「だから競わない!」

ユラは透明旗を握る。

「私の旗でもない」

「持ってるぞ」

「半分」

「エルのも半分」

「二人で一本?」

「最初は」

「また!」

ナギは六つ目の現在地を確認する。

青岸。

ユラ。

紫岸。

エル。

中央。

今は空白。

「空白を、いないと数えない」

ナギが言う。

「誰かの場所として残す」

「まだ誰もいない」

「来るための場所」

「返事は?」

「来る人が踏んだとき」

「遅い!」

「だから待つ」

「潮!」

「迎え路と救助路を分ける」

ザンバが灰旗を広げる。

黒い点から、三本目の細線がようやく出ている。

表。

裏。

間。

「できた!」

「まだ細い」

「でも三つ!」

「間の道は、どちらの岸にも着かない」

「何へ着く?」

「来た人」

「人が行き先!」

「場所ではなく、選択だ」

「難しい!」

セイガの二色旗にも、変化。

一本だった境界線。

白と黒の二本。

その間に透明な帯。

「内でも外でもない場所を、岸として定める」

「できる?」

カナタが訊く。

「一呼吸」

「短い!」

「踏む者が増えれば、伸びるかもしれん」

「かもしれない!」

「今は、それ以上言えない」

カナタは外を見る。

サキドリ。

折返し潮。

紫岸の船団。

青岸の町。

全部を救うと叫ぶだけでは足りない。

誰が何をするか。

どの一歩を空けるか。

「俺は最後を作らない」

「救助以外」とルゥ。

「覚えた!」

「ユラとエルは、自分の一歩を出す」

「うん」

「ザンバは三つに分ける」

「ああ」

「セイガは間を岸にする」

「一呼吸」

「ルゥはつなぐ!」

「同じにしない」

「ナギは返事!」

「そろえない」

「トワたちは旗を回す!」

「第一旗まで」とトワ。

「ネネは?」

「ひいひいおばあちゃん!」

「旗を守る!」

「イナサは?」

老女は第一到達旗の裏へ、最後の文字を書いている。

――一歩、空いている。

「祖先の名を読む」

イナサは答える。

凍傷で感覚の鈍い左指が、第一旗の裏面を確かめる。文字の細部は右手、重い索は左。ずっと自分だけが知っている分担だった。

「トワにも読ませる」

言った直後、イナサは片目を閉じた。役目を渡せば第一家の正しさが薄れると思ってきた。けれど胸の奥には、もう一人で全ての扉と索を数えなくてよい安堵もある。

「間違えたら?」とトワ。

「私が訂正する。私が間違えたら、お前が」

譲るのではなく、互いに直せる形へ変えた。

「向こうへも」

「六つの役目!」

カナタが叫ぶ。

「もっとある」とルゥ。

「数を増やさないで!」

「町中の人」

「全部!」

「今度は正しいかも」

「褒めた!」

「かも」

外で、サキドリの足音。

どん。

第一到達碑が揺れる。

時間はない。

だからこそ、カナタは一呼吸だけ目を閉じる。

今、ここ。

白旗。

仲間。

先客。

空ける一歩。

「行くぞ」

扉を開ける。

世界の果てへ。

今度は、先に着くためではなく。

向こうから来る一歩を、消さないために。

先占獣サキドリの体は、まだ千本以上の旗でできていた。

回された旗は町へ戻る。

表だけを青岸へ向けた旗は、獣の脚として残る。

「声の道!」

カナタは白旗を口元へ。

『到達旗を回してくれ! 表の名前は消さなくていい! 裏を空けろ!』

町中へ声が飛ぶ。

旗守だけでは足りない。

家族。

商人。

子ども。

自分の旗へ走る。

「回したら権利が!」

『あとで話す!』

「倉庫が!」

『今は人!』

「番号が!」

『名前を持て!』

トワが旗林の中央から叫ぶ。

「番号板は全部、別に保管! 旗の穴が変わっても来た道は残る!」

第一旗守の言葉。

人々が動く。

一枚。

十枚。

百。

獣の脚がほどける。

サキドリが旗林へ突進する。

第一の印を、回転輪へ押し込もうとする。

「三番旗!」

カナタが銅色の小旗を掲げる。

別々の道が、また会う場所。

旗守たちの足元へ、いくつもの再会点。

離れた列で旗を回す者たちが、同じ合図を共有する。

そろえない。

右列は三呼吸。

左列は五。

自分たちの歩幅で。

「四番旗!」

灰青色の小旗。

回転輪の作り方。

失敗した角度。

折れた索。

全部の記録が、次の列へ渡る。

「完成するまで待つな!」

ルゥが叫ぶ。

「今できた輪を次へ! 直し方も一緒に!」

町中で、違う形の回転輪が増える。

「五番旗!」

夜色の点。

ナギが返事を集める。

「第一旗区!」

「ここ!」

「外側第三列!」

「ここ!」

「紫岸船団!」

『ここ!』

「返事なしを消さない!」

未確認の場所は空白。

サキドリが数字を一つにしても、名前と場所は別々に返る。

「二番目は!」

カナタが叫ぶ。

「持ち歩かない!」

ナギとルゥ。

青岸の帰る場所。

紫岸の帰岸灯。

両方が光る。

橋が壊れても、戻る先を失わない。

「最初の旗!」

カナタの白旗。

道を作る。

ただし、最後の一歩手前まで。

「六番目!」

ユラとエルが透明半旗を掲げる。

まだ術名はない。

中央の空白だけが光る。

「今から!」

二人はそれぞれ走る。

未踏路。

紫の仮橋。

一歩手前。

サキドリの脚が先回りする。

ザンバの岐点。

「表!」

一つ。

「裏!」

二つ。

「間!」

三つ。

脚の道を分ける。

機巧腕の接続部へ、ない指の痛みが一斉に走る。三つ目の線は、かつてなら切り捨てた場所だ。ザンバは右腕で旗を固定し、生身の左手を中央の空白へ向ける。

「ユラ。そこを岸と呼べるか」

「一呼吸なら」

「セイガ」

「境界として保つ」

一人で最適な線を決めず、二人の返事を待ってから灰旗を振った。三つ目は技量だけでなく、相談を挟んだために残った線だった。

獣は全部を取ろうとし、体を三つに裂く。

ルゥの銀糸が、三つを同じ場所へ戻さない。

「別々のまま!」

セイガの界定。

「青岸!」

白い線。

「紫岸!」

黒い線。

「間の岸!」

透明な帯。

一呼吸。

ユラが自分の一歩。

エルも。

二人の間、あと一歩。

サキドリの第一号が中央へ噛みつく。

「誰の場所だ!」

獣の声。

「まだ誰のでもない!」

ユラが答える。

「最初は誰だ!」

エルが笑う。

「こっちから見れば、私!」

「こっちから見れば、ユラ!」

カナタが叫ぶ。

「一つに決めろ!」

「断る!」

二枚の半旗が向かい合う。

中央の空白。

サキドリの一が入ろうとする。

でも、まだ誰も踏んでいない場所には、先占する地面がない。

獣の牙が空を噛む。

「今!」

ナギが言う。

同時ではない。

ユラの呼吸。

エルの呼吸。

互いの動きを見て。

向こう側から、エルが先に半歩。

ユラが返す。

二つの透明な一歩が中央へ。

触れる。

六つの弧が一つの輪になりかける。

中央だけは、最後まで閉じない。

サキドリの顎が、二人の足元へ落ちた。

第一号の牙が、透明な中央へ食い込む。

ユラとエルは二枚の半旗を離さない。

表の重さ。

裏の重さ。

両方が腕へかかる。

「ユラ!」

「何!」

「会ったら、最初に言うこと、もう言った!」

「字の話!」

「次を決めてない!」

「今!?」

「今だから!」

第一号が空白を埋めようとする。

一番。

所有。

最初に立った者の場所。

六つの弧が震える。

ユラの胸に、言葉ではない理解が入る。

これは道を作る力ではない。

場所を決める力でもない。

来るか分からない者のために、空白を消さず残す力。

向こうの一歩を、こちらの地面へ変えない。

こちらの一歩を、向こうへ押しつけない。

ただ、どちらから来ても落ちない場所を、一人ぶん空ける。

「ここは、私の場所じゃない!」

ユラが叫ぶ。

「私の場所でもない!」

エルも。

「来たい人の、一歩ぶん!」

二枚の旗竿を、中央へ同時ではなく順番に立てる。

ユラ。

エル。

互いの力を受けて、一本になる。

「標術――《迎標》!」

音は小さい。

爆発もない。

光の柱も上がらない。

ただ、二人の足元に一歩分の岸が生まれる。

白でも。

黒でも。

青でも。

紫でもない。

踏んだ者の重さを、そのまま受ける透明な場所。

サキドリの第一号が押し込まれる。

印は中央へ入らない。