第173話 第三章「後ろから届く修正」前編
翌朝。
第一歩号は、歩雲群の上を一番雲から八番雲まで往復する許可を得た。
許可を出したのはカイラ。
条件は三つ。
歩調を乱さない。
各雲の上空で炉を吹かさない。
船長を操舵輪へ近づけない。
「最後だけ俺の名前だ!」
「条件じゃなく安全規則」とルゥ。
「船長なのに!」
「船長だから!」
第一歩号は、八番雲の雲底板を仮に船腹へつけ、ゆっくり前へ進んだ。
最初に寄ったのは七番雲。
治療所の町。
歩鐘は静かで、雲脚もほかより短い。
寝台を揺らさないため、一歩が遅い。
七番雲の代表は、リツという十六歳の治療師見習いだった。
白い髪を首の後ろで束ね、腰に薬鈴を七つ。
リツは高い音を聞き取りにくかった。七つの薬鈴は飾りではなく、低い振動を腰骨へ伝えるためのものだ。返事をするとき、相手の唇を一度見てから左耳を引く。聞き違えたまま患者を揺らすことが、遅れることより怖かった。
安全を守ろうとするあまり、元気な人まで寝台へ縛りつけることがある。「分からないままでいい」と言われるのが、本人には一番難しい。
「一番雲と同じ歩幅にすると、患者が落ちる」
リツは寝台の留め具を締めながら言った。
「だから、七番雲は半歩遅く踏む」
「遅れると索が引く」とルゥ。
「引かれる前に、寝台を浮かせる」
「地図へ書いてる?」とナギ。
「毎日」
「返事は?」
「受領一音」
「改善は?」
「十二年で、索の長さが一指伸びた」
「長い!」とカナタ。
「患者は急げない」
次は六番雲。
鐘と伝令の町。
トウカが、八つの鐘を前に待っていた。
十五歳。
赤茶色の髪を、鐘紐のような一本編みにしている。
左右の脚の長さが少し違い、古い骨折側の靴底だけ一枚厚い。歩くと鐘塔の床へ、不揃いな二音が残る。
二本の槌には、焼き印があった。右に《命令》。左に《現在》。十年前、まだ幼かったトウカは、教えられたとおり命令槌だけを後ろへ渡した。その記憶があるため、今も驚くと右手が先に動く。慎重に話すときは、言葉と言葉の間へ、鐘一つぶんの間を置いた。
「昨日の二音、歩頭局に呼ばれた」
「怒られた?」とナギ。
「一音目は命令、二音目は現在だと説明した」
「返事は?」
「一音目だけ鳴らせ、と」
「鳴らした?」
トウカは二本の槌を見せる。
「右で命令。左で現在」
「増えた!」とカナタ。
「聞こえないくらい小さく」とトウカ。
「今は聞こえる」
ナギは左の鐘へ鈴をつなぐ。
五番雲。
家々の町。
代表は、イオという十四歳の配達見習い。
家と家の間を、細い吊り道で走っている。
イオは家ごとの戸閉め時刻を小札へ書き、数え終えるたび次の仕事へ走る。笑うと、その笑いが終わる前に次の札を読み始める。冷たい水にも息を吹く癖があり、カナタが嬉しそうに真似した。
安全報告を「遅れる言い訳」と呼ばれるのが怖い。だから大丈夫でない日ほど姿勢を正し、数字だけを速く言う。自分が休んだ日に町が無事進み、「お前がいなくてもできた」と喜べるようになりたいという望みは、まだ誰にも話していなかった。
「一番雲が速く踏む日は、戸を閉める時間がない」
「前もって閉めれば?」とカナタ。
「子どもと老人が住んでる」
「俺が閉める!」
「八百軒」
「二歩ずつ!」
「千六百歩」
「長い!」
「だから、五番雲は一呼吸遅く踏む」
四番雲。
炉と工房。
代表はガク。
十七歳。
太い腕に、煤色の旗。
ガクは公の場では「僕」と言い、競争や怒りで熱くなると「俺」へ戻る。工具の欠けへ必ず触れてから話し、発言前には右耳を一度引いた。
四番雲が重いという理由だけで、先頭候補から永久に外されるのを恐れていた。炉を止める条件、通過する区間、渡す相手が明確なら、自分も短い先頭を受け取りたい。仕事の荷重と同じ表へ、自分の疲労を記すことだけは、まだできていない。
「重いから、先頭の足跡へ深く入りすぎる」
ガクは雲脚の裏へ、広い鉄板をつけていた。
「同じ場所を踏むなら、面を広げる」
「一番雲へ送った?」とルゥ。
「三年前」
「採用は?」
「八番雲で試すよう返された」
メグが顔をしかめる。
「また後ろ」
ルゥは鉄板の曲がりを調べる。
「でも、使える」
「第一歩号にも?」とカナタ。
「何でも船へつけない!」
三番雲。
畑と風見草。
代表はフウカ。
十五歳。
緑の髪に、種袋を八つ結んでいる。
フウカは古い星図より、今朝の風見草を信じる。質問がごまかされたと感じると、一語も変えず、同じ問いを同じ高さで繰り返した。三度目だけ声が低くなる。
階段を上るときは残り段数を逆から数え、鍵束は二度だけ鳴らす。見送る役ばかりをしてきたが、本当は自分も歩雲の外へ出て、風見草のない場所の風を測りたい。種袋の一つには、旅用に選んだ種を隠していた。
「草は北へ向いてる」
フウカは畑を指す。
「一番雲の星図は東」
「どっちが正しい?」とカナタ。
「星根は動く。草は今の風を読む」
「星図は昔?」
「昨日」
「近い!」
「根抜け野では、一日で変わる」
フウカの地図には、東へ伸びる線の横に、薄い北向きの線があった。
二番雲。
水を運ぶ町。
代表はスイ。
十五歳。
青い外套の裾から、雨滴が上へ流れている。
スイは乾いた風に弱く、透明な保護眼鏡をかけていた。水量を読むとき、声に出さず十まで数え、判断を求められるとまず「条件による」と答える。
親指には古い水門傷があり、怖い話ではそこを爪でこする。水が足りないという報告を「歩調を乱すだけ」と退けられた記憶があるため、今も数字を三度確かめる。いつか自分の読み違いを、仲間と笑える失敗として話したい。まず失敗を隠さず残せる制度が必要だった。
「北に水脈がある」
スイは貯雨槽へ手を入れる。
「遠いけど、続いてる」
「一番雲の道は?」
「東。水が返ってこない」
「枯れてる?」
「まだ分からない」
「地図へ?」
「送った」
「返事は?」
「受領一音」
最後に一番雲。
上空へ近づくと、同じ八報告が一番雲では別の重さになっていた。
カイラは先頭塔の縁に立ち、右の白靴で現在の星根、左の黒靴で昨日の残照を踏む。足首布の三枚目が緩み、レンが巻き直そうとすると、「観測を続けろ」と公用の声で拒んだ。
スイの水不足札は《受領》。フウカの北風図も《受領》。ガクの鉄板、イオの戸閉め、トウカの二音、リツの半歩、メグの後踏み図。全部、棚へ入っている。無視して捨てたわけではない。ただ、どの紙も最後には《一番雲の判断待ち》へ重ねられ、カイラが眠る時間と同じ場所で止まっていた。
「一人で読むから遅い」とルゥ。
「判断を分ければ、矛盾した命令が出る」
「今も矛盾してる。出てない形にしてるだけ」
カイラの左手が旗を掴んだ。怒りが先へ出る手。
「後踏みの報告は、前から確認できない」
「確認できないから、受け取った人の名を残す」とナギ。
「誤っていたら?」
「スイが水で。フウカが風で。メグが後ろのずれで、別々に責任を持つ」
「歩頭長の責任は」
「消えない。でも全部ではない」
カイラは答えず、七枚の報告を一枚ずつ机へ並べ直した。まだ判断は渡さない。それでも初めて、紙を一つへ重ねず、書いた人の名が見える向きへ置いた。
八つの町で、最も広い。
航路塔。
歩頭局。
星根を読む観測台。
そのすべてが、十二年間、前だけを向いている。
出迎えたのはレンという十六歳の航路士見習いだった。
濃紺の短髪。
旗には、一つの大きな足跡。
その縁へ、まだ細い七本の線がある。
レンは地図を折らず、必ず丸める。見通せる距離が日によって変わるため、朝の報告は「今日は三十歩見える」から始まった。左膝には縫い痕、右眉には星根火の焼け跡がある。
観測台から食堂までの歩数を、二、三、五、七と素数で区切る。褒められると靴先を机の下へ隠し、答えは三案並べてから一つ選ぶ。メグを支えるだけの同意者ではない。自分も先頭へ選ばれたい。けれど選ばれた瞬間、後ろ七雲の修正を消す人になることが怖かった。
「八雲の修正図を見せて」
ナギが言う。
「歩頭長の許可が要る」
「送られてる?」
「受領棚にある」
案内された部屋には、何千枚もの図が積まれていた。
二番雲の水脈。
三番雲の風。
四番雲の荷重。
五番雲の生活歩調。
七番雲の治療速度。
八番雲の後踏み地図。
すべて、受領印だけがある。
読み直した印はない。
「多すぎる」
レンが言った。
「歩頭長は、前の星根を読むだけで一日が終わる」
「ほかの人が読めば?」とルゥ。
「先頭でない者が、先を決めるのか」
「修正を渡すだけ」
「最後に決めるのは歩頭長」
「決める前に読む人が要る」
レンは地図の山を見る。
「先頭は、一人で全部を背負う」
「背負わせてるのは誰?」とザンバ。
レンは答えなかった。
カナタは航路塔の窓へ立つ。
前には、根抜け野。
後ろには七つの雲。
振り返れば見える。
けれど、塔の机も。