第144話 第十二章「世界の果てから始まる」後編
「たぶん」
「行く!」
「話を聞いて!」
ルゥが工具を投げる。
カナタは白旗で受け止めた。
「条件は?」
「頼まれてない!」
「じゃあ、困ってない?」
「片方の灯が十年、消えてる」
エルは紫側の記録を広げる。
「到着した船が、着いたことにならない。門を通っても、また外へ出る」
「面白い!」
「困ってる!」と全員。
「行こう!」
ルゥは地図を見る。
ナギは消えた灯から届く、不規則な七つの音を帳面へ書く。
ザンバは、終わりへ届かず戻る線を見た。
「次は、着くことか」
「世界の果てには着いた!」
カナタは胸を張る。
「だから、今度は世界の果てから行く!」
第一歩号の船首で、第六翼が勝手に半分開いた。
船体が九十度傾く。
「触ってない!」
「調整中!」とルゥ。
「機巧のほうから冒険した!」
「直す!」
出航の朝。
迎え岸には、青と紫の二つの朝があった。
青岸の太陽は沈みかけ。
紫岸の太陽は昇りかけ。
二つが透明旗を通り、中央だけを白く照らす。
第一歩号は、迎え岸の外側へ船首を向けていた。
船体には新しい板が二枚。
青岸の白木。
紫岸の黒紫材。
古い傷は消していない。
傷の横へ、新しいつぎはぎを増やした。
「点呼」
ナギが青い帳面を開く。
「船長」
「カナタ! 今、ここ!」
「航路機巧師」
「ルゥ。船首のレバーから船長を離して、今ここ」
「触ってない!」
「手が近い!」
「響路士」
「ナギ。今、ここ」
「監視役」
「ザンバ」
「今は?」
「見れば分かる」
「本人応答、あり」
「雑だ!」とカナタ。
「船」
ナギが甲板を五回叩く。
こん。
こん。
こん。
こん。
こん。
朝火炉。
ごうん。
「第一歩号。今、ここ」
「五つ!」
カナタが指を立てる。
「六番目は?」
ナギは迎標の隣に残した対鈴を見る。
「空けておく」
「乗員が足りない?」
「違う」
「誰か乗る?」
「決めない」
「椅子は?」
「四つ」
「増やさない?」
「必要になったら、本人に聞く」
「難しい!」
「今は出航」
ナギは六つ目の欄へ、名前を書かない。
右耳の鈴を外し、左耳の栓も一度抜く。出航前の静けさを五拍ぶん確かめてから、空白欄の横へ小さく書き足した。
――一人で聞かない。
未知の返事を最初に拾うのが自分とは限らない。船腹、対鈴、乗員の誰か。聞いた者が名を訊き、ナギはその返事を一つへ潰さない。六つ目は響路士の能力の席ではなく、船全体が知らない声を受け取る余地だった。
――まだ知らない返事の場所。
欠員ではない。
誰かを乗せる予約でもない。
知らない声が来たとき、最初から雑音へしないための空白。
出航鐘を鳴らす前に、迎え岸の対鈴が鳴った。
一度。
紫岸から、小さな家族舟が近づいている。
父親。
母親。
子ども二人。
潮のあと、初めて自分たちの舟で青岸へ来る家族だった。
透明旗の前で、舟が止まる。
『第一歩号が先?』
紫銀の鐘から声。
カナタは船首を見る。
外海は開いている。
双灯樹までの道も。
今すぐ出られる。
家族舟は、迎え岸へ入るための向きをまだ決められずにいる。
「そっちが先!」
カナタは白旗を振った。
全員が彼を見る。
「何だよ!」
「言えるんだ」とルゥ。
「当たり前だ!」
「一か月前なら、横へ道を作って同時に行った」
「今もできる!」
「やらない?」
「一歩ぶん空ける!」
家族舟へ向かって叫ぶ。
「こんにちは! 今いる場所を教えてくれ!」
父親が名を答える。
母親。
子ども二人。
ナギが一人ずつ記録する。
迎標の空白が、舟の重さに合わせて四人ぶん広がる。
家族が踏む。
青岸でも紫岸でもない最初の一歩。
カナタは船首で待つ。
足が何度か前へ出かける。
そのたび、ルゥが上着の裾を掴む。
一度目は、右膝が先に出た。ルゥに引かれる。
二度目は、白旗の中央を握りかけ、端へ持ち替えた。自分で止まる。
三度目は、家族舟の子どもが最後の一歩を探すまで、踵を甲板へ残した。膝は痛み、心は先へ走っている。それでも、待つことを他人に止められる動作ではなく、自分の船長仕事へ変えた。
「待ってる!」
「体が出てる!」
「心は待ってる!」
「体も!」
四人目が迎え岸へ着く。
本人応答。
現在地確認。
ナギが頷く。
「空いた」
「今度こそ!」
カナタは出航鐘の綱を引く。
からん――。
今度は最後まで鳴った。
迎え岸から歓声。
青岸。
紫岸。
到達旗林の四千本が、それぞれ違う角度で第一歩号を見送る。
ユラとエルは、透明旗の両側から手を振る。
「次に来た人の一歩、残しとけ!」
「そっちも!」
「船へ場所はある!」
「勝手に決めない!」とルゥ。
「聞いてから!」とナギ。
「知ってる!」
連標網の対鈴が鳴る。
カゲノハ村。
アカリの薬箱。
『行ってらっしゃい』
「世界の果てから!」
『次に返事するとき、村に誰が増えたか聞いて』
「名前ごと!」
『古い宿名だけで走らないで』
「今の受取人を聞く!」
『本当に?』
「たぶん!」
『不安』
「みんな同じこと言う!」
カナタは白旗を振る。
「こっちの次の現在も送る!」
『聞こえた』
「止まらずに?」
『暮らしながら』
「俺たちも!」
響路が静かになる。
ルゥは操舵輪を握る。
「両面折岸舵、青岸重さ解除」
右の鍋蓋が開く。
「紫岸重さ解除」
左も。
「中央、空白」
透明枝が光る。
「朝火炉、前進」
「船長は?」
「前を見る!」
「操舵輪へ触らない」
「分かってる!」
第一歩号が迎え岸を離れる。
一歩。
二歩。
両面折岸舵が、青と紫の重さを同時に放した。
船体がその場で一回転する。
船首が迎え岸へ戻った。
「着いた!」
カナタが叫ぶ。
「出航したの!」
「一周して着いた!」
「第六翼の左右が逆!」
「俺、触ってない!」
「今度だけは本当!」
ルゥが二本の索を入れ替える。
ユラが岸から笑う。
「二回目の到達記録、いる?」
「いらない!」
「珍しい!」
「出るぞ!」
二度目の出航鐘。
からん――。
第一歩号は今度こそ、白い折り目の外へ進んだ。
背後に、世界の果て。
そこへ立つ六番目の旗。
船上には、その小さな写し。
前方には、二つの梢。
一つの金色の灯。
一つの暗い灯。
双灯樹エオス。
「次は七番目!」
カナタが白旗を掲げる。
「旗を増やすために行くんじゃない!」
「困ってるなら助ける!」
「話を聞いてから!」
「条件は?」
「まだ頼まれてない!」
「着いて聞く!」
「普通に着いて!」
「任せろ!」
「それが一番不安!」
笑い声を載せ、第一歩号は世界の果てから出航した。
道がないなら、最初の一歩になればいい。
それは、今もカナタの信条だった。
けれど、道がないように見える場所にも、向こうから来る足音がある。
自分には白い空白でも。
誰かにとっては、長く歩いてきた道の最後かもしれない。
旗を立てる前に、声をかける。
返事を待つ。
名前を聞く。
そして、一歩ぶん空ける。
その空白は、何もしなかった跡ではない。
相手の一歩を、自分の一歩へ塗り替えなかった証だった。
折岸都市オリベには、三つの岸が残った。
青岸。
紫岸。
迎え岸。
到達旗は、来る風ごとに向きを変える。
旗林の外れでは、縮んだサキドリが今日も一字角で古い札の匂いを探す。番号を権利として積んだ山へは近づき、皆で使う修理材へは丸い体で寄り添うだけ。ネネとトワは追い払わず、喉袋の膨らみを毎朝記録する。
町が変われば、生き物もすぐ善いものへ変わるわけではない。けれど、同じ餌場を作らなければ、同じ巨体には戻らない。その不確かさも、空白のまま残された。
表には、来た道。
裏には、これから読む誰かのための空白。
第一到達碑の隣には、番号のない到着板が増えていく。
最初かどうかではなく。
誰が、どこから、今ここへ来たか。
分からない欄は、消さずに残す。
迎標の対鈴は、ときどき知らない音を返した。
ユラはすぐに道を作らない。
エルも、すぐに手を伸ばさない。
まず、五つ鳴らす。
向こうから五つ返る。
「名前は?」
「今、どこ?」
「こちらへ来たい?」
返事があってから、透明旗が一人ぶん場所を作る。
六番目の旗は、世界の果てへ立ち続けた。
カナタの旗ではない。
ユラだけの旗でも。
エルだけの旗でもない。
先に着いた者が、あとから来る者へ渡す場所の旗。
そのころ。
第一歩号は、双灯樹へ向かう外海で、順調に同じ星を三度追い越していた。
「星に追いついた!」
「船が輪を描いてるの!」
「世界は丸い!」
「今度は航路が丸い!」
「同じだろ!」
「違う!」
船首には、白い旗。
無数の道が手を取り合う紋。
中央には、まだ大きな空白。
空白は、六番目の旗で埋まらなかった。
埋める必要がなかった。
これから会う者。
これから選び直す道。
いつか向き合う故郷の問い。
まだ名前のない一歩を受け取るため、残っている。
世界の果ては、終点ではなかった。
向こう側の者にとっては、世界の入口だった。
そしてカナタにとっては。
世界の果てから始める、次の一歩だった。