第140話 第十章「中央の空白」後編

「助けて!」

本人の声。

「聞いた!」

完全な一歩を出す。

光路が船体を支える。

四人が走る。

自分で最後を踏む。

一人は仲間に抱えられ、未踏路へ。

迎え岸へ着く。

「全員!」

ナギが数える。

一。

二。

三。

四。

五。

「本人応答あり!」

直後、古船が潮へ消える。

人は残る。

船の終わりと、人の道を同じにしない。

「次!」

ナギは休まない。

左耳は耳栓の下でも鳴り続け、舌へ金属の味が広がる。五拍を数えようとして、二拍目で順番が入れ替わった。これ以上は聞こえても分類を誤る。

「休む。鈴を一つ渡す」

ナギは自分から言った。待つ者の仕事を、一人の我慢へしなかった。

「待つ人も休む!」

カナタが言う。

「五番目!」

「今、俺が聞く!」

ナギの鈴を一つ受け取る。

「どうする!」

「返事を分けて!」

「難しい!」

「三船だけ!」

「できる!」

カナタは耳を澄ます。

全部、同じ助けてに聞こえる。

「ナギ!」

「聞いて!」

一つは帆柱。

一つは船腹。

一つは人の声。

「分かった!」

「どれ!」

「人!」

「場所!」

「右!」

「船の!」

「俺の!」

「船が回ってる!」

「じゃあ音の!」

ナギが小さく笑う。

「そこ」

カナタが示した一つは正しい。

残り二つをナギが拾う。

待つ者も役目を渡す。

全部を一人で聞かない。

潮の最後の大波が来る。

セイガの六塔帆。

旗林。

ザンバの岐点。

ルゥの銀糸。

迎標。

第一歩号。

すべてがしなる。

「持つぞ!」

カナタは白旗を甲板へ突き立てる。

道を前へ出さない。

今いる場所を、一歩だけ支える。

五番旗の点が光る。

青岸。

紫岸。

迎え岸。

三つの返事。

潮がぶつかる。

空が白くなる。

白い光の中。

カナタには、一つの声しか聞こえなかった。

「助けて!」

どこか分からない。

誰かも。

でも、はっきり。

「ナギ!」

返事がない。

響路台が潮で倒れている。

ナギは船縁へ片手でしがみつき、もう片方で青い帳面を守っていた。

「声!」

「聞こえた!」

「場所!」

「分からない!」

カナタは白旗を掲げる。

全部へ道を出せば、どこかに届く。

同時に、全部へ青岸の重さを押しつける。

「問い!」

ナギが叫ぶ。

カナタは声の道を一歩だけ。

「助けが必要な人! もう一度!」

「助けて!」

今度は、迎え岸の下。

透明岸の影。

人影が一人、重さの間へ落ちている。

青岸の人か。

紫岸か。

分からない。

「どっちへ戻る!」

「分からない!」

声の主も。

潮で向きを失っている。

「迎え岸へ来る?」

「行きたい!」

「自分で踏める?」

「足が動かない!」

「聞いた!」

カナタは白旗を振り下ろす。

「標術――《未踏路》! あの人の手前まで!」

最後の一歩を含む道。

青岸にも紫岸にも合わせない。

ザンバの三つ目の岐点を通す。

ルゥが硝子枝で、踏んだ者の重さへ曲げる。

光路が人影の下へ。

体を受ける。

カナタは走る。

「迎えに行く!」

「一人で!」

「道は作った!」

未踏路の端へ。

人影へ手を伸ばす。

紫岸の若い男。

片脚を負傷している。

「掴め!」

「そっちの下へ落ちない?」

「今はお前の下!」

「どうして!」

「ルゥ!」

「私が合わせてる!」

「だから大丈夫!」

「説明を人へ渡さない!」

男が手を掴む。

カナタは引く。

迎え岸へ。

透明な最後の一歩。

男は足をつけない。

カナタが支えたまま踏ませる。

迎標が一人ぶん場所を作る。

「着いた!」

男は青空と紫空を見比べる。

「どっちが上だ」

「好きなほう!」

「選べない!」

「今は座れ!」

「それは分かる!」

ユラが治療班を呼ぶ。

ナギは名を聞く。

「リオ」

「現在地」

三十三歳。袖口には古い火花傷が点々とあり、緊張した掌へ透明岸の細かな粉が貼りついていた。握られたままの手を、リオは一度自分から外す。助けられたあとも、身体の持ち主は自分だった。

「右脚、感覚あり。左は膝から下が鈍い。頭は打ってない。礼は、治療が終わってから言う」

治療班へ自分の状態を先に伝える。救助されたことは、青岸を許す契約でも、セイガへ感謝を差し出す義務でもなかった。

セイガが治療班の道を空けようと近づくと、リオは座ったまま一歩ぶん体を離した。セイガは止まり、右手を伸ばさない。

「名簿へ、怪我の経過も入れてくれ」

「入れる」

「それだけでいい」

二人の間には、迎え岸と同じ空白が残る。救った側が埋めてよい距離ではなかった。

「迎え岸」

「本人応答あり」

潮の白さが薄れる。

最後の波が通り過ぎた。

紫の雲は紫岸へ。

青い雲は青岸へ。

六本の界塔は大きく曲がり。

旗林の半分は向きを変え。

第一歩号は六脚のうち三本を失っている。

でも、町は残った。

船団も。

迎え岸も。

透明な中央に、六番目の旗。

「終わった?」

カナタが訊く。

「点呼」とナギ。

「今?」

「今だから」

青岸。

返事。

紫岸。

返事。

迎え岸。

返事。

第一歩号。

四人と一隻。

返事。

旗林。

トワ。

ネネ。

イナサ。

返事。

セイガ。

第一界塔。

少し遅れて返る。

「全員?」

「まだ」

ナギは空白欄を見る。

潮の間、返事が途切れた場所。

一つずつ確認。

最後。

紫岸第三十七船。

返事。

「現在確認、完了」

「今度こそ終わった!」

「潮は」

「町の仕事は続く」とルゥ。

「でも、今は終わり!」

カナタは終路鐘のない船首を見る。

七番目の旗は、まだ先。

それでも、一つの危機が終わったと分かる。

「着いた」

小さく言う。

世界の果てへ。

そして、向こうから来た人を迎える場所へ。

潮が去ったあとの迎え岸。

ユラとエルは、同じ旗竿を挟んで立つ。

上下は逆。

顔は向かい合う。

透明旗は一枚になっている。

縫い目の片側にはユラの左向きの文字。反対側にはエルの右から始まる鏡文字。どちらかを本文、もう片方を翻訳欄にはしなかった。同じ大きさで、違う順番のまま並んでいる。

ユラが青岸の出来事を決め、エルが紫岸を付け足す旗でもない。二人が互いの記録へ訂正を書ける、両面の台帳だった。

六つの開いた弧。

中央に、丸い空白。

「これが」

カナタは白旗を肩へ担ぐ。

「六番目の旗」

ユラが頷く。

「一本目は、行きたい場所へ」

カナタの白旗。

「二本目は、帰る場所へ」

青岸。

紫岸。

それぞれの帰る灯。

「三本目は、別々に進んだ人が、また会う場所へ」

銅色の三番旗。

「四本目は、続きを渡す場所へ」

灰青色の四番旗。

「五本目は、今いる場所へ」

夜色の五番旗。

「六本目は?」

カナタが訊く。

ユラは中央の空白へ手を入れる。

「まだ知らない誰かの、一歩ぶん」

エルも向こう側から同じ場所へ手を伸ばす。

二人の指が、透明岸の中で重なる。

「自分が着いたって言うためじゃない」

「向こうから来る人へ、空いてるって返す旗」

「迎標!」

「うん」

「俺の旗、立てないの?」

ユラが訊く。

カナタは白旗を見る。

ここへ立てるために、ずっと持ってきた。

今なら、迎え岸の隣に場所がある。

誰も止めない。

第一歩号の名も。

カゲノハ村も。

父のことも残せる。

旗竿を地面へ向ける。

先端が透明岸へ触れる。

一呼吸。

白旗の中央に、銀色の一が戻ろうとする。

カナタは手の中の小さな一を見る。

願いは残っている。

でも。

この透明な場所は、来る人の分。

自分の到達を置くために空いたのではない。

旗竿を引く。

「立てない」

「夢だったんでしょ」とエル。

「夢は叶った」

白旗を背負う。

「世界の果てに来た」

「証は?」

「俺たちが見た」とルゥ。

「記録した」とナギ。

「不本意ながら」とザンバ。

「ユラも!」

「エルも!」

青岸。

紫岸。

迎え岸の人々。

カナタは少し照れる。

「父ちゃんは見てない」

「記録は見ない」とナギ。

「でも、村には今夜伝えられる」とルゥ。

「今夜?」

「連標網が返れば」

「今いる人へ話す!」

カナタは外海を見る。

白い折り目の向こう。

青でも紫でもない大きな海。

光る世界がいくつも浮かぶ。

逆さの樹。

星の輪を根に持つ島。

雲より大きな帆。

父が言った、もっと大きな世界の入口。

「この白旗は」

旗を高く掲げる。

「次の道に使う!」

「ここは終点じゃない?」

「俺の世界の果てではある!」

カナタは胸を張る。

「だから、ここまでの旅は着いた!」

ザンバの目が少し動く。

「終わったとは言わないのか」

「次がある!」

「それは七番目で考えろ」とルゥ。

「七番目!」

「今は六番目!」

ユラは迎標旗の小さな写しを作る。

透明な布。

中央の空白。

第一歩号へ渡す。

「本物はここ」

「持っていっていい?」

「知らない岸で、先客がいたら」

「友達になる!」

「最初に挨拶」

「こんにちは!」

「それから、一歩ぶん空ける」

「分かった!」

「本当に?」

「たぶん!」

「不安」と全員。

六番目の旗は、世界の果てへ立った。

誰かの到達を独占するためではない。

まだ知らない足音へ、ここへ来てもいいと返すために。