第146話 第一章「七回着いて、まだ着かない」後編
じゅっ、と短い音。
光の尾が消える。
七音も止まった。
同時に、到着索が消える。
第一歩号を支えていたものがなくなった。
「止まった!」
「落ちる!」
「止まるのと落ちるの、近いな!」
「近くない!」
第一歩号は到着輪の内側へ落ちた。
今度こそ港へ入る。
最初に突っ込んだのは、《第一到着門》だった。
門の鐘が鳴る。
からん。
船体へ金色の札が貼りつく。
――到着手続き、開始。
「着いた!」
次の瞬間、門の裏側が開く。
第一歩号は《第二出航門》へ射出された。
「出た!」
「まだ!」
第二門。
第三門。
第四門。
到着札が一枚ずつ増え、そのたび出航風が船を先へ押す。
「何枚貼る気だ!」
「終わってないから!」
「門を七つ通れば終わる!」
「数の問題じゃない!」
第七門の先には、巨大な荷ほどき場。
何千個もの箱。
すべてに同じ札。
――到着未了。
「前、荷物!」
「見えてる!」
「どけてもらう!」
「箱に頼まないで!」
第一歩号が箱の山へ突っ込む。
一列目が倒れる。
二列目が滑る。
三列目の中身が空へ舞う。
靴。
食器。
雲魚の干物。
封を切られていない十年前の手紙。
最後は、到着札を束ねた柔らかな山へ船首から刺さった。
ぼふん、と金色の紙が舞う。
しばらくして、札の中からカナタの腕だけが突き出た。
「着港……完了……!」
女が隣から這い出す。
髪にも肩にも、到着未了の札。
「完了してない!」
「船は止まってる!」
「壊れたから!」
「じゃあ到着だ!」
「この港で壊れることを、到着って呼ばないで!」
船首の二枚鍋蓋が、遅れて札の山から転がり出る。
間に、消したはずの火の玉が一つ挟まっていた。
女は無言で火消し布をかぶせる。
じゅっ。
完全に消える。
「今のは?」
カナタが訊く。
「終わり損ねた道の火」
女は細長い板を取り出し、数字を書き始めた。
「弁償」
「どこから数えた!?」
「第一到着門から」
「その前の七周は?」
「迷惑料」
「着いてないのに!?」
「だから高いの!」
女の名は、ヨイといった。
二十四歳。
双灯港アケヨイの《消路師》。
そして、第一歩号が破った到着札三千二百枚の、今日の整理係だった。
札を拾う左手は速いが、右手首は火消し鋏の重みでわずかに震える。ヨイはその手を背へ隠し、「札が多いだけ」と言った。
札の下から空の皿が出ると、ヨイの視線が最後の一口の跡で一度止まった。理由はまだ語らない。
「一枚ずつ貼り直すの?」
カナタが札の山を見上げる。
「貼らない」
「じゃあ弁償なし!」
「数を戻す」
「同じ札だぞ」
「持ち主が違う」
「名前が読めない」
「読んで」
「俺が!?」
「壊した人」
「ルゥ!」
「自分で覚えなさい」
「世界の外まで来たのに、まだ字が追ってくる!」
「字は世界の内外で消えない!」
第一歩号は、荷ほどき場の端へ引きずられていた。
船体の傷は三か所。
帆は一枚、第四到着門へ置いてきた。
両面折岸舵は二枚とも無事。
「また船体より丈夫」
ルゥが丸板を叩く。
「やっぱり翼に向いてる」
「次は船体を鍋蓋で作る?」
「重いぞ」
「本気で考えないで!」
ナギは、甲板中央の《響路台》を組み直していた。
台の縁には、四枚の乗員札。
カナタ。
ルゥ。
ザンバ。
ナギ。
トマリギ島から乗った日に使った最初の椅子は、折岸都市で紫空へ落ちた。
それから作った席は、もう「四つ目」と呼ばれていない。
響路台と一体になった、第一歩号の常設《響路士席》だった。
青岸と紫岸の職人が半分ずつ作った背板には、小さな鈴穴が七つある。
「一つ増えた?」
カナタが覗き込む。
「六番目までは前の旅で使った」
ナギは穴を順に指す。
「場所」
「時刻」
「持ち主」
「行き先」
「今の返事」
「知らない声の空白」
「七番目は?」
「まだ決めない」
「音が七つあるぞ!」
「同じ七つだから、決められない」
ナギは消した火の灰を、小さな響皿へ入れた。
細い針を置く。
灰の中から、また音が浮く。
こん。
こん。
こん。
こん。
こん。
こん。
こん。
ヨイの手が止まった。
「第七帰航隊」
「知ってる音?」
「十年前から、着き灯の中で鳴ってる」
「誰の返事?」
ナギの問いに、ヨイはすぐ答えた。
「母さんたち」
「何て言ってる?」
「帰ってる」
「言葉は?」
「七つ鳴る」
「返事の形は?」
「七つ」
「何を聞いても?」
ヨイは黙る。
黙ったまま、荷ほどき場にいる人数を数えた。カナタ。ルゥ。ザンバ。ナギ。自分。入口二つ。開いた扉一つ。消火筒七本。
母の話で言葉が止まると、代わりに人と音と出口を数える。数え終わっても答えは出ない。それでも、今ここにいるものまで母の七音へ吸われないための、小さな防波堤にはなった。
ナギは響皿の前へ、自分の鈴を置いた。
一度鳴らす。
「名前は?」
灰から七つ。
同じ間隔。
二度鳴らす。
「今、どこ?」
七つ。
変わらない。
三度。
「聞こえてる?」
七つ。
一音目の高さも。
七音目の余韻も。
最初と同じ。
「返事じゃない」
ナギは言い切らない。
「少なくとも、今の問いへの返事ではない」
言い切った直後、ナギは左耳の栓を深くした。金属味が強い。自分が聞きたい結論へ寄り始めるときの合図でもある。
「灰の量、見て」
ルゥへ響皿を渡す。ヨイには、三つの問いを同じ順で読み返してもらう。
「判定は私。でも確認は三人」
聞き分ける力を一人の権威にしないため、限界が近いほど、構造と文言を他者へ渡すようになっていた。
ヨイが響皿を取り上げる。
「消した火の灰だから」
「灯へ行けば分かる」
「分からないって決めた?」
「決めてない」
ナギは青い帳面を開く。
――七音。
――三問、変化なし。
――記録の可能性。
――現在地、未確認。
「消さない」
「何を」
「母さんたち」
「消してない」
ナギは帳面をヨイへ見せる。
「今の返事と、残ってる音を同じにしないだけ」
ヨイは文字をしばらく見た。
背後から、軽い足音。
一人の少年が荷ほどき場へ飛び込んできた。
十六歳ほど。
朝焼け色の髪を短く刈り、白い外套を片肩だけにかけている。
背中の旗には、一つの金色の灯から七本の細い線が外へ伸びていた。
右眉の途中だけ毛がなく、白い外套はいつも片肩へ掛けている。気持ちが発つ側へ傾くと右肩、帰る側を考えると左肩へ移す癖があった。
大きな音が重なると耳鳴りと吐き気が出る。アサギは片耳を塞ぎ、「鐘が近すぎる」と言い換えた。反論するときは相手の最後の言葉を一度繰り返し、逆でもないのに「逆に」と始める。道具を見ると、役目より先に勝手な名前をつける点だけは、カナタとよく似ていた。
「ヨイ!」
「アサギ」
「また終路火を勝手に消したのか!」
「消路師だから」
「終標まで決める権限はない!」
「発路師見習いに言われたくない」
少年――アサギは、第一歩号へ貼りついた札を見る。
三千二百枚。
壊れた門。
消火筒。
カナタ。
「どれが事故の中心?」
「俺が船長だ!」
「じゃあ、あなた」
「どうして分かった!」
「自分で言った!」とルゥ。
アサギはヨイの響皿へ目を向ける。
「七音へ触った?」
「三回」
「灯主に知られたら」
「聞かせる」
「大連灯式の前に余計なことをするな」
「余計なのは、終わってる道を始まりへ送り返すこと」
「帰航隊は終わってない」
「十年」
「十年だからだ」
二人の言葉が、同じ場所でぶつかる。
カナタはヨイを見る。
次にアサギ。
「仲がいいな!」
「どこが!?」
二人の声が重なった。
「同じ速さで怒った!」
「カナタ」
ルゥの工具が後頭部へ入る。
「痛っ!」
ナギは響路士席へ戻る。
「点呼」
「今?」とカナタ。
「事故のあと」
「全員いる!」
「本人に聞く」
ナギは青い帳面を開いた。
「船長」
「カナタ! 今、ここ!」
「航路機巧師」
「ルゥ。第一歩号の船腹。船長の弁償を計算しながら、今ここ」
「計算するな!」
「監視役」
「ザンバ」
「今は?」
「見れば分かる」
「本人応答、あり」
「雑だ!」
「響路士」
「ナギ。今、ここ」
最後に、船腹を五回叩く。
こん。
こん。
こん。
こん。
こん。
朝火炉が、ごうん、と低く返した。
「第一歩号。今、ここ」
「四人と一隻!」
カナタが指を立てる。
「七つにならないぞ」
「今の点呼は、五つ」
「足りない?」
「足りてる」
「七番目は?」
「数を合わせるために、人を入れない」
「ヨイ!」
「乗らない!」
「聞く前に答えた!」
「顔で分かる!」
「顔で分かるのか!」
「主に船」とアサギ。
ザンバが椅子へ座ったまま言う。
「響路台の鈴穴が増えたからといって、船員まで増やす必要はない」
「椅子は増やせる!」
「増やす理由を訊け」
「今訊いた!」
「乗るかしか訊いていない」
「難しい!」
ナギは帳面の七つ目の欄を空けたまま閉じる。
欠員ではない。
知らない返事のための空白でも、まだない。
何のための音か分かるまで、名前を置かない場所。
ヨイはその空白を一度だけ見た。
それから、到着札を拾い始めた。