第175話 第四章「先頭塔の食卓」前編
歩雲群には、八つの町がある。
けれど、八つの町が同じものを見ているわけではなかった。
第一歩号は修理のため、八番雲へ半日残ることになった。
カナタは弁償働き。
ルゥは船底修理。
ナギは六番雲との響路試験。
ザンバは監視。
「俺だけ仕事の名前がない!」
「弁償労働」とメグ。
「長い!」
言い争いながら、メグは八歩ごとに後ろを見た。先頭へ出たいのに、最後尾で七つの町を一度に見る癖は消えない。八番雲を離れる日、自分の代わりに誰が振り返るのか。チコへ教えようとすると、十歳の少女は落ちた靴へ勝手に新しい用途をつけ、説明の途中で走り出す。ホロは針の音だけで止める。
「後ろを見る役を一人へ渡すな」
老人は糸眼鏡を額へ上げた。
「見えた者が言う。受けた者が返す。お前が先へ出ても、町の目まで持っていくな」
メグは髪輪を八つ触り直した。先頭へ行く準備とは、後ろの仕事を捨てることではなく、複数へ渡すことらしい。
ザンバが言う。
「監視役」
「何をする!」
「お前を見ている」
「それ仕事か!?」
「被害を減らす」
「重要!」
「喜ぶな」とルゥ。
八番雲では、落ちてきた物を一度、持ち主の町ごとに分ける。
一番雲の箱。
二番雲の水筒。
三番雲の種。
四番雲の歯車。
五番雲の家具。
六番雲の鐘具。
七番雲の薬。
どこにも印がなければ、八番雲の棚へ置く。
「これ、何番?」
カナタが鍋蓋を持ち上げる。
「第一歩号」とメグ。
メグは落とし物札へ《第一歩号・持ち主あり・壊れ方多数》と書いた。カナタが「翼八枚」と付け足し、ルゥが線で消さず横へ《正式名称は別紙》と書く。
カナタは文字を読むと行を飛ばすため、札の線を指で走らせた。止まった線で本人も止まる。分からない字を勢いで決めようとしたところを、チコが「それは返すじゃなく残す」と直した。年下に教えられても、今回は笑って書き直す。壊した物の名を読むのも、弁償の一部だった。
「番号で!」
「船」
「八番雲に落ちてきた!」
「取りに来た人がいる」
「俺!」
「じゃあ返す」
「最初から俺の!」
カナタは落とし物の札を一枚ずつ読む練習もさせられた。
一。
二。
三。
数字は読める。
町名は、ルゥに教わる。
「四番雲」
「この字、鍋に似てる!」
「炉」
「やっぱり鍋!」
「工房!」
「広い鍋!」
ホロが、カナタへ靴底を投げる。
「運べ」
「どこへ!」
「四番雲」
「船で!」
「歩いて」
「七つ先!」
「弁償」
「船!」
「修理中」
「未踏路!」
「一番雲へ曲がる」
「長い!」
結局、カナタは雲と雲を結ぶ吊り橋を歩いた。
一つ前へ進むたび、町の役目が変わる。
七番雲では、リツが治療寝台を運ぶ。
「走らない」
「急いでる!」
「けが人は揺れる」
「俺が担ぐ!」
「もっと揺れる」
「なぜ!」
「走るから」
六番雲では、トウカが鐘を二種類に分けていた。
大きな槌は、先頭からの命令。
小さな槌は、各雲の現在。
ところが、命令鐘を鳴らすと、現在鐘も同じ音へ引かれる。
「糸を分ける」
ナギは鐘の根元へ、二つの点を置く。
「呼び声と返事を、同じ鐘へ重ねない」
「鐘が二倍要る」とトウカ。
「全部の雲に?」
「八つ」
「大きい」
「一つずつ」
「カナタみたい」
「違う」
二人の声が重なった。
五番雲では、イオが家々の戸を閉める。
歩鐘が鳴る前に、幼い子どもを床へ座らせる。
老人の杖へ紐を結ぶ。
鍋を棚へ戻す。
「一歩の前に、こんなにするのか」
カナタが訊く。
「一番雲は、足を上げるだけ」
イオが笑う。
「五番雲は、八百軒を座らせる」
「先頭より大変?」
「違う大変」
四番雲では、ガクが炉の火を弱める。
一歩の衝撃で、溶けた星根鋼がこぼれないように。
ルゥは第一歩号の修理を中断し、炉の歩幅調整へ首を突っ込んだ。
「この鉄板、八番雲の雲底にも使える」
「一番雲は重すぎるって返した」とガク。
「八番雲は軽すぎる」
「同じ板を?」
「厚さを変える」
「同じ設計じゃない」
「だから使える」
ガクは初めて笑った。
三番雲では、フウカが風見草を束ねる。
葉先は北。
根元は東。
「どっちへ進みたい?」とカナタ。
「草は進まない」
「じゃあ、何を言ってる?」
「上は北風。下は東根」
「二つ!」
「だから、一番雲へ両方送る」
「どっちを選ぶ?」
「先頭」
「自分では?」
「畑が落ちないほう」
「それが答えだろ!」
「三番雲の答え」
カナタは少し考える。
「歩雲群の答えじゃない?」
「ほかの雲は畑じゃない」
二番雲では、スイが水の底へ耳をつける。
水面は静か。
底だけが、北へ細く引かれている。
「新しい星根の水脈」
スイは言った。
「まだ遠い」
「未踏路で行く!」
「一番雲の星図は東」
「どっちも作る!」
「八雲が二つに裂ける」
「三番旗で会う!」
「根抜け野の中で?」
「会う場所を作る!」
「カナタ」
ルゥが後ろから襟を掴む。
「考える前に道を増やさない」
「選択肢!」
「重さ!」
一番雲へ戻るころ、カナタは八つの仕事の一部を見ていた。
全部ではない。
一番雲の観測台へ立つと、前方の星根だけが大きく見える。
後ろの町は、雲の影に隠れた。
カイラは一日中、観測鏡の前にいた。
星根のひび。
風の切れ目。
重さの薄い場所。
一呼吸ごとに変わる前方を読み続ける。
「休まないのか」
ザンバが訊く。
「先頭が目を閉じれば、八雲が止まる」
「止まれない?」
「根抜け野の手前だ」
「その前は」
「次の根抜け野を読む」
「十二年?」
カイラは答えない。
右目の下に、深い影がある。
カナタは、初めて少しだけ迷った。
先頭は、好きなように道を決める場所ではない。
後ろの七つを、見えないまま背負う場所でもある。
「俺なら全部見る」
それでも言った。
「どうやって」とルゥ。
「船で往復する!」
「八雲が一歩踏むたび?」
「速く飛ぶ!」
「船が壊れる」
「直す!」
「私が!」
カイラは一度だけ、笑いかけた。
すぐ前へ顔を戻す。
「未踏路士」
「カナタ!」
「カナタ。先頭は、全員の違いを抱えたまま、一つの足を置く」
「おう」
「それを渡せと言うなら、次の者が同じ重さを持てると示せ」
カナタはメグの薄青い旗を思い出す。
七つの足跡。
空白の八つ目。
「俺が支える」
カイラの目が細くなる。
「それでは、先頭が増えるだけだ」
一番雲の食堂は、前を向いていた。
長い机。
椅子はすべて、観測窓の方向。
食事をしながら、星根の変化を見られるように。
「向かい合わないのか」
カナタが椅子を回そうとする。
床へ固定されていた。
「食べながら前を見る」とレン。
「話す相手は?」
「横」
「首が痛い!」
「慣れる」
カナタは椅子の上へ逆向きに座った。
四つ空席があったのに、カナタは最初の二口を立ったまま食べた。崖では迷わない少年が、穏やかな食卓で自分の席だけ決められない。ルゥは何も言わず、隣の椅子から工具箱をどける。
雲パンは冷めている。それでもカナタは息を吹いた。熱い薬粥で舌を焼いた幼い日の名残だ。レンが不思議そうに見て、同じように一度だけ吹き、硬さが変わらないことを確認した。
「意味ない」
「急がず食う意味がある!」
思いつきの言い訳だったが、右膝を休める数呼吸にはなった。
背もたれへ胸を当て、後ろの七雲を見る。
食堂中の人が振り向く。
「見えるぞ!」
「食べ方が違う」とレン。
「後ろが見える!」
「汁をこぼす」
そのとおりになった。
「熱い!」
「前を向け」とザンバ。
「お前まで!」
カイラは観測窓の端で、立ったまま食べていた。
硬い雲パン。
根菜の汁。
片手は紺旗から離さない。
右の白い靴は観測窓へ、左の黒い靴は後ろ七雲へ向けていた。左足首の三重布は汁で濡れ、踏み替えのたび緩んでいる。カイラは座ると立ち上がれないと思っているのか、頭席を一度も空けなかった。
食堂には空の椅子を置かない規則がある。先頭不在の形を作らないためだ。だから娘の席も、セトの席も保存されていない。失った人の場所を残さないことで前へ進んだつもりが、カイラ自身だけが十年前の立ち位置から動けなくなっていた。
メグは招かれていない。
八番雲へ戻っている。
「家族の食事は?」
カナタが訊く。
「仕事中だ」
「夜は?」
「歩鐘の間に寝る」
「メグと?」
「十年前から別の雲だ」
「会いに行かない?」
「歩頭長は先頭を離れない」
「一刻も?」
「一刻で星根は変わる」
カナタは雲パンを噛む。
硬い。
もう一度噛む。
まだ硬い。
「先頭のパンも重い!」
「乾いているだけ」とルゥ。
レンが地図を食卓へ置いた。
地図は折らず、細い筒へ丸めていた。レンは机まで二歩、三歩、五歩と素数で近づき、三案を並べる。
「東残照を継ぐ。北を試す。ここで一日待つ」
「三つ目もあるのか」とカナタ。
「選ばない案も、見えなくしない」
それでも最後には東へ指を置いた。褒められると靴先を机の下へ隠す少年が、カイラに選ばれたい気持ちと、選ばれたら七雲を消す恐れを同じ地図の下へ押し込んでいる。
東へ伸びる一本の線。
「根抜け野の出口」
「北は?」とナギ。
「確定していない」