第167話 第十二章「次の最初の一歩」前編

夫の席は消さず、現在地の欄へ白抜き札を置いた。

飲みたい日には二杯を淹れ、冷めたら自分で温めた。

四週目。

ヨイとトバリは、一隻ずつ到着を受け取る訓練をした。

アサギは、出航路を開く前に帰着予定と次の確認時刻を書くようになった。

レオンは七船記録庫の鍵を預かり、同じ七音を聞くたび、答えを足さずに時刻だけを記した。

第一歩号の四人も、修理だけでは済まなかった。

ルゥは新しい灯脈の保守図を残し。

ナギは黒、青、白抜きの三札を港の響路係へ教え。

ザンバは終路弁の誤作動を七通りに分け。

カナタは、最初の三日で倉庫を二つ壊し、その後二十八日かけて弁償した。

四日目からは、作業に入る前に持ち主へ「どこまで直す」と訊いた。最初の一歩を奪わない練習だった。右膝が痛む日は《助走》と言い張らず、荷運びを一刻だけ交代する。

穏やかな夕食では、相変わらず座る席を迷った。ある夜、ヨイが「そこ、空いてる」と一脚を指す。カナタは最後の一段を跳ばず、普通に歩いて座った。小声の「到着」は、それでも言った。

「数が合わない!」

「壊した日も働いたでしょ」とルゥ。

「差し引け!」

「増えてる!」

滞在三十一日目。

七船記録庫の開設に合わせ、港の中央へ七つの鐘が並べられた。

一つ目は、出発。

二つ目は、帰着。

三つ目は、再会。

四つ目は、継承。

五つ目は、現在。

六つ目は、迎え入れ。

七つ目は、終わり。

最後の鐘だけ、音が短い。

長く響かない。

鳴った場所へ、静けさを残す。

トバリがヨイへ、暮色の旗を渡した。

七つの灯。

最後の灯は、横線の標へ変わっている。

「七番目の旗」

カナタが言う。

「一番でも、二番でもない」

ヨイは旗を受け取る。

「この港の七番目」

「俺たちの船にも、写しをくれ!」

「何に使うの」

「旅を終える!」

「毎回?」

「着くたび!」

「着く前に壊すでしょ」とルゥ。

「だから必要!」

ヨイは小さな暮色布を一枚、第一歩号へ渡した。

「これは、勝手に道を終わらせない」

「分かってる!」

「持ち主が、区間を言う」

「おう!」

「今いる人の返事を聞く」

「おう!」

「記録と現在を分ける」

「おう!」

「終わったものを、捨てない」

「おう!」

「本当に?」

「半分!」

「減った!」

ルゥが小旗を受け取った。

「私が管理する」

「船長!」

「船長だから渡さない」

「信用!」

「実績!」

ザンバが港の端で、レオンと並んでいた。

「灯主を続けるのか」

ザンバが訊く。

「二つに分ける」

レオンは新しい着き灯を見る。

「アサギが発路守。ヨイとトバリが終路守。俺は記録庫を預かる」

「待つのをやめるか」

「毎日を止めて待つのはな」

「六十九人を忘れない?」

「忘れるために閉じたのではない」

レオンは七船記録庫の鍵を握る。

「今度は、同じ七音へ返事を作らずに読む」

ザンバは頷いた。

「俺も、アステルの言葉を読み直す必要がある」

「帰るのか」

「さあな」

「監視役!」

カナタの声が飛ぶ。

「出航準備!」

「今日は終わったのではないか」

「俺たちの停泊が終わった!」

「港の夜に船を出す気!?」

ルゥの怒鳴り声。

「夜のほうが星が見える!」

「双灯樹の周り、灯替え潮!」

「朝まで待つ!」

「今決めたの!?」

「今日の出航準備は、ここまで!」

七番目の鐘が鳴った。

からん。

カナタの口が、続きを言う前に閉じた。

「鐘、強いな」

「本人が区間を言ったから」

ヨイが笑った。

七船記録庫が開いた翌朝。

第一歩号の滞在三十二日目。

双灯港では、「翌朝」という言葉も少しずつ普通になっていた。

昨日の朝とは違う。

夕方と夜を越えた朝だった。

新しい発ち灯が金色に光る。

新しい着き灯は、暮色を内側へ残したまま薄く明るくなる。

二つは同じ色にならない。

それでも、一日の両端として同じ港を照らしていた。

連標網の鈴が鳴る。

カゲノハ村からの現在通信。

ナギが甲板の乗員席を一つずつ確かめた。

カナタ。

ルゥ。

ザンバ。

響路士席のナギ。

響路台の横へ仮の腰掛けを置き、ヨイが座る。

「船員の椅子だぞ」

カナタが言う。

「今だけ借りる」

「乗る?」

「乗らない」

「早い!」

「終路守の見習いを始める」

「世界の果て、見たくないか?」

「ここから見える」

「もっと先!」

「いつか、私の行き先で」

「おう!」

カナタは笑った。

以前なら、少し寂しい顔をしたかもしれない。

今も寂しい。

でも、同じ船へ乗らないことと、いなくなることは違う。

ナギが鈴を鳴らす。

「カゲノハ村、現在通信。アカリ」

『聞こえる?』

「聞こえる!」

カナタが大声で返す。

『先月、古い薬師橋の通行を終えました』

映像が淡く浮かぶ。

入口だけになった橋。

配達所へ保存された古い板。

新しい薬師渡り。

朝の配達見習いたちが、薬箱を持って渡っている。

『保存した橋板に、正式な終わりの札をつけたい』

アカリが言う。

映像のアカリは左手で札を持ち、人名の角だけを丸く切っていた。薬箱のへこみへ親指を置き、立ちくらみが一度あったことも現在報告へ入れる。

『案内役も、今いる人だから』

誤線を赤糸で囲った地図を見せる。成功した橋だけでなく、古い住所へ引かれた失敗も、帰る日の案内へ使うつもりだった。

『双灯港で使った標を、少し送れる?』

ヨイは暮色旗から、糸ほど細い光を分けた。

「これは、私の《終標》そのものじゃない」

『うん』

「その橋を歩いた人が、終わりを決めるための目印だけ」

『十分』

連標網を通り、暮色の糸がカゲノハ村へ届く。

古い橋板の端へ、小さな横線が浮かんだ。

アカリはその下へ書く。

――薬師橋。

――第七百二枝、薬師区から苔畑区まで。

――本日、通行終了。

――記録、配達所に保存。

――新しい道、薬師渡り。

最後に、自分の名。

アカリ。

「何て書いた?」

カナタが訊く。

ナギが読む。

カナタは何度も頷いた。

「俺が飛んだことも?」

『事故記録にある』

「道を作った!」

『橋を使わなかった記録』

「格好よく書け!」

『鍋蓋二枚で飛行。着地失敗。薬瓶は無事』

「最後が大事!」

ルゥが笑う。

アカリも笑っている。

『古い橋は終わった。でも、あの日はなくなってない』

「おう」

『今の村も、なくなってない』

「おう」

返事が少し遅れた。

『カナタ。帰る日が来ても、新しい橋の場所は先に聞いて』

「鍋蓋じゃだめか?」

『禁止札を残してある』

「厳しい!」

通信の奥で、六つ鐘とは違う朝の鐘が鳴る。

新しい薬師渡りの開通鐘。

その向こう。

淡い《帰還路》から、アステルの声が重なる。

『たまには帰れ』

ナギは左の黒い記録鈴を鳴らした。

「黒札、アステル」

次に、右の青い応答鈴。

「青札、アカリ」

『新しい薬師渡り。今日の受取人、マツバ婆。宛標、応答あり』

カナタは二つの声を聞いた。

どちらも消さない。

同じ返事にもしない。

「父ちゃん」

白旗へ触れる。

「父ちゃんの帰還路は、まだ終わらせない」

それから、青い鈴へ向く。

「アカリ。《宛標》で、俺を村へ引けるか?」

『今は無理』

答えは早かった。

『名前と返事があれば、いる人の方角は示せる。でも道は作れない。過去の住所も直せない。カナタの記憶が出す昔の村図も越えられない』

「じゃあ、帰る旅は」

『まだ始め方が分からない』

アカリが先に言った。

カナタは少し黙り、頷く。

「俺もだ。始める前に、また地図を送ってくれ」

以前なら「俺が帰る道を作る」と先に決めていた。今は行き先を知っているアカリへ、現在図を頼む。

白旗の中央ではなく端をつまんでいる。昔の家を見たい気持ちを消さず、今の戸口へ入る手順を他人と作る。その不格好な頼み方が、帰る旅のまだ名のない一歩になった。

『送る。待ちながら、こっちも進む』

通信が終わる。

白旗に結ばれた紙旗が、朝の風で揺れた。

第一歩号の船首に、新しい鐘がついた。

小さな暮色鐘。

輪郭は丸い。

中の舌は、七本の細い糸で船内へつながっている。

「第七翼!」

カナタが宣言した。

「鐘」

ルゥが即座に訂正する。

「船の前についてる!」

「鐘」

「旅を終わらせる!」

《終路鐘》

「翼のほうが速そう!」

「速く終わってどうするの!」

ルゥは七本の糸を順に示した。

「一つ目。船長が、終える道の区間を言う」

「おう」

「二つ目。航路機巧師が、船体と航路の安全を確認」

「おう」

「三つ目。監視役が、他人の道を巻き込んでないか確認」

「面倒だな」とザンバ。

「必要!」

「四つ目。響路士が、青い応答を確認」

「はい」

「五つ目。第一歩号が、炉を止められる状態か返す」

船腹を叩く。

こん。

「六つ目。終える場所の持ち主が、最後の一歩を踏む」

「船の旅なら?」

「船員全員」

「七つ目は?」

「鳴ったあと、続きを言わない」

「難しい!」

「一番大事!」

カナタは鐘の綱へ手を伸ばす。