第141話 第十一章「両岸の返事」前編
折返し潮から、三日後。
迎え岸には、まだ屋根がなかった。
青岸側から運ばれた柱は、青い空を下にして立とうとする。
紫岸側から運ばれた柱は、紫の空を下にして立とうとする。
二本をそのまま組むと、屋根は真ん中から開いた。
「ちょうどいい!」
カナタが、開いた屋根の下で両腕を広げる。
「雨が両方へ流れる!」
「雨が両方から入るの!」
ルゥが工具箱を投げた。
カナタは白旗で受け止める。
「空が二つ見える!」
「外で見なさい!」
迎え岸の中央には、透明な旗が立っている。
六つの開いた弧。
誰の重さにも決められていない空白。
旗の周囲だけは、青岸の柱も、紫岸の柱も、自分の向きを少し曲げた。
同じ形にはならない。
それでも、倒れずに隣へ立てる。
「屋根は、あとにする」
ユラが決めた。
「先に、通る練習」
「橋を完成させる!」
カナタが叫ぶ。
「完成させない」
ユラとエルとルゥが同時に答えた。
「三人!」
「三日で忘れたの?」とルゥ。
両岸を結ぶ永久橋は、作られなかった。
青岸から伸びる半橋。
紫岸から伸びる半橋。
中央の迎え岸。
三つは、使うときだけ一人ぶん近づく。
通り終えれば離れる。
どちらか一方の停止槌が鳴れば、すぐ引き戻す。
最初の練習は、空箱。
青岸から一つ。
紫岸から一つ。
名前。
中身。
受取人。
全部を別々に返してから動かす。
「箱にも名前が要る?」
カナタが訊く。
「同じ箱が二つある」とナギ。
「じゃあ大きく書く!」
「船長に書かせないで」とルゥ。
「読める!」
「三文字だけ!」
二度目は、空の荷車。
三度目は、水袋一つ。
青岸の水は、青い地面へ落ちようとする。
紫岸の袋へ移すと、口の反対側へ集まった。
「水まで向きが違う!」
「向こうから見れば、そっちが違う」
エルが答える。
「じゃあ両方正しい!」
「両方、こぼす」とルゥ。
袋の口を二つにした。
どちらの岸から持っても、持った側の上へ蓋が来る。
四度目。
ユラが青岸から迎え岸へ。
エルが紫岸から迎え岸へ。
二人とも一度渡った者だ。
それでも、最初からやり直す。
「名前」
「ユラ」
『エル』
「現在地」
「青岸、半橋の端」
『紫岸、第六杭』
「受取人」
二人が互いの名を言う。
半橋が動く。
中央まで、あと一歩。
青岸側の旗守が早く留め金を上げた。
紫岸の停止槌が鳴る。
かん。
両方の半橋が引いた。
「何で止めた!」
青岸の作業員が怒鳴る。
『合図の前だった』
サライの声。
「一指だけだ!」
『十三年前も、最初は一指だった』
青岸側が静まる。
作業員は悔しそうに留め金を下ろした。
「もう一度」
ユラが言う。
「今度は、こっちの停止槌も見て」
『そっちも、こちらの手を見て』
二度目。
ユラ。
エル。
別々の呼吸。
別々の合図。
互いの返事を待つ。
二人は迎え岸へ着く。
橋はそこで止まる。
着いた途端、ユラはしゃがみ込み、エルの右靴の紐へ手を出した。七年前の手紙で何度も描かれた結び方と逆だったからだ。
「直す」
「壊れてない」
エルは片耳を押さえたまま、靴を引く。
「紫岸では、潮の日だけ逆に結ぶ。ほどけた時、帰る側が分かる」
ユラは手を止めた。紙で知った相手を、正しい形へ戻そうとしていた自分に気づく。
「手紙と違う」
「七年たった」
「私も」
「知ってる。話すと、思ったより刺す」
「書くと、そっちも優しすぎる」
二人は笑い、改めて今好きな食べ物、今嫌いな鐘、今眠れる向きを聞き直した。七年の手紙を捨てず、現在の相手をその続きへ押し込まないために。
青岸から紫岸へ抜けない。
紫岸から青岸へも。
「渡れたのに、向こうへ行かない?」
カナタが訊く。
「今日は、ここまで」
「七番目みたい!」
「今は六番目の運用」とナギ。
練習は成功した。
だからといって、両岸が互いを信じたわけではなかった。
青岸の落岸遺族は、紫岸船の鉤を迎え岸へ持ち込ませなかった。
紫岸の船員は、界塔の閉岸索が見える場所でしか眠らなかった。
救助されたリオは、セイガを見るたび一歩離れた。
セイガは呼び止めない。
サライも、紫岸の武器庫を開かなかった。
ただし、青岸の市場で売られていた六角形の髪留めだけは、何度も手に取った。紫岸にはない形だった。
「重さの試験」と公用の声で言う。
エルが「似合う」と告げると、サライの姿勢が一瞬だけ崩れた。
「あたしが欲しいとは言ってない」
家族の前でだけ出る一人称だった。武器庫は閉じたままでも、趣味の品を一つ持ち帰る程度の往来は始められる。信頼は大きな扉より、小さな買い物から先に動いた。
「一緒に潮を越えたのに?」
カナタが訊く。
「助けたことと、許したことは違う」
ユラが答える。
「友達じゃない?」
「なる人もいる」
「ならない人も?」
「いる」
「難しい!」
迎え岸の脇へ、一枚の大きな板が立てられた。
ユラは最初の案を突き返した。青岸の文章が中央、紫岸の文がその下の《補記》になっていたからだ。
「向こう側を付け足しにしない」
エルも、紫岸の文を先頭へ置く案を下げる。透明板の左右へ同じ幅を取り、中央には両方の文章が一致しない箇所を《未合意》として残した。読みにくさは欠陥ではなく、まだ一つに決めていない現在だった。
青岸の文字。
紫岸の鏡文字。
中央だけ、両方から読める透明板。
――青岸は十三年前、裏側の返事を切り、未完成の橋を起動した。
――紫岸は第六杭の完成前に、船団を橋へ進めた。
――双方に死者と負傷者がいる。人数と名前を岸ごとに残す。
――共同救助は、責任の免除でも、許しの強制でもない。
――仮橋は、どちらか一方の停止で閉じる。
最後の行だけ、何度も書き直された。
――次に開く条件は、両岸の受取人が現在を返すこと。
セイガが青岸側へ名を書く。
サライが紫岸側へ。
ユラとエルは、証人の欄。
「合意した!」
カナタが喜ぶ。
「全部ではない」とセイガ。
『責任の分け方は、これから』とサライ。
「でも、同じ板!」
「違う文章を、同じ場所へ置いた」
「それで十分!」
「今は」とユラ。
普通の暮らしも、同じにはならなかった。
青岸の食堂は、蓋のない鍋を地面へ置く。
紫岸の炊事船は、鍋を天井へ縛り、蓋を二重にする。
迎え岸で一つの鍋を使うと、汁が二つの方向へ分かれた。
「新しい料理!」
カナタが匙を伸ばす。
「失敗汁!」と両岸の料理人。
鍋を中央へ置くのをやめた。
青岸の茸煮。
紫岸の星蜜煮。
二つの小鍋を透明索で隣へ吊るす。
食べる者が、自分の重さへ皿を傾ける。
ネネは紫の星蜜を舐め、顔をしかめた。
「甘いのに苦い!」
ノノは青岸の干し茸を噛む。
「苦いのに甘い!」
厨房見習いとして味を報告したあと、ノノは匙を置き、ネネの袖を右手で引いた。道具には左、人へ触れる時は右。
「片づけが終わったら、さっきの目を閉じる遊び」
「仕事じゃない?」
「仕事じゃないからやる」
ノノは大きすぎる外套の袖を二度まくった。役に立つ子どもとしてではなく、遊ぶ約束を持つ子どもとして迎え岸に残る。
「同じだ!」とカナタ。
「逆!」と二人。
寝台も違った。
青岸の寝台は床へ置く。
紫岸の寝床は帆柱から吊るす。
迎え岸の仮宿では、床と天井の両方へ縄が張られた。
青岸の夜は、紫岸の朝。
当番表へ《朝》と書くと、半分が眠っている。
ナギは時刻を鐘の回数で分けた。
――青岸三つ鐘。
――紫岸一つ鐘。
同じ一日へまとめない。
「暮らすだけで、橋の試験みたい」
カナタが言う。
「橋より難しい」とルゥ。
「でも、腹は減る!」
「そこだけ同じ」とエル。
「友達!」
「食事中だけ」とユラ。
「増えた!」
屋根より先に、鐘が必要になった。
ナギは迎標の左右へ、小さな鐘を一つずつ吊るす。
青岸の鐘は、トマリギ島の青銅。
紫岸の鐘は、エルたちの船で使われていた紫銀。
二つを溶かして一つにはしない。
細い透明索だけで、中央の空白を挟んで結ぶ。
「同時に鳴らす?」
エルが紫岸から訊く。
「一つずつ」
ナギは答えた。
「同じ音にすると、どっちが返したか分からない」
「両方が同じ返事なら?」
「それでも二つ」
「面倒」とカナタ。
「大事」とナギ。
「難しい!」
「知ってる」
ルゥが二つの鐘の間へ、ミナモの硝子枝を六本差し込む。
一本目は青岸の重さ。
二本目は紫岸。
三本目は迎え岸。
残り三本は、まだ誰も立っていない方向へ空けた。
「《折返し対鈴》」
ルゥが名をつける。
「向こうから来た音を、こちらの音へ直さない。向こうのまま通す」
「連標網につながる?」
カナタが身を乗り出す。
「つなげる」
「カゲノハ村まで?」
「途中の全部が返事をすれば」
「頼む!」
「それならいい」
ナギは青岸の鐘を五回。
こん。
こん。
こん。
こん。
こん。
音は透明索へ入る。
紫岸の鐘は鳴らない。
青岸から来た音として、空白を通り、連標網へ出ていく。
長い間。
第一歩号の朝火炉が一度、低く鳴る。