第145話 第一章「七回着いて、まだ着かない」前編
道がないなら、最初の一歩になればいい。
誰かが二歩目を重ねれば、足跡は道になる。
三歩目が別の方角へ進んでも、また会う旗があれば道は途切れない。
四歩目を、自分より先へ行く誰かに渡すこともできる。
五歩目を急がず、今いる者を数えることもできる。
六歩目を置く場所に先客がいたなら、一歩ぶん空けて迎えればいい。
では、七歩目まで歩いた道を、どこへ置けばいいのだろう。
歩き続けるだけでは、着いたことにはならない。
終わることは、歩いた道を捨てることではない。
けれどカナタは、「終わった」と口にすれば、自分まで止まってしまうと思っていた。
折岸都市オリベを出て、十三日目。
飛空艇《第一歩号》は、順調に七回到着していた。
「着いた!」
船首で、カナタが両腕を上げる。
右膝だけが、着地のたび半拍遅れた。冷えた朝に痛む古傷は、七周目の遠心力で熱を持っている。本人は膝を一度叩き、「七回ぶんの助走だ」と呼び替えた。
船首へ上がる最後の段では、いつものように一段だけ跳んだ。着地と同時に、小さく「到着」。大声の宣言より前に毎回そう言うのは、自分の足が本当に止まったか確かめるためだった。
前方には、二本の巨大な樹が抱き合うように浮かんでいた。
根元は一つ。
太い幹が空の途中で二つへ分かれ、それぞれが天樹海へ大きな梢を広げている。
左の梢には、町ほどもある金色の灯。
右の梢には、同じ大きさの黒い球。
一方だけが朝日のように輝き、もう一方は夜より暗い。
双灯樹エオス。
青岸と紫岸の船乗りが、世界の果てから内海へ入るとき、最初に目印にする世界樹だった。
「着いてない!」
操舵輪を握るルゥが叫び返す。
遠くの到着輪は輪郭までしか見えず、ルゥは工具帯の薄い片眼鏡を左目へ当てた。三十歩先の顔は服で見分けるのに、歯車の欠けなら爪の幅より細くても見落とさない。
右手で操舵輪、左手で重さの偏りを読む。左の親指の付け根には《継ぎ路》の反動痛が残っていた。痛い日は銀鋲を一本減らすと決めているのに、今日は怒りに任せて二本多く髪へ挿している。
「門をくぐった!」
「その門、六回目!」
第一歩号の真下を、巨大な石の輪が通り過ぎる。
輪の上には金色の文字。
――双灯港アケヨイへ、ようこそ。
ただし、その下の矢印は港の内側ではなく、外海へ向いていた。
輪をくぐった瞬間、第一歩号は見えない風路に押し出される。
船首がくるりと回り、双灯樹から離れていく。
「ほらな! 着いたから出た!」
「到着と出航を一息で済ませないで!」
ルゥが操舵輪を逆へ切る。
船首の二枚鍋蓋――正式名称《両面折岸舵》、カナタの中では《第六翼》――が背中合わせに開いた。
右の板が青岸の重さを掴む。
左の板が紫岸の重さを探す。
片方からは金色の灯が返る。
暗い灯からは、何も返らない。
二枚の釣り合いが崩れた。
第一歩号は横向きに一回転する。
「第六翼が片思いしてる!」
「機巧に恋愛させないで!」
甲板の中央では、ナギが響路台へ両膝をついていた。
青緑の短い髪。
首に下げた二つ組の鈴。
膝の上には、各地の返事を記す青い帳面。
右耳には欠けた鈴。左耳には、重なりすぎる音を削る薄い耳栓。問いは右手で送り、返事は左手で記す。二つを同じ手へ持たないのが、ナギの決め事だった。
七音を聞く前、舌先で前歯の裏を五度押す。一、二、三、四、五。最後の一拍で、口の中へ薄い金属味が広がった。音が多すぎる前兆だが、彼女は「道具のほうが疲れた」としか言わない。
「一回目と二回目は、同じ到着音」
ナギが数える。
「三回目も。四回目も。五回目も」
「だから同じ門だって言ったでしょ!」とルゥ。
「六回目」
「もういい!」
「七回目」
ナギは暗い梢へ耳を向けた。
そこから、細い音が来ている。
こん。
こん。
こん。
こん。
こん。
こん。
こん。
七つ。
同じ間隔。
同じ強さ。
七周すべて、少しも変わらない。
「誰か呼んでる?」
カナタが暗い灯を見る。
「音はある」
ナギはすぐに頷かない。
「返事かどうかは、まだ分からない」
「七回も鳴った!」
「同じ音が七回、残ってるだけかもしれない」
「同じだろ!」
「違う」
ナギの声は小さい。
それでも、港を七周する風よりまっすぐ届いた。
「返事は、聞いたものに合わせて変わる」
甲板の後ろで、ザンバが椅子から片目を開く。
灰色の旗には、黒い点から六本の線。
六本目だけは、点の手前へ一歩ぶんの空白を置いて始まっている。
椅子は船縁へ背を向けず、左右どちらへも立てる角度に半指だけずらしてある。怖いときほどザンバは動かない。今も黒い機巧の右腕で椅子を固定し、生身の左手だけを膝へ置いていた。
白と金の光が強い場所では、失った右腕の幻肢痛が増す。右は切る手。左は受け取る手。その区別を守るため、痛みがある日ほど、物を渡されるまで左手を空けておく。
「暗い灯は、船を受け取っていない」
「もっと分かりやすく!」とカナタ。
「港がお前を着いた者として数えていない」
「俺を!?」
「船ごとだ」
「失礼な港だな!」
「主に船長を見て判断したのかも」とルゥ。
「港に目があるのか!?」
「話を増やさない!」
第一歩号は七度目の大回りを終え、同じ到着輪へ近づく。
輪の右側には、細長い塔。
頂上には、白い靴下が一枚干してある。
「見ろ、ルゥ!」
「見てる!」
「七つ子の塔じゃなかった!」
「最初から一つ!」
「靴下も同じ!」
「六周前から言ってる!」
到着輪が迫る。
くぐれば、また外へ押し出される。
カナタは船首のレバーへ手をかけた。
「止める!」
「触るな!」
「第六翼を下ろす!」
「舵よ!」
「今は錨になる!」
「設計にない!」
レバーを引く。
二枚の丸板が開く。
青岸の重さ。
紫岸の重さ。
迎え岸で増えた透明枝が、六方向へ細い爪を伸ばす。
その一本が、港の外側へ流れる光索へ引っかかった。
「止まった!」
「何かを引っかけた!」
「同じだ!」
「違う!」
光索が張る。
第一歩号の船首が急に右へ引かれた。
索の先から、小さな黒い舟が飛んでくる。
舟というより、細長い箱だった。
周囲には七本の消火筒。
先端には、光る火の玉を挟む大きな鋏。
鋏へ、一人の女が両足を踏ん張っている。
短い髪は、根元が黒く、先だけ夕焼け色。
額には片方だけ赤い風眼鏡。
背中の旗も暮色だった。
布には、小さな灯が七つ並ぶ。
六つは淡く光り、七つ目だけ輪郭しかない。
女は赤い風眼鏡を二度押し上げた。袖口からのぞく手首には、細い縫い傷がいくつもある。
消火筒を一から七まで声に出して数え、逃げる火と港の出口を交互に見た。
女は鋏の先に挟んだ火の玉へ、厚い布をかぶせようとしていた。
火の玉は細い光の尾を引き、港の外へ逃げようとしている。
「動かないで!」
女が叫ぶ。
「俺たちに?」
「その火に決まってるでしょ!」
「船は?」
「もっと動かないで!」
「無理!」とルゥ。
「何で到着索に調理器具を刺してるの!?」
「翼だ!」
「焼くほうの道具!」
「空も焼ける!」
「何を言って――前!」
女の舟と第一歩号の間に、逃げる火の玉。
二隻の進路は完全に重なっている。
止まれという声は聞いた。だが、火の玉と小舟が同じ線へ入り、ヨイが一人で飛び移ろうとしている。カナタは船を前へ出すのではなく、彼女の手前だけへ一歩を置くつもりで旗を抜いた。
「ルゥ、右!」
「右に到着輪!」
「左!」
「出航塔!」
「上!」
「発ち灯!」
「下!」
「荷ほどき区!」
「じゃあ前!」
「毎回最後がそれ!」
カナタは白旗を抜く。
「標術――《未踏路》! あの子の手前!」
一歩分の光板が生まれる。
女の舟の前。
第一歩号が乗り上げる。
しかし、光板の先に到着点がない。
板は途中から折れ、港の外へ向いた。
「道まで出ていく!」
「この港では、終わりが全部、次の始まりへ送られる!」
女が叫ぶ。
「面白い!」
「困ってる!」
第一歩号は折れた光板を坂にして跳ね上がった。
女の舟を越える。
逃げる火の玉を、船首の丸板がすくい上げた。
「取った!」
「取らないで!」
火の玉が二枚の間へ入り込む。
両面折岸舵が猛烈に回転した。
第一歩号も回る。
小舟は光索につながれたまま、あとから回る。
一回。
二回。
三回。
ナギは響路台へ両腕を回し、帳面を押さえる。
「七音、近づく!」
「誰の!」とルゥ。
「火の中!」
火の玉からも、同じ七音が鳴っていた。
女は小舟を蹴り、空へ跳んだ。
「私が消す!」
「落ちるぞ!」
「ここでは全部、外へ落ちる!」
「任せろ!」
「何を!?」
「全部!」
「その答え、事故の前に聞きたくなかった!」
カナタも船首を蹴る。
白旗を空へ突き、女の足元へ一歩。
光板は外へ曲がりかける。
女が暮色の旗を振った。
六つの灯が光る。
曲がった板が、一呼吸だけ止まった。
女は踏み切る。
火の玉へ火消し布をかぶせる。