第170話 第一章「雲に履かれる」後編

カナタは第六翼を下ろした。

二枚の鍋蓋が雲脚へ触れる。

今度は足先ではない。

雲の横腹へ引っかかった。

第一歩号が振り子になる。

八番雲の下を大きく回る。

一回。

二回。

三回。

「船が歩かずに走ってる!」

「感想はあと!」

ルゥが操舵輪を切る。

透明羽根が雲の重さを拾う。

ナギは響路台へ鈴を四つ結んだ。

「船長!」

「ここ!」

「航路機巧師!」

「操舵輪!」

「監視役!」

「船尾だ」

「響路士!」

「ここ!」

最後に船腹を五回叩く。

こん。

こん。

こん。

こん。

こん。

朝火炉が返す。

「第一歩号、現在!」

四人と一隻の重さが、一つの船へ戻る。

第一歩号は振り子の頂点で、雲の上へ跳ねた。

町が迫る。

最初に見えたのは、白い門だった。

大きな文字がある。

――第八歩門。

「何て書いてある!」

「八番雲の入口!」

「ちょうどいい!」

「門の幅を見て!」

第一歩号の船幅は、門の二倍あった。

「横になる!」

「もうなってる!」

船体が九十度傾く。

帆柱だけが門を通る。

左右の帆が柱へ巻きつく。

門は根元から抜けた。

「入口、通過!」

「持ってきた!」

次に、雲底を補修するための白い綿束が積まれた作業場へ入る。

一列目を船首が押す。

二列目が崩れる。

三列目の雲綿が空へ舞う。

町中が真っ白になる。

「前!」

少女が叫ぶ。

「見えない!」

「先頭交代禁止の標柱!」

「何て!?」

「ぶつかる!」

白い霧の中から、紺色の柱が現れた。

柱の先には、一つの大きな足跡。

その後ろへ、七つの小さな足跡。

カナタは終路鐘の綱を掴む。

「止まるぞ!」

「今は全員、着きたい場所が違う!」とルゥ。

「俺は止まりたい!」

「私は門を戻したい!」と少女。

「私は響路台を床へ戻したい!」とナギ。

「俺は椅子へ戻りたい」とザンバ。

「船は前へ進みたい!」

「鐘、鳴らない!」

綱を引く。

から……。

一音だけで止まった。

第一歩号は止まらない。

先頭交代禁止の柱を真ん中から折る。

その先に、巨大な靴箱があった。

「右!」

「右に家!」

「左!」

「左に雲足!」

「上!」

「雲の中!」

「じゃあ前!」

「毎回それしか残らないの!?」

第一歩号が靴箱へ突っ込んだ。

白い靴板。

厚い雲底。

足跡を写す型紙。

全部が空へ舞う。

最後は柔らかな雲綿の山へ船首から刺さった。

ぼふん、と白い霧が町を覆う。

しばらくして、雲綿の中からカナタの腕だけが突き出た。

「着雲……!」

少女が隣から這い出す。

髪の八つの輪すべてに、白い綿が詰まっている。

「ここは靴箱!」

ナギも雲綿から顔を出した。

「四人と一隻、現在」

「最初にそれ!?」

「事故のあとほど数える!」

遅れて先頭交代禁止の標柱が倒れた。

からん、と終路鐘へ当たる。

ごおん――。

今度は最後まで鳴った。

朝火炉が止まる。

第一歩号が雲綿の中へ、さらに半歩沈んだ。

「到着確認!」

カナタが胸を張る。

少女は折れた標柱と門と靴箱を見回した。

板を取り出し、数字を書き始める。

「弁償」

「雲は柔らかいぞ!」

「町は硬いの!」

少女の名はメグといった。

十五歳。

歩雲群《ヤエ》《後踏み》見習い。

弁償板へ数字を書くのは左手だった。雲針も左。右手は、落ちた人を引き上げるために空けている。説明が長くなると、左の靴先だけが後ろへ向いた。

弁償板の最下段には《拾い手チコ確認》の欄があり、メグは被害数を一人では確定しなかった。

そして、第一歩号が壊したものを数え終えるまで、三刻かかった。

「第八歩門、一基」

「入口は通った」

「抜いた」

「通ったあとに動いただけだ!」

「先頭交代禁止標柱、一基」

「禁止されてたのか?」

「読んで」

「字が多い!」

「雲底靴板、四十二枚」

「柔らかかった!」

「踏んだら形が変わった!」

「靴は形が変わるものだろ」

「足に合わせて! 船に合わせない!」

メグは弁償板の数字を増やす。

ルゥは第一歩号の船底へ潜り、雲に包まれた銀枝を一本ずつ外していた。

「原因、分かった」

終路鐘を指す。

「この鐘の七つの灯路と、八番雲の歩鐘が共鳴したのよ」

「鐘に灯はないぞ」

「仕組みの話!」

「八つ目が足りなかったから、第一歩号を足にした」

メグが雲底を押す。

船腹から、ぼふ、と白い綿が出た。

「右歩脚が三日前から欠けてる。補修するまで、近くの硬いものを靴底にする癖がついた」

「第一歩号が選ばれた!」

「一番大きなごみだと思われた」

「船!」

ナギは靴箱の脇へ、二つの響皿を置いた。

一つは八番雲の歩鐘へ。

もう一つは、一番雲から伸びる伝令索へ。

二つの音を同時に鳴らす。

ど、おん。

高い一音。

「やっぱり違う」

「何が?」とメグ。

「八番雲の足は、『ここにいる』って鳴ってる。伝令索は、『同じ場所を踏め』って鳴ってる」

「同じ場所を踏まないと、光索が引く」

「返事は?」

「一番雲へ?」

「ううん。八番雲が今、どこを踏んでるか」

メグは首を傾げた。

「歩鐘を鳴らせば分かるでしょ」

「前から聞くと、全部同じ」

ナギは自分の旗を広げた。

開いた輪。

二つの点。

呼び声と返事の間を往復する波。

「標術――《響路》

細い音の線が、八番雲の歩鐘へ伸びる。

「八番雲。今の返事」

最初に鳴ったのは、伝令索だった。

高い一音。

――同じ場所を踏め。

「それは命令」

ナギは音を記録皿へ分ける。

「八番雲の返事を聞きたい」

少し待つ。

雲の奥から、低い音。

ど、おん。

途中で小さく揺れる。

「右歩脚、欠けてる」

メグが驚く。

「分かるの?」

「音が右で沈む」

次に、細い擦れ。

「町の後ろが引かれてる」

「いつも」

「『いつも』も返事」

ナギは青い帳面へ書く。

――八番雲。

――現在、右歩脚欠損。

――最後尾の光索、過緊張。

――伝令音と、現在音を分離。

「そんなの書いて、誰が読むの」

「次に聞く人」

「一番雲は、歩幅しか聞かない」

「なら、別の人へ送る」

ナギは連標網の小鈴を取り出した。

双灯港。

ミナモ。

トマリギ島。

カゲノハ村。

各地の返事を一度に呼ばない。

順番に、一つずつ。

今は近くの六番雲へ呼び声を送る。

「六番雲。八番雲の現在を聞ける?」

高い鐘が返る。

同じ一音。

その奥。

誰かが鐘の縁を五回叩いた。

こん。

こん。

こん。

こん。

こん。

『聞こえる』

少女の声。

「名前は?」

『トウカ。六番雲の歩鐘見習い』

「ナギ。第一歩号の響路士」

『噂の?』

「主に船長が壊した場所の数で」とザンバ。

「音路へ入ってこないで!」

『八番雲、本当に右歩脚がないの?』

トウカの声が震える。

「見れば分かるだろ」とカナタ。

ナギはすぐには頷かなかった。右耳では八番雲の低い足音、左耳の栓越しには一番雲の命令音。二つを重ねると、どちらも「八番目」に聞こえる瞬間がある。

「見える人には、見える。聞こえる私にも、今は二つまで」

青い帳面へ、判断の限界も書いた。金属味が濃くなり、視界の縁が白くなる。いつものごまかし――道具のほうが疲れた――を言いかけ、やめた。

「トウカ。命令音の高さを記録して。メグは足元の揺れ。私は現在音を聞く。三つが合ったところだけ、確かめたことにする」

一人の聞き分けを、新しい一番へしないためだった。

「六番雲からは、前の雲しか見えない」とメグ。

『歩鐘では、八つとも同じ音だった』

「同じにされてた」

ナギは伝令索の一音と、八番雲の足音を別々に送る。

トウカが息を呑む。

『違う』

「うん」

『私、十二年、同じ音を後ろへ送ってた』

「今から分ければいい」

ナギは急かさない。

返事を待つ。

『八番雲。右歩脚欠損。最後尾索、過緊張』

トウカが、自分の言葉で復唱する。

六番雲の鐘が、今までと違う二音を鳴らした。

一音目は命令。

二音目は現在。

歩雲群の前方で、いくつかの鐘が戸惑うように揺れる。

「怒られる」

メグが言った。

「誰に?」

「一番雲」

「返事をしただけ」

「この群れでは、先頭と違う音を出すのは、歩調を乱すこと」

ナギは帳面を閉じる。

「違う場所にいるのに、同じ音だけを返すほうが乱れてる」

メグはしばらくナギを見る。

「響路士って、前に声を送る仕事?」

「前にも、後ろにも」

「どっちが先?」

「呼んだ人と、返した人」

「順番は?」

「そのたび違う」

メグの薄青い旗の空白が、ほんの少し揺れた。

八番雲の右歩脚は、第一歩号を外したことで再び沈み始める。

ルゥが船底から顔を出す。

「一刻だけ、第一歩号を補助脚にする」

「また履かせる!?」とカナタ。

「今度は船として固定する!」

「靴として選ばれたのに!」

「船!」

メグとルゥの声が重なる。

八番雲の人々が、白い雲糸を運んでくる。

老人。

子ども。

雲底師。

拾い手。

全員、前の七雲から落ちてきた物で道具を作っていた。

第一歩号の船腹へ、八番雲の雲底板を一枚当てる。

ルゥが銀鋲を打つ。

《継ぎ路》

船と雲を、同じものにはしない。

必要な一呼吸だけ、重さを渡す。

八番雲が一歩を踏む。

ど、おん――。

今度は遅れない。

けれど、前の音と同じでもない。

「八つ目の返事」

ナギが帳面へ記す。

メグは足元の雲を見た。

「十二年ぶりに、八番雲の音を聞いた気がする」