第168話 第十二章「次の最初の一歩」後編
あと指一本で触れるところで止めた。先にヨイを見る。
「どの区間?」
問いが出るまで、ルゥは安全蓋を閉めなかった。カナタが道具へ勝手な翼番号をつける癖は変わらない。それでも使う前に持ち主へ範囲を訊く一拍が増えた。
「試す!」
「区間を言って」
「双灯港への旅!」
「どこから?」
「世界の果てから!」
「着いた場所は?」
「双灯港!」
「船体、修理完了」とルゥ。
「他路の巻き込み、なし」とザンバ。
「現在、四人と一隻。港側、ヨイとアサギの返事あり」とナギ。
第一歩号が船腹を鳴らす。
こん。
ヨイが桟橋で一歩を踏む。
「第一歩号の停泊、ここまで」
「鳴らすぞ!」
カナタが綱を引いた。
からん――。
短い音。
朝火炉が止まる。
帆が畳まれる。
係留索が外れる。
第一歩号は、桟橋からゆっくり離れた。
「出航!」
カナタが叫ぶ。
鐘がもう一度鳴った。
からん。
カナタの口が閉じる。
船も止まる。
「何で!?」
「今、『出航』っていう一言を終えたから」とヨイ。
「細かい!」
「区間を言わないで鐘の近くで叫ぶから!」
ルゥが鐘へ安全蓋をつける。
右手だけで留め、腫れた左手は休ませる。蓋の設計には七つの鍵穴があるが、最終図にはミクとアサギが加えた変更線も残した。
自分の仕事が他人に変えられる未来を、失敗ではなく運用として受け取る。銀鋲を一本、記念ではなく予備部品として港へ置いていった。
「船長だけ、勝手に綱へ触れないようにする」
「船長!」
「実績!」
カナタは蓋を開けようとする。
鍵が七つある。
「多い!」
「終わりは慎重に!」
「始まりは?」
「もっと慎重にして!」
港の人々が笑った。
昨日までは、笑い声も終われず何度も繰り返していた。
今は一度笑い。
息を整え。
次の仕事へ戻る。
アサギが発ち塔の上で金旗を振る。
「第一歩号。出航路、開く!」
ヨイは暮色旗を桟橋へ立てた。
「双灯港への停泊路、終了確認」
レオンは七船記録庫の前に立ち、帽子を取る。
「帰ってきたときは、青い鈴を鳴らせ」
「おう!」
「事故報告だけでは、港へ入れん」
「俺たちは毎回、事故報告から入ってるぞ!」
「だからだ」
「厳しい!」
ヨイがカナタへ、小さな暮色布を投げた。
「七番目の旗」
カナタは受け取る。
「俺の旗じゃない」
「今までのも、全部そうでしょ」
帆柱に結ぶ。
七つの役目。
一番旗は、道を始める。
二番旗は、トマリギ島で帰る場所を守る。
三番旗は、別々の道の再会を示す。
四番旗は、途中と記録を次へ渡す。
五番旗は、今いる者を数える。
六番旗は、向こうから来る一歩を空ける。
七番旗は、歩いた者が《ここまで》を置く。
「次は、八番目だな!」
「数字を目的にしない!」
「でも、あるかもしれない!」
「あるとしても、探しに行くんじゃない!」
「出会いに行く!」
「少しだけ言い方を覚えた」
ザンバが灰旗を肩へ担いだ。
出航前の点呼は、五つだった。
ナギが船の中央へ立つ。
「船長」
「船首!」
「航路機巧師」
「操舵輪!」
「監視役」
「船尾」
「響路士」
「ここ」
最後に、船腹を五度叩く。
こん。
こん。
こん。
こん。
こん。
朝火炉が返す。
「第一歩号、現在」
五つ。
誰も欠けていない。
ヨイが桟橋から鈴を七度鳴らす。
今度の七音は、十年前と同じではない。
ナギは舌先で五拍を数え、左右の耳へ別々に音を入れる。七人の高さは揃っていない。途中で咳があり、笑いがあり、トバリの三音目だけ一拍遅い。
だから生きた返事だと一人で断定せず、ルゥの振動板とヨイの順番札も照合する。違いを聞く仕事は、違いを証明する手順まで含んでいた。
一音目は、ヨイ。
二音目は、アサギ。
三音目は、トバリ。
四音目は、ハコベ。
五音目は、コハク。
六音目は、レオン。
七音目は、双灯港。
今いる者たちが、順番に鳴らした青い応答。
「聞こえた!」
ナギが返す。
第一歩号の前に、金色の出航路が開く。
次の目的地は、《歩雲群ヤエ》。
八つの雲が、星根から星根へ歩く土地。
ナギがミナモから届いた地図を読む。
「東北東。三日」
「北へ行ってから東?」
「違う!」
「東へ行ってから北?」
「違う!」
「真ん中?」
「方角に気持ちの真ん中はない!」
ルゥが操舵輪を固定する。
「私が舵を取る。カナタは船首で前を見る」
「船長らしい!」
「触らない仕事!」
「船長!」
「安全!」
ザンバが椅子へ座る。
椅子は船縁へ背を向けず、暮色留めを生身の左手で確かめた。機巧の右腕には幻肢痛が残る。だが今日は、痛みを罰として黙って抱えず、「風向きのせいではない」と短く申告した。
ナギが青札へ記し、ルゥが留め具を一段緩める。翌日の仕事を渡され続ける日常へ、ザンバも一席ぶん入っていた。
椅子の脚には、双灯港でもらった小さな暮色留めがついている。
「今度は落ちない」
「椅子を終わらせないため?」
「お前が船を逆さにするからだ」
「次は雲の上だぞ!」
「雲の下もある」とナギ。
「両方行く!」
「一度に行かないで!」
連標網の鈴が、最後に一度鳴った。
左の記録鈴。
『たまには帰れ』
アステルの声。
十年前。
右の現在鈴。
『新しい薬師渡り、一人目の配達完了』
アカリの声。
今日。
カナタは両方へ返す。
「父ちゃん。世界の果てへ行く旅は、終わった」
記録は同じ声を返す。
『たまには帰れ』
「アカリ。帰る旅は、まだ始まってない」
『うん。私の宛標も、今いる人の方角まで』
「昔の村図は越えられない」
『まだね』
「始める前に、もう一度地図を送れ」
『送る。止まらずに変わるから』
「俺も次へ進む!」
白旗を掲げる。
中央には、まだ空白。
世界の果てへ行った道は、金色の記録として残っている。
その先に、新しい一歩を置ける場所がある。
「第一歩号、出航!」
今度は終路鐘を鳴らさない。
発ち灯が一度だけ大きく光る。
第一歩号は双灯港を離れた。
後ろで、着き灯が暮色の返事を送る。
出ていく船を引き戻さない。
帰ると決めたときのために、今の港を記憶する光だった。
双灯港に夜が来るようになって、三十八日目。
第一歩号が出航して、七日目。
人々は、まだ終わり方に慣れていなかった。
店を閉めたあと、忘れ物を思い出してもう一度開ける。
仕事へ《了》を置いたあと、区間を書き間違えて翌朝に直す。
眠る前に、明日の予定を十個も始めてヨイに止められる。
それでも、町には夕方が来た。
影が伸び。
夕滴の草が葉を閉じ。
新しい着き灯が、今日帰った者の名前を一人ずつ受け取る。
七船記録庫では、レオンが六十九枚の札を読む。
同じ七音を、新しい返事に仕立てない。
分からない箇所へ、分からないと記す。
記録庫の窓辺では、ハテナシの小型個体が三匹、続行棚の札へひげを伸ばしていた。《次の確認時刻》が書かれると、尾を丸めて眠る。
レオンはその反応も時刻だけ記す。生き物へ娘の返事を託さない。未了路を見つける道具として使いながら、巨大化させる餌場を再び作らないことを、港の新しい規則にした。
調べる道は続ける。
港の今日とは分けて。
ヨイは終路守見習いとして、最初の仕事を終えた。
終路鐘を鳴らしたあと、赤い風眼鏡を一度押す。二度目は要らなかった。袖の傷には新しい包帯があり、業務札へ《手当て済み》と自分で書いてある。
食堂では最後の一口を残しかけ、今日は食べた。皿が空になっても、次の皿は来ない。ヨイは空いた時間で、トキハの茶匙を一本借り、木目を写した。母の記録にも港の役目にも属さない、本人だけの夜だった。
一隻の小舟。
航路は、隣の梢から双灯港まで。
乗員二人。
現在返事、あり。
荷ほどき、完了。
停泊路、終了。
暮色旗を立てる。
「ここまで」
小舟の船長が最後の一歩を踏む。
短い鐘が鳴る。
からん。
道は消えない。
着いた記録として、灯の内側へ一筋残った。
そのころ。
第一歩号は、星根街道を北東へ進んでいた。
少なくとも、ナギとルゥはそう信じていた。
「雲に追い越された!」
船首から、カナタの声が上がる。
「雲は追い越すこともある!」
ルゥが地図から顔を上げる。
「でも、あれは歩いてる!」
前方を、巨大な雲の島が進んでいる。
下面から太い脚を伸ばし、見えない星根を踏んで。
一歩。
また一歩。
その後ろに、七つの雲。
最後の一つだけ、少し遅れていた。
カナタは白旗を肩へ担ぐ。
「次の最初の一歩だ!」
「誰の?」
ナギが訊く。
カナタは答えようとした。
少しだけ止まる。
歩く雲。
そこにいる、まだ会っていない誰か。
自分の一歩。
相手の一歩。
「会ってから聞く!」
白旗が風を受けた。
終わった旅の足跡を残し。
帰る旅の始め方を、空白のまま抱え。
第一歩号は、八つの雲へ向かった。
道がないなら、最初の一歩になればいい。
ただし。
次の最初を、いつも自分が踏むとは限らない。