第171話 第二章「八番目の町」前編

歩雲群ヤエは、八つの巨大な雲でできていた。

先頭から一番雲。

二番雲。

三番。

最後が、今いる八番雲。

それぞれの雲には町が載り、役目がある。

一番雲は、星根を読む航路町。

二番雲は、水を運ぶ貯雨町。

三番雲は畑。

四番雲は炉と工房。

五番雲は家々。

六番雲は鐘と伝令。

七番雲は治療所。

八番雲は、前の七つから落ちたものを拾う町だった。

壊れた道具。

切れた橋板。

配達先を失った荷物。

足を踏み外した小舟。

ときには、人。

「最後尾は、全部が見える」

メグは靴箱の外へ出た。

町の端から、前方の七雲を見渡す。

「一番雲が落としたものも。七番雲が見失ったものも。ここまで来れば拾える」

「便利だな!」

「前の町は、そう言わない」

八番雲の通りには、番号のない看板が多かった。

――一番雲へ返す。

――四番雲の部品。

――持ち主不明、次の休雲地まで保管。

どの品にも、元の場所が書かれている。

八番雲の名だけは、返す先に使われない。

「ここに残るものは?」

カナタが訊く。

「誰も取りに来なかったもの」

メグは淡々と答えた。

「それと、八番雲の人」

道の中央を、子どもたちが走っていく。

背中の旗には、荷車。

雲針。

結び目。

前の雲の町では必要とされる仕事ばかり。

けれど、旗の根元には小さく《八》の札がついていた。

最初に声をかけてきたのは、片眉の白い老人だった。

名をホロという。

六十六歳。片眉だけが白く、近くの糸穴は裸眼では見えない。額へ小さな糸眼鏡を上げるくせに、針へ糸を通すときは目を閉じ、指先の擦れだけで穴を探した。手が震える日は、音の静かな道具から順に並べる。鍵束は二度だけ鳴らす。三度鳴れば焦っていると弟子に知られるからだ。

関節を鳴らすとき、小指だけを残す。昔、最後尾索を切りかけた事故で小指の曲がりが悪くなった。本人は「使わん指だ」と笑うが、八番雲が群れから裂ける話になると姿勢だけが妙に良くなり、町の規則を一字一句の公用口調で言い始める。

八番雲の靴師。

第一歩号を雲から外したとき、最も大きな雲針を持っていた人でもある。

「船長」

「おう!」

「弁償」

「メグと同じ!」

「師匠だから」

メグが答える。

ホロは、第一歩号が潰した靴板を一枚ずつ持ち上げた。

「四十二枚」

「まだ使える!」

「船の形になった」

「新しい靴!」

「八番雲に船型の足はない」

「作る!」

「誰が履く」

「雲!」

「また船が履かれる」とナギ。

「成長!」

「繰り返し!」とルゥ。

ホロの隣には、小さな少女がいた。

十歳ほど。

大きな拾い網を背負い、片方だけの赤い靴を胸へ抱えている。

「チコ」

メグが紹介する。

十歳ほど。左手の薬指が最後まで曲がらず、拾い網の結び目は普通の輪では締められない。そこで、自分だけの三つ折り結びを作った。右眉の上が見えにくく、物を受け取るときは必ず顔を少し傾ける。

片方だけの赤い靴には、持ち主へ返す札ではなく《チコ使用中》の札が結ばれていた。拾った物をすべて元へ返せばよいとは思っていない。壊れた物にも、今いる町で別の役目ができる。そう言いたいのに、「戻せ」と言われると、自分まで五番雲へ返送される気がして、必要のない細部まで早口で説明した。

「五番雲から落ちた」

「靴が?」とカナタ。

「本人」

「落ちたの!?」

「三年前」

チコは平然と頷く。

「戻らないのか?」

「五番雲の家、別の人が住んでる」

「家族は?」

「七番雲。治療の仕事へ移った」

「じゃあ、七番へ!」

「八番雲で拾い手になる」

「どうして」

チコは赤い靴を見せる。

「落ちた人を取れるから」

カナタは口を閉じた。

最後尾は、捨てられた場所ではない。

ただし、拾えば必ず優しくなれるわけでもなかった。

チコは持ち主不明の片手袋を二つ見つけ、形が似ているから一組にしてしまった。片方は一番雲の航路士、もう片方は七番雲の治療師の物だった。返しに来た二人が同時に困った顔をし、チコは早口で、色も縫い目も大きさも似ていた理由を二十以上並べた。

ホロは叱らず、鍵束を二度鳴らした。

「何を見なかった」

「名前札」

「次は」

「似てても一つにしない」

メグはその横で、拾った道具へ仮の名をつける帳面を閉じた。名を与えることも、本人の名札を上書きすれば支配になる。八番雲の仕事は善意ではなく、間違いを持ち主へ返せる仕組みで保たれていた。

夕方、三人は返送棚の前で雲豆を食べた。ホロは甘い物へ先に匂いを確かめ、チコは片方の赤靴を椅子へ載せ、メグは八つの髪輪を数えずに一口だけ笑った。役目の話をしない時間も、町に残る理由だった。

落ちた者が、次の落ちた者へ手を伸ばす場所でもある。

それでも、町の道具には八番雲の名が少ない。

拾った物を直せば、元の町の札が戻る。

八番雲で作った網も、六番雲の伝令具として数えられる。

雲底を直した靴板も、一番雲の歩調を支える部品として記録される。

「八番雲の仕事は?」

ナギが訊く。

「返すこと」とメグ。

「誰にも返さない仕事は?」

「ない」

「今の返事を記すのは?」

「六番雲」

「後ろから見た地図は?」

「一番雲へ送る」

「送ったあと、誰の地図になる?」

「一番雲の地図」

ナギは青い帳面へ何か書いた。

メグが覗こうとする。

「何?」

「八番雲の地図って書いた」

「まだ見てない」

「見せて」

簡単な言葉だった。

メグは少し困った顔をした。

見せる相手を待っていたのに、いざ聞かれると、どこから始めればよいか分からない顔だった。

町の中央には、八本の足跡を描いた古い円盤があった。

ただし、七本は土に埋まり。

一番前の大きな足跡だけが、紺色の柱に覆われている。

先ほど第一歩号が折った標柱と同じ紋章。

「昔は《踏み替え場》だった」

メグが円盤を踏む。

「休雲地へ着くたび、一番雲が最後へ回る。二番雲が先頭になる。八つの雲で、順番に星根を探した」

「八番雲も一番になる?」

「八回に一度」

「じゃあ、今が八回目?」

「十二年間、来てない」

カナタが前方を見る。

一番雲は、七つ先。

遠い。

雲の背に立つ高い塔から、紺色の旗が見える。

一つの大きな足跡。

後ろへ並ぶ七つの小さな足跡。

「順番を止めた?」

「一番雲だけが、ずっと一番」

町の鐘が鳴った。

どおん――。

前方から、一つ。

二番雲が続く。

どおん――。

三番。

四番。

同じ間隔。

同じ強さ。

八番雲の番が来る。

右歩脚が欠けている。

町全体がわずかに遅れた。

ど、おん――。

直後、前の七雲から伸びる光索が張る。

八番雲を強引に前へ引いた。

家々が揺れ、靴箱の板がまた一枚倒れた。

ホロが押さえる。

チコが拾う。

メグは慣れた手つきで、ちぎれた雲へ糸を打った。

「毎回、こうなのか」

「一番雲の足跡へ、全員の歩幅を合わせる」

「安全じゃない?」とカナタ。

「後ろほど、足の長さが違う」

メグは八番雲の端を指した。

雲の縁が、細くちぎれている。

引かれるたび、町の後ろが少しずつ失われていた。

「このままなら、最初に消えるのは八番雲」

「先頭を替えればいい」

「言って」

「誰に?」

「母さん」

前方の鐘が、もう一度鳴った。

今度は歩調ではない。

八番雲の町で、人々が道を空ける。

白い足場が空から伸びてきた。

一番雲から七つの町を越え、まっすぐ八番雲へ。

一人の女が歩いてくる。

四十歳ほど。

濃い紺色の髪を、背中で一本に結んでいる。

右脚には、白い雲底の長靴。

左脚には、黒い星根鋼の靴。

背中の旗は、先頭塔と同じ紺色。

中央の大きな足跡から、七本の細い線が後ろへ伸びていた。

「歩頭長カイラ」

左右で違う靴のうち、左足首には布が三重に巻かれ、立つと右肩がわずかに前へ出た。

カイラは右手に記録板を持っていたが、メグを娘ではなく「後踏み」と呼んだ瞬間だけ、左手が先に紺旗を掴んだ。

「歩頭長は、八雲すべての落下を先に引き受ける。星根の読図、歩幅、非常時の――」

訊かれていない職務まで説明が続く。ナギは理由を決めず、言葉が長くなった事実だけを帳面へ置いた。

町の人々が頭を下げる。

メグだけは下げなかった。

「母さん」

「仕事中は歩頭長だ」

カイラは折れた標柱を見る。

抜けた第八歩門。

靴板の山。

雲綿へ刺さる第一歩号。

最後に、カナタを見る。

「空の岸を越え、双灯港を立て直した未踏路士と聞いた」