第143話 第十二章「世界の果てから始まる」前編
「次に来る人の?」
カナタが訊く。
「誰か一人の名前を先に決めない板」
ユラが答える。
「着いた人が、自分で返事をするまで空ける」
「俺の名板が、六番目になった!」
「元から空白」とルゥ。
「譲った!」
「欲しかったことは本当」とナギ。
「そこも書く?」
「必要なら」
「書かない!」
「本人応答あり」
机の奥では、別の名簿が作られていた。
旗林の外れでは、小舟ほどに縮んだサキドリが修理材の山を回っていた。番号板へは左顎を向けるが、《共同材》とだけ書いた無記名の板は食べない。風で飛ぶ古い札を一字角で押さえ、元の旗から来た匂いごとに山を分ける。
「役に立ってる?」
ネネが訊く。
「食べる前に取り上げれば」とトワ。
古い来路の匂いを見分ける感覚は、旗を元の列へ戻す作業に使えた。ただし飼い慣らしたわけではない。番号の権利を再び一か所へ集めれば、喉袋はまた膨らむ。
観察札には、毎日三項目。
――左顎で食べた物。
――無視した共有物。
――一字角の長さ。
制度が変わったあと、生き物がどう変わるかまで町の記録に入った。
十三年前、青岸で失われた百八人。
紫岸で失われた四百二十一人。
番号ではなく、一人ずつの名。
記録が残らない者は、空白の一行。
空白の横に、人数だけを小さく書く。
「分からないなら、まとめて一つでもいい」
イナサが疲れた声で言う。
「四百二十一行は長い」
「短くしない」
ナギは答えた。
「名前が分からないことと、一人だったことは違う」
エルたちが持ってきた古い船籍。
セイガの記録庫。
両方を合わせる。
一人の名が戻る。
空白が一行減る。
死者は帰らない。
けれど、最初からいなかったことにもされない。
セイガは百八人目の名を書き終える。
サライは四百二十一人目の横へ、小さく印を置く。
二人の筆が、机の空白を挟んで止まった。
「閉じたほうが守れると思った」
セイガが言う。
「来れば奪われると思った」
サライが答える。
「今も、怖い」
「私も」
「では、なぜ開く」
「名前を知ったから」
セイガは名簿を見る。
「知ったあとで、外とは呼べない」
「内にしなくてもいい」
「迎え岸か」
「今は」
二人は同じ結論へ一つにまとまらない。
許し合ってもいない。
それでも、同じ机で次の名を書く。
カナタは記録簿を閉じる。
「世界の果てへ着いた!」
「名板は?」とネネ。
「置かない!」
「旗は?」
「持っていく!」
「番号は?」
「ない!」
「最初は?」
「先客がいた!」
「悔しい?」
「悔しい!」
即答。
みんなが笑う。
「でも」
カナタは迎標を見る。
「先にいたやつがいたから、向こうがあった」
白旗を背負う。
「俺の夢より、世界のほうが大きかった!」
第一到達碑の銀色の一が、青と紫の二つの空を受けて光った。
カナタの名を刻んだ板は、どこにも立たなかった。
それでも、四人と一隻が着いた事実は、誰か一人の場所を取らずに残った。
それから、一か月。
右膝の冷える朝、カナタは船首へ出る前に温石を一つ巻くようになった。本人はまだ《助走具》と呼ぶ。ルゥの左手首には着脱式の副木があり、精密作業は右、重い鋲は紫岸の機巧師と交代制。ナギは左右の耳を一刻ごとに休ませ、ザンバは機巧腕の留め具を自分以外にも外せるよう、鍵の写しを三本作った。
傷が治って別人になったのではない。できない日にも船が進める仕組みが、一か月ぶん増えた。
第一歩号は、順調に二隻になっていた。
「俺の船が増えた!」
修理桟橋で、カナタが両腕を上げる。
第一歩号の船首には、丸い板が二枚ついていた。
一枚は青岸の白木。
もう一枚は紫岸船の黒紫材。
背中合わせ。
間に透明な硝子枝。
正面から見れば、二枚の鍋蓋。
横から見れば、一枚の薄い舵。
「船は一隻!」
ルゥが舵の下から顔を出す。
「《両面折岸舵》。青岸と紫岸、両方の重さを読む」
板の裏には、製作者の名が同じ大きさで刻まれていた。
――設計、ルゥ。
――紫岸荷重、紫岸船工班。
――透明枝調整、ユラ、エル。
その下に、まだ空の二行。次に直す者と、用途を変える者のためだ。
ルゥは最初、機巧番号だけで済ませようとした。自分の名を残したい気持ちを、停止係の仕事へ隠す癖が出たからだ。けれど今回は、自分で《ルゥ》と彫った。完成品として固定するためではない。誰の試行を、次の誰が改造したか分かるようにするためだった。
「名前、残した!」
カナタが裏まで覗く。
「見れば分かる」
「褒めていい?」
「改造する前なら」
ルゥは髪の銀鋲を一本戻した。照れた時ほど技術条件が増える。
「第六翼!」
「舵!」
「六番目だから!」
「六番旗と機巧番号を一緒にしない!」
「でも飛ぶ!」
「飛ぶのは船!」
ルゥは右の板を叩く。
「こっちは青岸の下を読む」
左。
「こっちは紫岸」
透明枝。
「真ん中は、どちらにも決めない」
「同時に回したら?」
「待って」
カナタは二本のレバーを同時に引いた。
「だから待って!」
両面折岸舵が開く。
青岸の下。
紫岸の下。
二つを同時に掴む。
第一歩号の船首が、その場で百八十度回った。
甲板が天井になる。
天井が甲板になる。
カナタは空へ落ちる。
「飛んだ!」
「落ちた!」
ルゥの銀鋲が腰へ刺さる。
「《継ぎ路》!」
カナタは帆柱へぶら下がった。
ザンバの椅子は、先に天井へ固定されている。
「準備がいい!」
「一か月見ていれば分かる」
「止めろよ!」
「止めても引く」
「知ってるなら助けろ!」
「今、落ちていない」
「ぶら下がってる!」
ナギは逆さになった響路台へ座り、青い帳面を押さえていた。
「船体、本人応答あり」
朝火炉が、ごうん、と怒ったように鳴る。
「喜んでる!」
「炉圧が高い」
「返事!」
「整備不足」とルゥ。
「誰の!」
「あんたが試験前に動かしたせい!」
両面折岸舵を戻す。
第一歩号はもう一度回る。
今度は正しい甲板へ、全員が落ちた。
ザンバの椅子だけは動かない。
「ずるい!」
「学習だ」
ザンバの灰色旗にも、変化があった。
黒い点から伸びる五本の線。
その外側に、六本目。
ただし、線は黒い点から直接始まっていない。
一歩ぶんの空白を置き、その向こうから伸びている。
「新しい標術?」
カナタが顔を近づける。
「まだ名はない」
「《空け道》!」
「却下」
「《どうぞ路》!」
「却下」
「《先客優先》!」
「標識だ」とルゥ。
「分かりやすい!」
ザンバは六本目へ指を触れる。
「切る前に、誰の道かを見る」
「切らない?」
「必要なら切る」
「怖い!」
「境界も置く」
「閉じる?」
「必要なら閉じる」
「やっぱり怖い!」
「ただし」
ザンバは迎標を見る。
「線を置く前に、間を残す」
カナタは少し考えた。
「難しい!」
「知っている」
迎え岸では、ユラとエルが交代で《裏書き》をしていた。
ユラは口頭の注意が短く刺さり、エルは紙へ書くと必要以上に柔らかくなる。二人で一枚を直すと、最初の稿は命令文と遠慮文に割れた。
「《止まれ》でいい」
「紫岸では急に止まると上へ落ちる。《速度を半分》」
「それを先に書いて」
「訊かなかった」
七年の友達でも、仕事なら毎回条件を聞き直す。仲がよいことを、分かったつもりになる免許にはしなかった。
青岸から届く文字を、紫岸から読める形へ。
紫岸から届く文字を、青岸から読める形へ。
そのまま読める言葉は、そのまま残す。
同じ意味へ直せない言葉は、二つ並べる。
トワとネネは、到達旗の回転を練習している。
風が青から来れば、記録を青へ。
紫から来れば、紫へ。
人が来れば、その人が読める向きへ。
「旗が忙しい!」
カナタが言う。
「立ってるだけより、いい」とトワ。
セイガとサライは、六本の界塔を三本ずつ管理していた。
中央の第六塔だけは、どちらの所有にもしていない。
毎朝、両方の作業員が別々の鍵を持ってくる。
二つそろっても開かない。
迎え岸から返事が来て、初めて開く。
「面倒」とカナタ。
「大事」とナギ。
「前にも聞いた!」
ナギは第一歩号の響路台へ、新しい対鈴の片方を取りつけた。
もう片方は迎標の隣へ残す。
「持っていかない?」
カナタが訊く。
「二つとも持ったら、帰る音がない」
「二番目!」
「少し」
「六番目じゃない?」
「帰る場所と、迎える場所は違う」
「旗が増えるほど難しくなる!」
「道が増えたから」
ナギは鈴を一度鳴らす。
迎え岸から一度返る。
今いる場所。
戻ってくる場所ではない。
それでも、呼べば返事をする場所。
修理桟橋へ、エルが大きな地図を持ってきた。
青岸の星図と、紫岸の潮図を重ねたもの。
透明な中央に、二本の巨大な樹が描かれている。
根元は一つ。
梢は二つ。
一方に金色の灯。
もう一方に黒い灯。
「次の場所?」
カナタの目が輝く。
「青岸では《双灯樹エオス》」
ユラが読む。
「紫岸では《二つ着きの木》」
エルが反対側から指す。
「同じ場所?」