第166話 第十一章「夜明け前の灯」後編
いつもなら同じ問いを三度繰り返すところを、今日は一度だけで手を離した。自分が最後まで抱えず、受け取った相手の返事まで聞いて初めて、成功した引き継ぎとして札へ丸をつける。
その足元を、ほどけたハテナシの小型個体が一匹歩いた。人の顔には反応せず、《明日、様子を見る》とだけ書かれた札の前で、七つの口のうち空いた一つを開く。期限も持ち主もない流れの匂いを拾ったらしい。
「明日って、いつ?」
コハクが腰をさすりながらしゃがむ。長く立つと古い痛みが出るのに、「食べれば治る」と言って夕豆粥の屋台ばかり見ていた。
「二つ鐘。見る人、ミク」
ユウが札へ書き足す。灯替え舟の揺れで顔は青いが、「次の鐘までは持つ」と強がり、最後に自分の名を確認者へ並べた。
時刻と人名が入ると、小さな個体はひげを畳み、札の下で尾を丸めた。怪物が納得したのではない。餌になる曖昧さが消えただけだった。
「終わった?」とコハク。
「この札は」とユウ。
「じゃあ飯!」
子どもたちは主題の続きを議論せず、どちらの粥へ焦げ豆を多く入れるかで喧嘩しながら走った。町に夕方が来た証拠は、立派な終標より、明日の仕事と今夜の好みを別々に言えることだった。
レオンは記録庫の扉を閉める。
鍵をかける。
すぐに開け直す。
「忘れ物?」
カナタが訊く。
「明日の調査札を、中へ置いた」
「閉じたのに!」
「今日は閉じる。明日は開く」
「分かってきたな!」
「お前に言われると腹が立つ」
レオンはもう一度扉を閉めた。
今度は、そのまま手を離した。
記録庫は消えない。
夜の間、静かにそこにある。
ヨイは新しい着き灯の下へ座った。
座った途端、袖の傷が脈打った。「座るほどではない」と言う代わりに、夜番札へ《手当て後に帰宅》と自分で書く。
レオンは温い茶を二杯持ってきた。トキハから借りた茶匙で淹れたらしく、取っ手はヨイの側へ向いている。二人とも最後の一口をすぐには飲めなかったが、皿が空になっても次の茶は勝手に来なかった。
「家へ帰らないの?」
ナギが訊く。
「ここが家みたいだった」
「今夜は?」
ヨイはレオンを見る。
老人も、少し離れて立っている。
「一緒に帰る?」
ヨイが訊いた。
レオンは頷く。
「どこへ」
「今の家へ」
二人は暮梢の道へ歩き出す。
着き灯が引き戻さない。
発ち灯が先へ押さない。
自分の歩幅で。
夜の家へ帰った。
暮梢の家は、十年間、夜を迎える準備だけして朝へ戻ってきた家だった。玄関には片方ずつ減り方の違う靴。レオンの寝室には、脱いだ靴と履いたままの靴を置く二つの場所。眠っている間に帰航鈴が鳴っても立てるよう、片足だけ履く癖が残っている。
食卓へ着くと、老人はヨイの向かいではなく一歩離れた斜めの席へ座った。近い顔ほどぼやける遠視のせいだが、ヨイには距離を取られたように見える。レオンは説明しかけ、胃の奥が縮んで言葉をやめた。夕食のパンをちぎっても、一片も飲み込めない。
「今は数えなくていい」
そう言った直後、七船記録庫の鍵を確かめ、戸口の札を確かめ、窓の留め具を確かめた。三つ目で順番を忘れ、最初から戻る。
「数えてる」
ヨイは責めずに言った。赤い風眼鏡を二度押し、家の出口を数える。一つ。窓は二つ。今いる人は二人。
レオンはセナの部屋の窓を開けた。初めて来た本当の暗さには、帰る船も、娘の影も浮かばない。黒い空があるだけだった。
「何も見えない」
「今は、それが今の返事」
ヨイは母の机へ新しい返事札を置かなかった。代わりに、自分の濡れた外套を隣の椅子へ掛ける。記録の持ち主へ部屋を返しながら、生きている者の荷物も同じ家へ置く。
レオンは片方の靴を脱いだ。もう片方は履いたままにした。十年の癖は一夜では終わらない。それでも紐だけは緩め、床へ両足をつけた。
「ヨイ」
「何」
「明日の朝、記録庫を開けるとき、一緒に来てくれ」
命令でも港主の指示でもない、父からの頼み事だった。ヨイは最後のパンを一口ぶん残し、皿を伏せずに答えた。
「朝になったら」
二人は暗い窓を閉じなかった。見えないものを、見えた形へ戻さないために。
翌朝になる前に、ハコベは箱を開けた。
十年間、到着未了だった荷物。
中には三本の細い瓶。
夕滴。
空が一日を終えるときにだけ採れる、暮色の水。
「受取人は?」
ナギが札を読む。
「双灯港、着路園」
「園は?」
ヨイが指さす。
古い着き灯の下。
十年前に閉じた、小さな庭。
ハコベは三本の瓶を土へ注いだ。
橙色の草が芽を出す。
夜になると葉を閉じ。
朝になると、また開く草。
「配達、完了」
ハコベが言った。
到着札へ《了》が浮かぶ。
箱は消えない。
傷だらけのまま、空になる。
「次は何を運ぶ?」
カナタが訊く。
「明日決める」
「今日じゃないのか!」
「今日は終わった」
「便利な言葉だな!」
「今までなかったからな」
言ったあと、ハコベは空の箱を荷車へ載せたまま、半歩だけ前後した。行き先のない荷車を押したことがない。三重に巻いた左足首の布は緩み、傾いた車輪へ体が引かれる。
カナタが次の仕事を勝手に決めかけると、老人は手で止めた。冷めた茶へいつものように息を吹き、それから初めて命令ではない形で口を開く。
「明日、車輪を直すのを手伝ってくれないかね」
「任せろ! 全部――」
「右の一輪だけ」
「範囲が狭い!」
「頼み事だからな」
ハコベは少し笑った。運ぶ相手がいなくなったあとも、誰かへ自分の用を頼める。空いた箱は、その日のうちに片づけず、明日の修理道具を入れる箱として荷車へ残した。
その日、第一歩号は出航しなかった。
翌日も。
その次の日も。
「修理は四日!」
ルゥは最初にそう言った。
けれど、港が新しい着き方を覚えるには、一か月かかった。
最初の七日で、三千二百枚の到着札を、終えるもの、続けるもの、保管するものへ分けた。
黒い記録札は七隻ごとの棚へ。
青い応答札は、その日の港へ。
どちらにも置けない札は、白抜きのまま調査机へ。
七船記録庫は、第七帰航隊を一つの大きな伝説として飾る建物にはしなかった。
ナナツボシ号。
ユウナギ号。
ホタル舟。
ツキミチ号。
カサネ帆号。
アカツキ号。
コダマ号。
七つの部屋と、一人ずつの札棚を作った。
二週目。
七船記録庫の入口には、ほどけたハテナシの小型個体が三匹だけ残った。終えた札の前ではひげを畳み、《続行・期限未定》の棚でだけ尾を小さく振る。
ヨイとトバリは、警報具として観察箱へ入れた。便利な生き物として未了路を与えず、毎夕、何へ反応したかを記録する。三匹が一斉に大きくなれば、港の運用がまた区間を曖昧にした印だった。
エナは十本傷の歯車を機関工房へ渡した。
高い槌音は聞こえにくいため、床の振動で受け渡しを確認した。左手を離す前に一度身を震わせ、靴底を三度こする。
工房の若者が歯車へ新しい用途を提案すると、エナは「リトなら嫌がる」と笑い、それから「でも今の持ち主が決めて」と言い直した。十一本目の傷の代わりに、作業日を一枚だけ記録へ足した。
帰航記録は黒札の棚へ保管し、十一本目の傷は刻まなかった。
ユキトは父コウリの退避符号を記録庫へ置いた。
震える左手で札を置き、英雄図の横へ「高所恐怖」「歌、音程外れ」「頬傷、由来二説」と書き足した。父を小さくするためではない。知らない自分まで一つの勇敢さへ似せられないためだった。
記録庫の外では、ユキト自身の仕事札を別の棚へ置いた。父の続きではない今日の名が、初めて同じ大きさで並んだ。
再現室は作らせず、記録が途切れた先には白抜き札を一枚残した。
メイは十年空けていた土地へ、子ども食堂の柱を立てた。
姉アンの星形パン型は使う。
店名は、姉の名ではなく《夕餉》にした。
「帰ってきたら、姉さんのパンは別に焼いてもらう」
三週目。
ミサキは完成した外套を記録庫へ預けず、自分の仕立屋へ持ち帰った。
店へ戻ると、次の客の布は左手で押さえ、右手で裁った。父の話をするときだけ逆になる癖は残っている。髪をねじりかけ、「失敗ではなく保留」と言うのをやめた。
完成した外套は売らない。けれど生きている客の外套を、その隣で何着も完成させる。贈り物を死者だけへ向けない店になった。
父へ渡す道は保管。
外套を縫う仕事は終了。
次の客の布を裁った。
トキハは毎朝同じ茶を入れ直す道を終えた。
棚から七本の手彫り茶匙を出し、初めて客へ見せた。カナタが木目より先に「形が全部違う」と褒めると、待つ話より長く笑った。
急須の取っ手は、空席だけでなく今いる客へも向く。夫のための二杯目を淹れない日には、自分の趣味の茶葉を一杯だけ濃くした。待つ人ではない時間が、食卓へ増えた。