第147話 第二章「終わらない朝の港」前編

双灯港アケヨイには、夜がなかった。

空そのものは暗くなる。

遠い星も見える。

けれど金色の発ち灯が町を照らし続けるため、道も家も人の顔も、いつも朝の色をしていた。

町の鐘は、始まりの音しか鳴らない。

ごおん――。

仕事を始める鐘。

ごおん――。

出航を始める鐘。

ごおん――。

次の作業へ移る鐘。

夕方になっても、終業の鐘はない。

職人たちは道端で立ったまま眠り、目を覚ますと同じ工具を持つ。

食堂では、最後の一口を食べると新しい皿が流れてくる。

宿の客は代金を払い終えると、次の一泊札を渡される。

手紙は受取人の玄関へ届いても、封を切る直前に配達袋へ戻る。

荷物は荷ほどき場へ着いても、箱の蓋が開く前に船へ戻る。

「最高の町だ!」

カナタは七皿目の焼き豆を前に目を輝かせる。

焼き豆は熱くない。それでもカナタは一粒へ息を吹いた。冷たい料理にも同じことをする。幼いころ、熱い薬粥を急いで口へ入れた名残だった。

席は四つ空いていたのに、どこへ座るか決められず、最初の二口を立ったまま食べる。危険な崖では迷わない少年が、穏やかな食卓では「自分の席」を選べない。ルゥは何も言わず、工具箱を一脚からどけた。

「食べ終わらない!」

「払うのも終わらない」

ヨイが勘定板を置く。

「高い!」

「七皿」

「最後の一口が次を呼んだ!」

「途中で止めればよかった」

「食事を途中で!?」

「嫌なら払って」

「終わらない町で勘定だけ終わるのか!」

「そこは終わる」

「都合がいい!」

食堂の主人が、流れてきた八皿目をカナタの前へ置く。

「おかわり」

「頼んでない!」

「七皿目が空いた」

「空いたら次が来るのか!」

「店だから」

「終わらせろ!」とルゥ。

「食べ物を!?」

「注文を!」

ヨイは皿の横へ暮色の小札を置いた。

六つの灯が光る。

八皿目へ続いていた細い光路が、一呼吸だけ消えた。

「今の皿で、ここまで」

食堂の主人が眉を寄せる。

「消路札だけでは、正式な終標にならない」

「だから一呼吸」

「その間に払って」とルゥ。

「早い!」

「食べるより!」

カナタは枝銭を置く。

勘定札が一枚だけ光った。

――支払未了。

「終わってない!」

「銭が一枚足りない」とヨイ。

「皿が増えたせいだ!」

「食べたせい」

甲板から持ってきた焼き雲豆を一個、勘定皿へ置く。

「これで!」

「貨幣じゃない」

「豆だ!」

「知ってる」

「価値がある!」

「船長には」とザンバ。

「お前も食っただろ!」

「一皿で終えた」

「裏切り!」

食堂を出ると、道の両側に始まりかけのものが積まれていた。

縫い始めた帆。

削り始めた船板。

読み始めた本。

開き始めた戸。

どれも途中で次の作業へ送り出され、戻ってきてはまた最初から始まる。

「終わらないのに、進んでるように見える」

ナギが言った。

「始める音だけ多いから」とヨイ。

通りの先から、低い車輪音。

一人の老人が、大きな荷車を押している。

白い髭。

曲がった背。

荷車には一つの箱。

箱の札は黄ばんでいる。

――第七帰航隊宛。

「それ、どこへ?」

カナタが訊く。

「荷ほどき場」

「今、そこから来たぞ」

「着かなかった」

「何回目?」

「三千六百四十二」

「数えてる!」

「数える仕事だった」

老人は名をハコベといった。

十年前まで、到着荷の受け取りを担当していた。

着き灯が暗くなった日から、同じ箱を運び続けている。

七十四歳。坂へ入る前には、ゆるい足首を三重の布で巻く。荷車を止めて考えるときは、その場で半歩ずつ前後するため、本人だけは一度も完全には立ち止まっていない。

誰かに「運べ」と命じられると眉を寄せるが、「運んでくれ」と頼まれれば、遠回りでも引き受ける。命令を守りすぎて箱を終えられなかったからこそ、次の仕事では頼む側と受ける側を分けたかった。冷えた水にも一度息を吹いてから飲む。

「中身は?」

「開けていない」

「開ければ終わる!」

「持ち主が着いていない」

「箱だけ着いた」

「荷は、人のあとだ」

「人が来なかったら?」

ハコベの手が、荷車の柄で止まる。

「次の周で来る」

言葉は硬い。

信じているというより、十年同じ答えを言い続けた形だった。

ナギが箱へ耳を当てる。

「中から音」

「誰かいる!?」

カナタが蓋へ手をかける。

「触るな!」

ヨイとハコベとルゥが同時に止めた。

「何で!」

「壊す」と三人。

「まだ何も!」

「顔」とヨイ。

ナギは箱の側面を五回叩く。

こん。

こん。

こん。

こん。

こん。

中から、三回。

から。

から。

から。

「生き物じゃない」

「じゃあ何だ」

「小瓶が三本」

「音で分かる?」

「一本は半分。二本は空」

ハコベの目が動く。

「帰航隊が持ち帰った《夕滴》だ」

「夕方の水?」

「双灯樹の外でだけ採れる。着き灯へ混ぜれば、港に夜を作れると言われた」

「箱を開ければ夜が来る!」

「持ち主の帰航報告と一緒に渡す荷だ」

「持ち主がいないなら、町へ渡せ!」

カナタの声に、ハコベは首を振る。

「勝手に終わらせられん」

ザンバが荷車を見る。

「正しい」

「お前まで!」

「ただし」

灰旗の石突が、黄ばんだ札へ触れる。

「勝手に続けることもできん」

ハコベは老人を見る。

「では、どうする」

「持ち主へ聞く」

「十年、返事がない」

ナギが青い帳面を開く。

「返事がないことも、今の記録」

ハコベは箱を見る。

ヨイは何も言わない。

通りの向こうで、始まりの鐘がまた鳴った。

ごおん――。

老人は荷車を押し始める。

三千六百四十三周目。

カナタはその背中を追いかけかけた。

ヨイが白旗の端を掴む。

「今は、町を見る」

「箱を開ける!」

「勝手に終わらせないって、今聞いたでしょ」

「でも終わってない!」

「だから、終わらせ方を探す」

「遅い!」

「十年より?」

カナタの口が止まる。

ヨイは荷車の遠ざかる音を聞く。

「今日のうちには、答えを出したい」

朝の色しかない町で、ヨイの旗だけが夕焼け色に揺れていた。

ヨイは一行を、朝梢の外れへ連れていった。

そこには、終わり損ねたものだけを集める《留まり棚》があった。

棚という名だが、建物三つ分ある。

一段目には、開けられなかった手紙。

二段目には、荷ほどきを終えられなかった箱。

三段目には、最後の一針だけ残った服。

さらに上には、降ろされなかった帆、切られなかった髪、言い終えられなかった挨拶まで、薄い光札になって積まれている。

「物じゃないものまで置けるのか」

カナタは棚の上を見上げた。

「道になったものなら」

ヨイが答える。

「言葉にも、始まりと着く場所があるから」

「じゃあ、俺の言いかけた言葉も?」

「多すぎて別棟」

「あるのか!?」

「今作る」とルゥ。

最初の棚の前で、若い仕立屋が針を持ったまま立っていた。

黒い外套。

裾の一か所だけ、白い糸が出ている。

「最後の一針が戻るんです」

仕立屋は名をミサキといった。

二十八歳。幼いころ左利きを右へ直され、普段の針は右で持つ。けれど怒りや恐怖が強いと、糸を押さえる左手が先に動く。今も「父へ渡せない」と言った瞬間だけ、針は左へ移っていた。

眠りが浅く、店の戸が鳴るたび帰航だと思って起きる。嘘をつくと髪の先を一本ねじり、「失敗ではなく保留」と言い換える。外套を完成させたい気持ちは、父を諦めたい気持ちとは別だった。

十年前、父の旅立ちに合わせて外套を縫った。

父は第七帰航隊の一人。

外套は帰還の日に渡すつもりだった。

だから、最後の一針を刺すたび、糸が針から抜ける。

「完成させたら、帰ってこないことになる気がして」

「でも縫ってる」

カナタが言う。

「帰ってくるかもしれないから」

「どっちだ?」

「分からない」

ミサキは笑おうとした。

笑いも最後まで形にならない。

「終わらせたい?」

ヨイが訊く。

「父に渡す道は、終わらせたくない」

「外套を縫う道は?」

「……終えたい」

「別にする」

ヨイは暮色札を二枚置いた。

一枚は、外套。

一枚は、父へ渡す約束。

ルゥが銀鋲で二本の糸を分ける。

「今までは、一つの道として縫われてた」

「外套を完成させたら、約束まで終わるみたいに?」

「そう」

銀糸を切らず、二股へ分ける。

「完成させる道は、ここまで。渡す相手を探す道は、続ける」

ミサキが最後の一針を刺した。

白い糸は抜けない。

外套が完成する。

父は戻らない。

戻ったことにもならない。

ただ、十年間縫い続けた仕事だけが終わった。

ミサキは外套を抱いた。

「重い」

「布なのに?」とカナタ。

「終わったから、全部持てる」

仕立屋は泣きながら笑った。

今度の笑いは、一度で終わった。

次の棚には、一枚の青い手紙があった。

封蝋は割れている。

紙は開いている。

それでも、文字が一行目へ戻り続ける。

手紙の前に、少年が座っていた。

名はヒビ。

十一歳。左手の甲には、幼いころ発ち灯へ触れてできた薄い火傷がある。冷えると指がこわばり、姉の出航話になると呼吸が浅くなって、言葉より先に両足が戸口へ向く。