第148話 第二章「終わらない朝の港」後編
それでも子どもだった。手紙を書き直す前に「帰ってきたら、蜜豆は僕の分を残して」と一行足しかけ、恥ずかしくなって消した。行かないでだけではない。自分の好きなものを、明日も一緒に食べたいという欲もあった。
コハクより二つ上。
「母さんから?」
ナギが訊く。
「違う。僕が書いた」
宛先は、空欄。
本文には、同じ一文が何百回も重なっている。
――行かないで。
「誰に?」
「姉ちゃん」
「出航した?」
「港にいる」
ヒビは朝梢を指した。
「発路師になった。毎日、船を外へ出す。僕がこの手紙を渡したら、本当に出ていく気がして」
「渡してないなら、行かない?」
「もう仕事してる」
「じゃあ出てる」
「船には乗ってない!」
「行かないでって、何から?」
ヒビは答えられない。
姉が家を出ること。
仕事を持つこと。
自分より先に大人になること。
全部が、同じ《行く》へ縫われている。
「手紙を終わらせる必要はない」
ナギが言った。
「今の姉さんへ、今の言葉を聞けばいい」
「今の?」
「十一歳のヒビは、何を言いたい?」
少年は長く考える。
「……帰ってきて」
「毎日?」
「うん」
「それなら、行かないでとは違う」
ナギは響路鈴を一度鳴らした。
朝梢から、若い女の返事。
『今日は七つ鐘まで。終わったら家へ帰る』
「七つ鐘?」
ヒビが驚く。
『ヨイが勝手に作った。正式じゃないけど、今日はそこまでって』
「本当に帰る?」
『今の返事。帰る』
手紙の一行目が止まった。
消えない。
十歳のヒビが書いた《行かないで》。
十一歳のヒビは、その下へ新しい一文を足す。
――いってらっしゃい。今日は帰ってきて。
「三番目の旗みたいだな」
カナタが言った。
「別々に行って、また会う」
「姉ちゃんは毎日同じ港」とヒビ。
「距離じゃなくても、別の道はある」
ナギは少年の手紙を棚から下ろした。
終えない。
今の言葉を足して、家へ持ち帰る。
留まり棚の最上段には、一つの小さな食卓が置かれていた。
皿は二枚。
椅子も二つ。
片方だけ、誰も座っていない。
老女が、湯気の消えない茶を注ぎ続けている。
「冷めないのか!」
カナタが椅子へ手を伸ばす。
「座るな」
ザンバが止めた。
「誰かの場所だ」
老女は名をトキハといった。
七十二歳。急須は右でも左でも扱えるが、取っ手だけは必ず受け取る人の側へ向ける。左耳の下に小さな黒子があり、揺れる船ではそこを押さえて酔いを隠した。
棚の奥には、自分で削った七本の茶匙がある。夫を待つ品ではなく、木目の違いを楽しむ本人だけの趣味だった。誰にも見せず、「湯が落ち着くまで」と言って自分の休みまで後回しにする。待つ理由が消える話になると、訊かれていない茶葉の産地まで説明し始めた。
空の椅子は、帰航隊に乗った夫の席。
茶を注ぎ終える直前、湯が急須へ戻る。
「一緒に朝茶を飲むと約束したんです」
「十年、朝だけだから?」とルゥ。
「ええ。夜が来なければ、約束の日も終わらない」
「夜が来たら?」
トキハの手が止まる。
「待つ理由がなくなる」
「待つ理由は、夜じゃない」
ザンバが言った。
「相手だ」
「帰らない相手を?」
「分からん」
「では、どうすれば」
「俺に訊くな」
いつもの突き放す言い方。
だが、ザンバは空の椅子を見ていた。
アステルのために残された場所。
自分が十年、振り返らなかった道。
「待つのを終える必要はない」
少しして言う。
「同じ茶を、毎朝入れ直す道だけは終えられる」
「違いが分かりません」
「俺も、まだだ」
トキハは初めてザンバを見る。
「あなたも待っているの?」
「待たせている」
灰旗の黒い点が揺れた。
「たぶんな」
ナギは空の椅子の前へ、小さな現在札を置いた。
――トキハ。今、ここ。
夫の札は別。
――現在地、未確認。
同じ食卓へ置く。
重ねない。
トキハは急須を傾けた。
一杯目。
自分の茶。
二杯目。
空の席。
今度は、注ぎ切る。
湯は戻らなかった。
「冷めるわ」
「また温めればいい」とカナタ。
「明日?」
「飲みたくなった日!」
トキハは小さく笑った。
「ずいぶん勝手な暦ね」
「自分で決める暦だ!」
留まり棚を出るころ、ナギはヨイと少し離れて歩いていた。
「お母さんの音」
ヨイが言う。
「変わったんだよね」
「うん」
「七年、毎日?」
「毎日じゃない。聞こえない日もあった」
「怖くなかった?」
「怖かった」
「返事がない日、死んだって思った?」
「思わないようにした」
「今は?」
ナギは鈴を掌へ載せる。
「返事がないって書く」
「それだけ?」
「それ以上を、勝手に書かない」
ヨイは暗い着き灯を見る。
「生きてるとも?」
「書かない」
「死んでるとも?」
「書かない」
「冷たい」
「うん」
ナギは否定しなかった。
「でも、返事が来たとき、聞き間違えたくない」
ヨイは七つ目の暗い灯へ指を置く。
「私は、母さんが生きてるって言ってほしい」
「言えない」
「分かってる」
「でも、最後の声は一緒に聞く」
ヨイが顔を上げる。
「変わらなくても?」
「変わらないことを、一人で聞かせない」
ヨイは赤い風眼鏡を一度だけ押した。二度押せば平静、三度なら恐怖。今は、どちらにも決めたくない一度だった。
袖の下の縫い傷が引きつる。座るほどではない、と言いかけてやめる。ナギの隣へ自分から腰を下ろし、七音が鳴るあいだだけ、片方の鈴へ指を添えた。聞く仕事を分けてもらうことも、到着の一歩だとまだ知らずに。
二人の鈴と旗が、朝の風で同時に揺れた。
少し前では、カナタがまたハコベの荷車を追っている。
「今度こそ箱を開ける!」
「勝手に終わらせない!」
ルゥが工具箱を投げた。
カナタが避ける。
箱へ当たりそうになり、ザンバが片手で止める。
「お前たちは、始める前に終われ」
「どっちだ!」
朝しかない通りに、初めて今日の笑い声が響いた。
笑いは一度で消えた。
だから、次の笑いが入る場所が残った。
双灯港は、二本の梢に分かれていた。
金色の発ち灯がある側は《朝梢》。
暗い着き灯がある側は《暮梢》。
本来なら、朝梢で旅が始まり、暮梢で旅が終わる。
二つの間を、荷物と人と標力が行き来する。
今は違う。
発つものも。
着くものも。
すべて朝梢へ流れていた。
朝梢の工房は大きい。
帆屋。
炉屋。
星図屋。
出航前の食堂。
世界樹の枝から外へ向かう道が、何百本も伸びている。
一方、暮梢には閉じた店が並ぶ。
到着宿。
荷ほどき場。
帰航祝の広場。
家族が待つ見送り台。
十年、使われていない。
「終わる側だけ、町が古い」
ルゥが暮梢の手すりへ銀鋲を当てる。
「《継ぎ路》」
細い銀糸が、今の板と十年前の釘穴へ分かれる。
「直してないんじゃない。壊れたら朝梢の形へ戻してる」
「同じ町だからだ」とアサギ。
「同じ形じゃない」
「朝梢は使ってる。暮梢は使わない」
「使わないから、使えない形へ戻していい?」
「船を出せなくなったら、港ごと死ぬ」
アサギは発路旗を肩へ担いだ。
金色の灯から七本の道。
どの線も外へ。
「着く者がいなくても、発つ者はいる」
「帰ってこないの?」とカナタ。
「帰る予定で出る」
「じゃあ着く者だ!」
「今は発つ者」
「両方だろ!」
「同じ時には、片方」
「難しい!」
アサギはため息をつく。
「あなた、世界の果てへ着いたんだろ」
「おう!」
「その旅、終わった?」
「まだ先がある!」
「なら、着いてない」
「着いたけど、続く!」
「言葉を都合よく使うな」
「お前も、帰る予定の出航って言った!」
「予定は二つ」
「俺も二つ!」
「世界の果てへ行く旅と、その先の旅を分けた?」
カナタの声が止まる。
アサギは少しだけ勝った顔をする。
ルゥがその横で言う。
「今のは正しい」
「裏切り!」
「何回目?」
「数えてない!」
「終わらないわね」とヨイ。
暮梢の奥に、低い建物があった。
看板には《終路局》と書かれている。
入口の半分は板で塞がれ、残り半分は開きかけのまま止まっている。
中には、一人の女。
六十五歳。
黒い髪へ銀糸が混じり、片目に暮色の単眼鏡。
机の上で、到着札を一枚ずつ分類している。
左膝には白い縫い痕。深く息を吸うと、十年前に焼けた背中の傷が引く。それでもトバリは七枚の札を数えるまでは姿勢を崩さず、八枚目へ触れると、なぜか一枚目から数え直した。
六十五歳になった今も、終路弁の古鍵を腰へ下げている。爪の脇をむく癖があり、謝る前には必ず床を一か所掃く。職人だったころの一人称が、恐怖時だけ「俺」へ戻った。
「トバリ」
ヨイが呼ぶ。
「外来船」
女は顔を上げずに答える。
「見れば分かる」
「何で?」
カナタが訊く。
「町の札を三千枚まとっている」
「歓迎!」
「未了」
「似てる!」
「逆だ」
トバリは一枚の札を指で弾く。
札は空中で一度回り、カナタの額へ貼りついた。
――会話未了。
「俺に合ってる!」
「喜ばないで」とルゥ。
トバリは元《終路守》だった。
着き灯が暗くなるまで、帰ってきた船の最後の一歩を確認し、道の光を灯へ返す役をしていた。
十年前、第七帰航隊が着き灯へ入った日。