第174話 第三章「後ろから届く修正」後編

観測鏡も。

椅子も。

すべて前向きに固定されていた。

「後ろを見る窓がない」

カナタが言う。

「前に道がある」とレン。

「後ろに仲間がいる」

「光索でつながってる」

「顔は?」

レンは振り向こうとする。

椅子の背が高く、七雲を隠す。

カナタはその背を掴んだ。

「外す!」

「壊すな!」

「見えるようにする!」

「許可!」

ルゥがカナタの襟を引く。

「先頭を替える前に、椅子を壊さない!」

「背が邪魔だ!」

「まず聞く!」

ナギは受領棚の前へ、自分の帳面を置いた。

「八つの修正を、一つの地図へしない」

「どう読む」とレン。

「順番に」

「根抜け野まで二日」

「全部読めないなら、何を読まなかったか残す」

「それで落ちたら?」

「読まなかったことを、なかったことにしない」

レンの顔に、苛立ちと怖さが同時に浮かぶ。

「後ろは簡単だ」

「何が?」

「間違いを見つけて、先頭へ送る。落ちたとき、決めたのは先頭だと言える」

ナギは少し考える。

「先頭も簡単」

「何だと」

「全部を自分で決めたって言えば、後ろの返事を聞かなくていい」

レンが黙る。

ザンバが片目を細めた。

「どちらも、相手を道の一部にしている」

窓の外。

一番雲が一歩を踏む。

七雲が続く。

八つの町は、また同じ足跡へ向かった。

しかし第一歩号の青い帳面には、八つの違う修正が残った。

同じころ。

カゲノハ村では、朝の三つ鐘が鳴っていた。

村の上端に立つ白杭の向こうへ、荷車が三台並んでいる。

一台目は熱冷まし。

二台目は包帯と乾燥苔。

三台目は、二枝上の旅人宿《朝雫宿》へ届ける食料だった。

白杭までは村の道。

その先は、上層枝の宿と共同で直した細い根道である。

カゲノハ村の現在図には、今朝から初めて一本の線として描き込まれた。

先頭には、アカリ。

へこんだ薬箱を肩へかけ、十四歳の授旗で受け取った黄緑色の旗を背負っている。

地図を書く手は左。薬や荷を渡す手は右。書くことと渡すことを同じ手へ持たないのが、アカリの決め事だった。間違えた線は消さず、赤糸で囲う。人名札だけは角を丸く切る。急いだ荷車の中でも、受取人の指を傷つけないためだ。

初めて白杭の外へ立つと、発熱後から残る立ちくらみが来た。視界の端が白くなり、薬箱のへこみを親指でなぞる。「手順の中に休憩はない」と言いかけ、マツバ婆の顔を思い出して口を閉じた。

「十呼吸、現在確認」

自分の体調も便の現在へ入れた。以前なら外していた一行だった。

その後ろにセノ。

さらにフィオ。

村の外へ出る定時便を、カゲノハ村の見習いたちだけで運ぶ最初の日だった。

「カナタさんがいれば、先に飛んで確認したのに」

フィオが、白杭の先の谷を見る。

「飛ぶのは禁止」

アカリは即答する。

「鍋蓋も?」

「特に」

「未踏路なら?」

「今日は使う人がいない」

「じゃあ、誰が最初?」

アカリは白杭の外へ立った。

新しい木板。

新しい返事鐘。

古い薬師橋より二本上を通り、村の外側へ回り込む道。

カナタが熱冷ましを届けたときには、まだ存在しなかった。

「私」

「配達係だから?」とセノ。

「届け先を引き受けたから」

「怖い?」

「少し」

アカリは薬箱から紙札を一枚出した。

――朝雫宿、宿守サナ。

現在図にも、同じ名がある。

けれど、黄緑旗はまだ動かなかった。

アカリは白杭の返事鐘を五回鳴らす。

こん。

こん。

こん。

こん。

こん。

「カゲノハ村外便。白杭前。アカリ」

しばらくして、二枝上から小さな金属音が五回返った。

『朝雫宿。サナ。今、ここ』

返った声は三十七歳の宿守サナ。宿の戸口ではなく、荷下ろし場の出口側へ重心を置いている。右眉の上に古い火傷、親指の爪は縦に割れ、布を細く巻いていた。

紙を受け取ると必ず端を揃える。鍵も枝銭も二度だけ鳴らす。昔の住所へ案内される話になると、相手が言い終える前に動き出してしまう。宿の者には「あたし」と言うが、連標網では「私」。二つの声を使い分けるのは、今の役目と私生活を一つにされないためだった。

名前。

現在図。

本人の返事。

三つがそろい、黄緑の旗が宿の方角へ弱く傾く。

道を作るほど強くはない。

曲がり角を越えれば、また止まるかもしれない。

それでも、今朝の受取人がいる方向だけは示した。

アカリは旗を掲げる。

「標術――《宛標》

宛名札の輪郭へ、細い黄緑の線が一度だけ走った。

「旗が先頭?」とフィオ。

「違う。宛先を示すだけ」

「道は?」

「私たちが確かめる」

荷車の車輪止めを外す。

橋の下では、アステルの《帰還路》が薄く光っていた。

記憶の薬師橋。

古い石。

今はない手すり。

十三歳のアカリが熱を出した日の景色。

光の上に、幼い自分が見える。

布団の中。

遠くから、カナタの声。

『道がないなら、飛ぶ!』

記録は、今朝の白杭を見ない。

黄緑旗も。

村外便の荷車も。

同じ過去を出すだけだった。

「アカリ」

セノが今の返事鐘を五回叩く。

「白杭前。今、ここ」

アカリも薬箱を五回叩いた。

「村外初便。出発」

帰還路の古い橋ではなく。

現在図に書かれた木板へ、一歩を置く。

板が少し沈む。

戻らない。

二歩。

三歩。

荷車が続く。

セノ。

フィオ。

見送りの村人たち。

白杭を越えたところで、アカリは一度振り返った。

村は、今までより少し遠い。

それでも返事鐘は届く。

「村の外」

小さく言う。

「まだ二十歩」とセノ。

「二十歩でも外」

橋の中央で、黄緑旗が左へ傾いた。

地図では右である。

アカリは立ち止まる。

「どうした?」

「受取人が動いた」

朝雫宿のサナが、荷下ろし場へ出たらしい。

宿の建物ではなく、返事をした本人へ旗が向いている。

アカリは道を変えなかった。

「左へ飛ぶ?」とフィオ。

「道がない」

「旗は左」

「宛先と、足場は別」

現在図を開く。

右の正規路を進み、次の折り返しで左へ回る。

遠回り。

けれど、荷車が通れる。

朝雫宿へ着くと、サナが荷下ろし場で五回返した。

「受け取るよ」

薬。

包帯。

食料。

一つずつ名と数を確かめる。

最後の箱を渡したところで、黄緑旗はまっすぐ下を向いた。

「壊れた?」とセノ。

「届け終わったから」

アカリは札の受取欄へサナの名を書いた。

サナは空になった予備札を一枚返さず、荷下ろし台の脇へ残した。名前も住所も書かない。

「次に来る人を、先に昔の誰かへしないため」

「空白が怖くない?」とセノ。

「怖いよ。だから空けておく」

アカリはその札の角も丸くした。宛名がないことと、受取人がいないことは同じではない。次の現在が来たとき、本人の名を書ける余白だった。

「帰るまでが初便」とフィオ。

「そう」

戻りの荷を載せる。

帰路では、向こうから空車が二台来た。

道は狭い。

フィオが先へ出ようとする。

アカリは手を上げた。

「止まる」

「私たちが初便なのに?」

「先に踏んだ人が、いつも先に通る決まりじゃない」

荷車三台を待避棚へ入れ、空車を通す。

それから、もう一度歩き出した。

連標網の返事輪が鳴ったのは、村境の白杭が見えたころだった。

遠い歩雲群から、ナギの呼び声。

『カゲノハ村。今の返事』

アカリは薬箱を五回叩く。

「アカリ。村外初便。帰路。白杭まで二十七歩」

『先頭?』

「私」

その奥から、カナタの声。

『ついに俺の二歩目を歩いたか!』

アカリの足が止まる。

「何の?」

『俺が薬を届けた道の続き!』

「場所、二本上。村の外」

『近い!』

「橋も、受取人も違う」

『でも薬を届ける!』

「私の初便」

『俺の道の二歩目!』

「違う」

アカリの声は強くなかった。

それでも、歩雲群までまっすぐ届いた。

「私の一歩目」

返事がない。

遠い船で、ルゥが何か言う。

ナギは急かさない。

ザンバの低い咳。

『でも、俺が最初に――』

「ここには、いなかった」

アカリは村の外へ続く今の道を見る。

「作ったのは、セノとフィオと宿の人たち。受取人の返事を取ったのは私。最初に荷車を引いたのも私」

『俺が帰ったら――』

「そのとき歩けばいい」

『二歩目?』

「たぶん」

カナタの声が少し遠くなる。

『俺が二歩目』

嬉しそうではない。

言葉を口の中で転がすようだった。

「嫌?」

『……分からん』

「今の返事」

アカリは薬箱の札へ記す。

――カゲノハ村外定期便、第一便。

――先頭、アカリ。

――同行、セノ、フィオ。

――受取人、朝雫宿サナ。現在応答あり。

――第一歩号、現在応答あり。

――カナタ、自分が二歩目になることについて、分からない。

『そこまで書くのか!?』

「今の返事」

セノが笑う。

フィオは白杭を指した。

「村!」

「見えてる」

「先頭のまま帰る?」

「白杭まで」

「中へ入ったら?」

「今日の道を一番知ってる人」

白杭の向こうで、村の荷受け係が手を上げた。

アカリは荷車を止める。

受取返事を待つ。

五回。

今、ここ。

返事が来てから、最後の一歩を村へ戻した。

自分の配達路を始めた者が、戻る場所まで一人で決める必要はなかった。