第169話 第一章「雲に履かれる」前編

道がないなら、最初の一歩になればいい。

誰かが二歩目を重ねれば、足跡は道になる。

三歩目が別の方角へ進んでも、また会う旗があれば道は途切れない。

四歩目を、自分より先へ行く誰かに渡すこともできる。

五歩目を急がず、今いる者を数えることもできる。

六歩目を置く場所に先客がいたなら、一歩ぶん空けて迎えればいい。

七歩目まで歩いた道が終わるなら、「ここまで来た」と旗を立てればいい。

では、その先の八歩目は、誰が踏むのだろう。

新しい旅の最初を、いつも自分が踏む必要はない。

誰かの一歩へ二歩目を重ね、先頭を渡すこともできる。

けれどカナタは、最初の一歩を譲れば、自分の道まで消えるように感じていた。

双灯港アケヨイを出て、八日目。

三日で着くはずだった。

北東を「北へ行ってから東」と解釈した船長のせいで、五日増えた。

飛空艇《第一歩号》は、順調に歩いていた。

もっとも、歩くたび、乗員はそれぞれ別の壊れ方をした。

カナタは右膝だけが半拍遅れた。落下と着地を繰り返して残った古傷が、八つの足音に合わせて鈍く鳴る。本人は膝を二度叩き、「船の歩幅を測ってる」と言い張った。痛みを認める代わりに、最後の一段だけ跳び、着地と同時に小さく「到着」と言う。足が止まったかを確かめる、誰にも教えていない癖だった。

ルゥは工具帯から薄い片眼鏡を出した。三十歩先の人の顔は服で見分けるのに、歯車の欠けなら爪の幅より細くても拾える。操舵輪を握る右手より、銀鋲を投げる左手首が痛んだ。《継ぎ路》の反動が残る日は、髪の銀鋲を一本減らす決まりだが、今日は怒りに任せて二本増えている。

ナギは右耳の欠けた鈴と、左耳の薄い耳栓を確かめた。問いは右手、返事は左手。同じ手へ持たない。八つの足音を聞く前に、舌先で前歯の裏を五度押す。一、二、三、四、五。最後の一拍で口の中へ金属味が広がった。音が多すぎる前触れだった。

ザンバだけは動かない。椅子を船縁へ背を向けない角度へ半指ずらし、黒い機巧の右腕で帆柱を支え、生身の左手を空けている。白い雲光が強いと、失った右腕の幻肢痛が増す。切るのは右。受け取るのは左。その区別を守るほど、痛みは誰にも見えなくなった。

空を飛ぶための船なのに、である。

「見ろ、ルゥ! 船に足が生えた!」

船首から逆さまにぶら下がったカナタが叫ぶ。

第一歩号の下には、白い雲の塊があった。

雲から太い脚が一本伸び、船腹をすっぽり包んでいる。

足先に当たる場所には、船首の二枚鍋蓋――正式名称《両面折岸舵》、カナタの中では《第六翼》――が、靴底のように押しつけられていた。

雲脚が持ち上がる。

第一歩号も上がる。

雲脚が前へ出る。

第一歩号が、見えない星の根を踏む。

どおん――。

船中の荷物が一斉に跳ねた。

「足が生えたんじゃない!」

操舵輪へ両腕でしがみついたルゥが怒鳴る。

「雲に履かれてるの!」

「同じだろ!」

「船と靴は同じじゃない!」

「どっちも前へ進む!」

「船は足の裏で進まない!」

甲板の中央では、ナギが響路台ごと天井へ持ち上げられていた。

青緑色の短い髪。

首には二つ組の鈴。

片手で台の脚を掴み、もう片方で青い帳面を押さえている。

「一番目!」

どおん――。

「二番目!」

どおん――。

「三、四、五、六、七――」

少し遅れて。

ど、おん――。

「八番目!」

「足音を数えてる場合!?」とルゥ。

「今いる数を確かめる!」

「船は一隻!」とカナタ。

「私たちを履いてる雲は八番目!」

「俺たちが八番目の足になった!」

「喜ばないで!」

甲板の後ろで、ザンバが椅子ごと帆柱へ押しつけられていた。

灰色の旗には、黒い点から七本の線。

七本目だけは一度終わり、その少し先から、新しい細線が始まりかけている。

「正確には、歩雲の欠けた《雲底》へ吸われた」

男は逆さまのまま淡々と言う。

「三度、離れろと言った」

「俺には?」

「主にお前へ」

「聞いてない!」

「知っている」

第一歩号の上――今は雲脚の向こう側に、巨大な雲の島があった。

白い雲を幾層も重ねた台地。

その上には町が載り、風車と塔と畑が揺れている。

島の前方には、同じような歩く雲が七つ。

一列に並び、世界樹の根から根へ、ゆっくり歩いていた。

一つが踏む。

次が同じ場所を踏む。

さらに次。

八つの足音が、長い星根街道へ重なる。

ただし、まったく同じ音ではない。

一番目は深く。

二番目は、水を含んで低く。

三番目は、草の葉が鳴る。

四番目には金属の余韻。

五番目は家々の軋み。

六番目には鐘。

七番目は、治療寝台の鈴を揺らさないよう静か。

八番目だけ、半歩遅れていた。

「歩雲群ヤエ!」

カナタの目が輝く。

「レオンの地図どおりだ!」

「地図には、船を靴にしろとは書いてない!」

「矢印しか読めなかった!」

「絵で靴じゃないって分かるでしょ!」

雲脚が、もう一歩を踏む。

第一歩号の船底が、見えない星根へ叩きつけられた。

船首の終路鐘が鳴りかける。

から……。

最後まで鳴らない。

「今、着いた?」

「踏まれたの!」

「鐘が迷ってる!」

「船長に似ないで!」

ナギは響路台へ耳をつけた。

「八番目から、二つ音がする」

「足が二本?」とカナタ。

「違う。一つは今の足音。もう一つは、前から来る命令の音」

六番雲の鐘が鳴る。

高い一音。

その音が、二番、三番、四番、五番、七番、八番の順に渡ってくる。

――次も同じ場所を踏め。

声ではない。

けれど、ナギにはそう聞こえた。

「全部の鐘が、同じ返事をしてる」

「そろってるなら便利だろ」とカナタ。

「返事じゃない」

ナギは首を振る。

「前から来た音を、そのまま後ろへ送ってる」

「伝令なら同じだ」とザンバ。

「今いる場所を聞かれても、同じ音しか返せない」

八番目の足音が、また半歩遅れる。

ど、おん――。

今度は、雲の中から声がした。

「そのまま動かないでぇぇぇ!」

カナタが顔を上げる。

雲脚の側面に、一人の少女がぶら下がっていた。

淡い青灰色の髪を、八つの小さな輪に結んでいる。

左右で厚さの違う白い靴。

腰には細い雲針と巻き糸。

背中には、薄青色の旗。

布には、小さな足跡が七つ並び、その先に何も描かれていない丸い空白があった。

少女は一本の縄で雲脚へ体を結び、船腹と雲の間へ長い針を差し込んでいる。

少女は針を引く前に、髪の八つの輪を後ろから順に触った。一つ、二つ。八つ。数え終えると、左右で厚さの違う靴を雲脚へ置き直す。右は拾った雲底を重ねた厚い靴。左は、自分で前へ踏むため薄く削った靴だった。

八歩ごとに一度だけ後ろを振り返る。前を見失わないためではない。最後尾から七つの町がまだつながっているか確かめるためだ。振り返るたび、片方欠けた犬歯が見え、真剣な顔が少しだけいたずらっぽくなる。

船腹へ挟まれた鍋蓋を見て、少女は小さく呟いた。

「落とし物、仮の名は《丸足》

「第六翼だ!」

「持ち主がいた」

拾った物へ仮の名をつける癖があるらしい。名を呼べるものは、まだ捨てられていないと考えているからだった。

「今、外すから!」

「助かる!」

「舵を切らない! 炉を吹かさない! 変な鐘も鳴らさない!」

「全部できる!」

「一つ目から怪しい!」

少女が雲針を引く。

白い糸が、第一歩号を包む雲へ食い込んだ。

雲脚の指が少し開く。

「ルゥ、今だ!」

「動くなって言われたでしょ!」

「開いたぞ!」

「まだ半分!」

「半分なら出られる!」

「船は半分にできない!」

そのとき八番雲が沈み、少女の安全縄が鍋蓋へ食い込んだ。動かなければ、船腹と雲脚の間で少女が挟まれる。カナタは「動くな」を聞いたうえで、船だけを半歩抜くつもりでレバーを引いた。

二枚の鍋蓋が回る。

片方は星根の重さを掴み。

もう片方は雲脚の内側へ深く食い込んだ。

「第六翼、全開!」

「閉じてぇぇぇ!」

少女とルゥとナギの声が重なる。

雲脚がくすぐられたように縮んだ。

第一歩号が抜ける。

「やった!」

ただし、少女の縄も鍋蓋へ絡んでいた。

「私まで抜かないで!」

少女が雲脚から引き剥がされる。

第一歩号の船首へ向かって飛んできた。

「取る!」

カナタは船腹を蹴る。

白旗を空へ突いた。

「標術――《未踏路》! あの子の手前!」

一歩分の光板が生まれる。

少女の足元。

だが、光板は最前方の歩雲へ向かって傾いた。

七つの足跡が、板を前へ引いている。

「道が勝手に先頭へ!」

「この群れでは、全部の一歩が一番雲へ流れる!」

少女は傾く板を滑った。

カナタへ激突する。

二人で船首へ転がった。

「取った!」

「取られた!」

「同じだ!」

「違う!」

第一歩号は雲脚から自由になった。

代わりに、足元を失った八番雲が大きく傾いた。

町の家々が滑る。

畑の柵が抜ける。

吊り橋が一斉に軋む。

「右雲底がない!」

少女の顔から血の気が引く。

「船を戻して!」

「また履かせるのか!?」

「一呼吸だけ!」

「任せろ!」

「今度は何を!?」

「全部!」

「その返事、もう信用できない!」