第142話 第十一章「両岸の返事」後編
遠い中継鐘が順番に返る。
最後。
へこんだ薬箱の底を叩く音。
『カゲノハ村。発着場の現標板。今、ここ』
「アカリ!」
カナタが鐘へ顔を近づける。
『近い』
「世界の向こうだぞ!」
『声が』
「前もやった!」
「なら離れて」とルゥ。
カナタの額が鐘へ当たり、余計な一音が鳴った。
『今の何』
「カナタ」と三人。
『分かった』
「音だけで!?」
『今ので』
迎え岸に笑いが起きる。
エルは紫岸の鐘へ手を置いた。
「これで、届く?」
「名前から」
ナギが促す。
エルは一度、息を吸う。
紫銀の鐘を五回。
青銅とは違う、少し高い音。
『エル。紫岸。迎え岸の手前。今、ここ』
音は紫岸のまま、透明索を通る。
カゲノハ村までの中継が、一つずつ返す。
長い沈黙。
『聞こえた』
アカリの声。
エルの肩が下がる。
「初めまして」
『初めまして』
二人とも、次の言葉が出ない。
七年、ユラとは紙で話してきた。
青岸の外へ声を届けるのは、初めてだった。
「何か訊け!」
カナタが小声のつもりで叫ぶ。
『全部聞こえてる』
「小声、難しい!」
エルは笑った。
それから、最初の紙舟に書いた問いを口にする。
「あなたの空は、何色?」
カゲノハ村の向こうで、六つ鐘が鳴った。
古い枝葉の下。
朝の少ない村。
『影の色。青と緑と、苔灯りの白。今月の朝は八分』
後ろから、ハルガの声。
『九分にする!』
『まだ工事中』
『できる!』
「こっちの空は紫」
エルは見上げる。
迎え岸の中央では、紫も青も透明旗を通して重なっている。
「でも、ここへ立つと二つ見える」
『来るなら、受取人の名前が要る』
アカリが言う。
「受取人?」
『私の旗は、名前と今の返事がある人へしか傾かない。道は作れない』
「じゃあ、あなたへ」
『来る日の私は、今と同じ場所にいないかもしれない』
「厳しい!」
カナタが割り込む。
『カナタには言ってない』
「俺にも厳しい!」
アカリの後ろで、黄緑の旗布が小さく擦れた。
『エル。紫岸。今、ここ』
紙へ筆を走らせる音。
『現標板の《外から来る声》の欄へ書いた』
「俺より先に!?」
『カナタは旅先の欄』
「世界の果てって追加!」
『迎え岸、って書く』
「今、ここ!」
ナギが頷く。
アカリはエルへ訊く。
『いつか来たい?』
「行ってみたい」
『来る日が決まったら、もう一度返事して』
「今じゃだめ?」
『今の返事は、今の場所』
エルは少し考え、頷く。
「分かった」
カナタは二つの鐘を見る。
青岸。
紫岸。
迎え岸。
その向こうのカゲノハ村。
「今すぐじゃない。でも次に返事を聞くとき、村に誰が増えたか聞く」
『うん』
アカリは短く返した。
『こっちも、増えた名前を一つずつ返す』
「エルが最初?」
『外から来る声の欄では』
エルが紫銀の鐘を一度鳴らす。
「こんにちは」
『こんにちは』
カゲノハ村の現標板へ、世界の向こう側から届いた最初の名が加わった。
カナタの名を《村へ来る人》として書く日が来るかどうかも決まっていないうちに、エルの名が先に加わった。
故郷の板は、知らない声を受け取る場所へ変わっていた。
それでも、黄緑の旗はエルへの道を作らない。
名前と今日の返事だけを、消さずに残した。
十日後。
第一到達碑の前から、番号を競う列が消えた。
旗は残っている。
第一到達旗。
第九百二十七到達旗。
北風から来た最初。
片方の靴を失くして着いた最初。
どれも、立った日の場所に戻された。
ただし、旗の根元には新しい板が一枚ずつ増えていた。
表から読める記録。
裏から読める鏡文字。
到着した順番だけではない。
来た場所。
一緒に来た者。
そのあと、どこへ行ったか。
分からない欄は、空白のまま。
「第一は第一のまま?」
カナタが訊く。
第一旗の記録板を持っているのは、今日はイナサではなくトワだった。老女は三歩後ろから見ている。手元の誤字ならすぐ見つけられる距離だ。
トワが一度、鏡文字の向きを間違える。イナサの右手が上がりかけ、止まる。ネネが先に「逆!」と笑った。
訂正する人が自分だけではない。イナサは入口、見物人、鐘の数を数えかけ、三つ目でやめた。数えなくても旗は倒れなかった。その安堵を、まだ誰にも言わない。
「起きたことは変えない」
トワは第一旗の布を回した。
「でも、一番偉いとは書かない」
トワは近くの糸なら迷わず直せるが、遠い見物人の顔は今日も二十九歩目からぼやける。だから説明役を一人で抱えず、ネネに来訪者の表情を読んでもらった。
「退屈そうな人、三人!」
「では事故分類から話す」
正しい第一旗守だけでなく、到着旗二百一本を倒された日の面白い案内人として笑われる。咳き込みながら本人も笑い、石突を磨く回数は以前より減っていた。
「俺の《休重錨で到達旗を二百一本倒して着いた最初》は?」
「作らない」
「最初だぞ!」
「事故分類」
「分類はある!」
ネネが小さな板へ書く。
――到着時損壊、旗二百一本。
「そこだけ残すな!」
「歴史」とトワ。
「厳しい!」
第一到達碑の土台には、外れていた銀色の《一》を戻す穴がある。
カナタは十日間、上着の内側へ入れていた。
取り出す。
小さい。
けれど、手へ持つと重い。
「返す」
トワが目を瞬く。
「持っていかないの?」
「第一歩号につけたら格好いい」
「じゃあ」
「でも、俺の一じゃない」
カナタは碑へ差し込む。
銀色の一が、元の場所へ戻る。
ぴたりとはまった。
「最初に着いた人の?」
「最初に着いたって、ここへ書いた人の」
カナタは訂正した。
「向こうにも、最初がいた」
トワは第一旗の裏へ、新しい透明板をつける。
そこにも同じ一文字。
鏡にしても形が変わらない、一。
「二つ?」
「同じ板を、両側から見る」
「一つ?」
「立った場所は一つ。見た側は二つ」
「難しい!」
「数字よりは」
第一到達碑の隣に、新しい長机が置かれていた。
机の青岸側には、大きな白い名板。
紫岸側には、同じ大きさの鏡板。
中央には、まだ何も書かれていない透明板。
「カナタ」
セイガが白い名板を示す。
「約束した到達名板だ」
第一到達碑と同じ高さ。
大きな字を三つ入れられる。
その下へ、第一歩号。
世界の果てへ到達した証。
カナタは板へ近づく。
指で、何もない表面をなぞる。
「欲しい」
「正直」とユラ。
「すげえ欲しい」
「なら書け」とセイガ。
筆もある。
カナタが書ける三文字。
カ。
ナ。
タ。
白旗の中央が、少しだけ揺れる。
ここへ立てなかった旗の代わり。
父へ。
村へ。
笑った者へ。
自分が着いたことを、石より大きく残せる。
「書かない」
カナタは筆を置いた。
ルゥが顔を上げる。
「本当に?」
「少し待って!」
「今、書かないって」
「気持ちが追いつくまで!」
三呼吸。
四。
五。
「長い!」
「自分で待ってるの!」
カナタはもう一度、空の名板を見る。
「書かない」
今度は、声が揺れなかった。
「俺の名前だけ大きくしたら、第一歩号で来た四人と一隻が小さくなる」
「俺は構わん」とザンバ。
「俺が構う!」
「船は?」とナギ。
「もっと構う!」
カナタは白旗を背負い直す。
「旗も置かない。名板も置かない」
「証は?」
ネネが訊く。
「みんなが見た!」
「忘れたら?」
「記録する!」
「名板と同じじゃない?」
「一人の場所を取らない記録!」
ルゥが少し笑う。
「そこまで言えるなら、作れる」
名板を立てる代わりに、到達証会館の中へ一冊の厚い記録簿が置かれた。
旗一本ぶんの場所も取らない。
表紙は青岸の木。
裏表紙は紫岸の薄板。
背だけ、迎え岸の透明索。
最初の頁に、ナギが書く。
――飛空艇、第一歩号。
――乗員、カナタ、ルゥ、ナギ、ザンバ。
――船、一隻。
――到着地点、青岸旗林。事故により旗二百一本を転倒。
「そこ、最初に書く!?」
「起きた順」とナギ。
次。
――紫岸側からの現在応答を確認。
――両岸救助へ参加。
――迎え岸の成立を確認。
――個人の到達番号、なし。
――個人名板、なし。
――到達旗、設置せず。
「最後の三つ、でかく!」
「同じ大きさ」とナギ。
「俺の決断!」
「事故も決断も記録」
「厳しい!」
頁の下へ、四人がそれぞれ自分の字を置く。
カナタ。
ルゥ。
ナギ。
ザンバ。
第一歩号は字を書けない。
カナタが船首の鍋蓋を外そうとする。
「へこみを押す!」
「外さないで!」
ルゥが腕を掴む。
「船名板を使う」
第一歩号の古い板を紙へ押し当てる。
つぎはぎの凹凸。
鍋蓋の丸。
ミナモの銀枝。
トマリギ島の青板。
カゲノハ村の古い木。
文字ではない船の形が、薄く写る。
朝火炉が、ごうん、と鳴った。
「本人応答!」
「炉圧」とルゥ。
「返事!」
「どっちも書く」とナギ。
――朝火炉、作動音あり。
――船長は本人応答と判断。
「分けられた!」
「喜ぶところ?」とユラ。
「全部残った!」
空の大名板は、立てられなかった。
トワが裏返す。
表も。
裏も。
何も書かない。
迎え岸の受付へ運ぶ。