第139話 第十章「中央の空白」前編
空白が、誰かのために空けられている。
所有者のいない場所へ、一番は立てない。
金属面に亀裂。
「誰の岸だ!」
獣の何千もの声。
「来た人の岸!」
ユラが答える。
「次に来る人の分も!」
エルが旗を高く掲げる。
透明岸が一歩から二歩へ。
三歩。
踏み出した人の分だけ広がる。
青岸から、ネネが走る。
「行っていい?」
ナギが訊く。
「本人が決める」とセイガ。
「行く!」
ネネは片靴旗の小布を持つ。
未踏路の端。
最後の一歩を自分で踏む。
迎え岸へ。
紫岸側から、ノノが走る。
『行く!』
裏の仮橋。
自分の一歩。
二人は透明岸で向かい合う。
一人は逆さま。
「本物だ」
ネネが言う。
「そっちも」
ノノが答える。
透明旗の反射でネネの視界の端が白く欠ける。彼女は三つ数え、その間だけノノへ「動かないで」と頼んだ。ノノも右上が見えにくく、代わりにネネの足音を聞く。
「一、二、三。見えた」
「じゃあ次、私が目を閉じる」
「何で?」
「遊び」
救助や祖先の役目ではない、二人だけの最初の遊びが迎え岸へ生まれた。互いの見えない側を声で教え合い、三歩だけ透明岸を往復する。
手を伸ばす。
触れる。
二人分の場所が増える。
サキドリの体へ、さらに亀裂。
第一号一つでは、どちらの子も消せない。
表から来た最初。
裏から来た最初。
同じ場所へ、別々の一歩。
「もっと!」
ユラが呼ぶ。
青岸から人々が来る。
紫岸からも。
一人ずつ。
重さは違う。
向きも。
迎標は、踏んだ者の足元だけを場所にする。
サキドリの何千本の脚が崩れる。
旗竿へ戻り。
番号板へ戻り。
町の歴史へ戻る。
最後に残った第一号の面が、カナタへ噛みつく。
白旗の空白。
最初になりたい願い。
消えたわけではない。
カナタは手の中の銀色の一を見る。
「最初になりたいなら」
一歩踏み込む。
父が残した道。
ルゥがつないだ道。
ナギが聞いた返事。
ザンバが分けた三つの重さ。
別々に進んだ仲間。
続きを渡した町。
止まって数えた船団。
今、向こうから来た一歩。
「誰かの最初も、残せ!」
銀色の一を拳へ握り込む。
第一号へ叩き込む。
「これが俺の――《第一歩》だぁっ!」
轟音。
金属面が砕ける。
破片は《一》の形を失わない。
一つずつ、小さな到達札になって町へ降る。
ネマの一。
第一遠征隊の一。
青岸の一。
紫岸の一。
カナタの一。
誰かを二番にしない、一人一人の始まりへ戻る。
先占獣サキドリの巨体は消えた。
ただし、完全に無へなったわけではない。砕けた第一号の下から、一字角と萎んだ喉袋を持つ、小舟ほどの核が這い出した。左顎だけで空を噛み、番号のない透明岸へ角を向ける。
匂いがない。
誰の最初とも決められていない場所では、巣を作れない。核は何度か体を《一》へ伸ばそうとし、そのたび丸く戻った。最後は、旗林の修理材が積まれた外れへ逃げ込む。
「追う?」
トワが索を構える。
「今は潮!」とルゥ。
ナギは帳面へ《消滅》とは書かず、《個体、生存。巨体化停止。継続観察》と残した。望んだ結末ではなく、今見えている状態を記録した。
旗林へ、何千本の旗が戻る。
表には、来た道。
裏には、空白。
あるいは、向こうから読める言葉。
迎え岸の中央。
透明な六番目の旗が、初めて完全な形ではためいた。
六つの弧。
真ん中に、誰のものでもない空白。
「六番目!」
カナタが叫ぶ。
「まだ終わってない!」
ルゥの声。
折返し潮が、ついに両岸へ到達した。
先占獣の巨体がほどけても、潮は消えない。
紫の壁が、迎え岸へぶつかる。
裏船団を押し。
透明岸を押し。
オリベの町まで、まとめて青空側へ折ろうとする。
「橋がもたない!」
ルゥの銀糸が一斉に張る。
指から血。
左手はもう二本の指しか曲がらない。ルゥは「自分の番ではない」と言いかけ、歯を食いしばって言葉を変えた。
「青岸糸、三本まで。紫岸糸は向こうの機巧師。迎え岸の張力はユラが読む!」
全部をつなぎ続けるのではなく、切れる前に仕事を三つへ渡す。銀鋲を受け取った紫岸の職人が、自分の結び方で糸を張った。形は違う。だから一人の手が止まっても、橋全体は止まらなかった。
「旗は戻ったのに!」
「潮は標災じゃない!」
ザンバが灰旗を振る。
「《岐点》!」
紫の重さへ黒い点。
三つへ分ける。
青岸の上へ逃がす流れ。
紫岸の下へ戻す流れ。
中央の迎え岸を避ける細い間。
それでも量が多い。
第一歩号が流される。
「休重錨がない!」
カナタが叫ぶ。
「投げたから!」
「拾う!」
円盤は潮の中を回っている。
中央の大きな《一》は外れ、別の方向。
「あと!」
「今は船!」
ルゥは六脚岸輪を下ろす。
青岸の旗索へ三本。
紫岸の仮橋へ二本。
最後の一本を迎え岸へ伸ばす。
「刺していい?」
ユラが訊く。
「迎標へ直接はだめ!」
「じゃあ、どこ!」
「空いてる場所!」
「毎回変わる!」
ナギが現在地を聞く。
「第一歩号!」
四人が船腹を叩く。
こん。
こん。
こん。
こん。
朝火炉。
ごうん。
「五つ!」
「周囲!」
青岸から返事。
紫岸。
迎え岸。
三つの位置の間。
「そこ!」
ナギが示す。
ルゥは六本目の岸脚を、場所ではなく三つの返事の間へ下ろす。
第一歩号の回転が止まる。
「停船!」
「第五翼なしでも!」
「今は六脚岸輪!」
「岸脚!」
「数えない!」
到達旗林では、戻った旗が潮に引かれている。
以前の向きなら、全部が紫の重さを押し返し、反動で根元から抜ける。
今は回転輪がある。
「来る潮へ表を!」
トワが叫ぶ。
紫の波へ、到達記録を見せる。
旗が風を受け、回る。
表。
裏。
青岸側へ空白。
潮が過ぎれば、また向きを変える。
固定しない。
第一到達旗も。
イナサとトワが索を握る。
「右!」
「右はどっち!」
「旗の!」
「回ってる!」
「私の右!」
「イナサさんも回ってる!」
「全部右!」
カナタが叫ぶ。
「お前は船へ戻れ!」
旗林に笑いが起こる。
怖いまま。
潮の中で。
笑える一呼吸が、手の力を戻す。
旗が一枚ずつ回る。
紫の潮を帆のように受ける。
到達旗林全体が、町を押し返す壁ではなく、重さを逃がす森になる。
「第一旗、角度十五!」
トワ。
「第九百二十七、二十二!」
ネネ。
「何で違う!」
カナタ。
「来た道が違う!」
ナギが聞く。
旗ごとの音。
同じ角度にしない。
「第一旗、もう二つ!」
「片靴旗、止めて!」
「北風旗、反対!」
四千本。
それぞれ違う向き。
町が潮の上でしなる。
折れない。
セイガは六本の界塔へ二色旗をつなぐ。
「塔を開く!」
「折れる!」
作業員が叫ぶ。
「折らせろ!」
「町が!」
「塔は岸を閉じるためだけにあるのではない!」
白と黒の塔を、表と裏へ三本ずつ開く。
巨大な帆。
中央の第六塔は、迎え岸の空白を保つ。
「岸を、岸として残す!」
オリベ全体が大きく揺れる。
潮の最初の波が、左右へ分かれた。
まだ、後ろにさらに大きな波。
紫岸船団の一隻が、帰岸灯との索を失う。
救助の音が鳴った。
救助要請は、一隻ではなかった。
第三船。
第十四。
第二十九。
最後尾の古船。
潮の重さで、紫岸の船団がばらばらになる。
ナギは一つの「助けて」へそろえない。
「第三船、六人! 紫岸へ自力航行可能!」
「道は出さない!」
カナタが答える。
「第十四船、帆損傷! 索を求める!」
「索の手前まで!」
未踏路、一歩。
エルたちが紫の索を伸ばす。
「第二十九船、負傷者二! 最後の一歩を求める!」
「最後まで!」
必要な分だけ。
同じ救助路にまとめない。
船ごとに重さが違う。
求める助けも。
ルゥは銀糸を別々へ。
「第十四、左へ逃がす!」
「第二十九、中央を通さない!」
「第三、自力!」
ザンバの岐点が潮を三つ。
四つ。
灰旗の黒い点が増える。
「多い!」
カナタが叫ぶ。
「選択が多いだけだ」
「腕は一本!」
「旗は一本」
「同じ!」
「違う」
迎え岸へ、人々が増える。
紫岸から避難する者。
青岸から支える者。
踏んだ一歩の分だけ透明岸が広がる。
ユラとエルは迎標の両側。
「次!」
「青岸から二人!」
「紫岸から三人!」
「同時にしない!」
「こっちが先!」
「次はそっち!」
順番は競争ではない。
重さを受けるため。
迎標が一人ずつ場所を作る。
折返し潮の中央。
古い船が回転している。
船体の半分が崩れ。
甲板に五人。
帰岸灯へも。
迎え岸へも届かない。
「返事!」
ナギが三音。
返る。
「五人、本人応答あり!」
「救助!」
「待って」
「落ちる!」
「何を求めるか!」
ナギが問う。
「紫岸へ戻る?」
『戻れない!』
「迎え岸へ?」
『行きたい!』
「自分で踏める?」
長い間。
船の甲板は崩れている。
『一人、歩けない!』
「四人は?」
『踏める!』
「分ける!」
カナタは未踏路を二本。
四人の手前まで。
最後は自分で。
歩けない一人へは、船まで。