第176話 第四章「先頭塔の食卓」後編

「二番雲と三番雲と八番雲が、北を出してる」

「水と風と後踏みの記録」

「今の記録」

「一番雲の星図にはない」

「星図は、いつの?」

「昨日」

「フウカが同じこと言ってた」

レンは眉を寄せる。

「歩雲群は、見えない根へ町ごと踏み出す。『あるかもしれない』では進めない」

「東は見える?」

「残照がある」

「続いてる?」

「未踏路でつなぐ」

「なら、今ある道じゃない」

ナギの声は静かだった。

レンは答えない。

カイラが代わりに言う。

「東は、過去に三度渡った道だ」

「北は?」

「誰も先頭で踏んでいない」

「だから、メグが踏みたい」

「だから、落とせない」

カイラの声が少しだけ硬くなる。

ザンバは汁椀を置く。

「誰も踏んでいない道を、未踏路士へ頼む」

「一番雲の前へだ」

「メグの前ではない」

「同じ歩雲群だ」

「同じなら、誰が先でもよいはずだ」

カイラの紺旗が、小さく震えた。

「違う」

「どこが」

「先頭は、落ちたとき最初に消える」

食堂の音が止まる。

レンも。

航路士たちも。

その言葉を、普段は口にしないらしい。

「だから私がいる」

「ずっと?」とカナタ。

「必要な限り」

「メグが必要だって言ったら?」

「娘の願いと、八雲の命は同じ重さではない」

「メグも八雲だ!」

カナタの声が食堂へ響く。

「八番雲も。チコも。ホロも。後ろから地図を送ってるやつも!」

「知っている」

「見えてない!」

カイラが初めてカナタへ正面を向く。

「見えないから、背負っている」

「背負えば見なくていいのか!」

「見て迷えば、足が止まる!」

叫んだ勢いでカイラは初めて後ろへ半身を向けた。左の星根鋼靴が床へ噛み、右足が追いつかない。視界が回り、汁椀へ手をつく。

十二年、前だけを見続けた身体は、振り返るだけで平衡を失った。

「歩頭長!」

レンが支えようとする。カイラは左手で拒み、右手で椀を立て直した。

「問題ない。観測窓の反射だ」

説明がすぐ長くなる。問題があると認めれば、先頭を離す話へつながるからだった。

「止まって聞けばいい!」

「八雲は空へ立っている!」

声がぶつかる。

カナタの白旗が光り。

カイラの紺旗も光る。

どちらも前へ一歩を置こうとする力。

ザンバの旗竿が、二本の間へ入った。

「食事中だ」

「止めるのか!」とカナタ。

「汁をこぼす」

「そこ!?」

「先頭の喧嘩で、食堂を落とすな」

ルゥがカナタの白旗を下げる。

ナギはカイラの紺旗へ耳を澄ます。

大きな一足跡の奥。

かすかに、別の音がある。

七つ。

引かれる音。

重い音。

「旗が、ずっと返事を待ってる」

「何の」とカイラ。

「次の先頭」

カイラの顔が固まる。

「聞き違いだ」

「今の音」

「十年前の残響だ」

「どっちか、確かめる」

「必要ない」

カイラは食事を終えた。

椀を棚へ置く。

「明朝、《踏み替えをしない接続試験》を行う」

「何だ、それ」とカナタ。

「一番雲を先頭のまま、八雲の負荷を未踏路へ移す」

「メグは?」

「後ろで支える」

「またか!」

「成功すれば、根抜け野を渡れる」

カイラは観測台へ戻る。

レンが地図を畳む。

「先頭を替えなくても、安全に進める」

カナタは窓の外を見る。

最後尾の八番雲は、雲の影に半分隠れていた。

《踏み替えをしない接続試験》は、名前のとおりだった。

先頭は替えない。

一番雲が一歩を踏む。

その足跡を、カナタの未踏路で広げる。

ルゥの継ぎ路で、八雲へ別々に渡す。

ナギの響路で、歩鐘をそろえる。

ザンバの岐点で、揺れた負荷を逃がす。

「俺たち、全員使う!」

カナタが胸を張る。

「使われる、ではなく手伝う」とルゥ。

「同じ!」

「違う!」

試験場は、八番雲の古い踏み替え円盤だった。

一番雲の足跡を模した大きな雲板。

後ろへ七枚。

メグは八枚目の前に立つ。

「私も踏む」

「後ろで」とカイラ。

「先頭を受け取る練習」

「しない試験だ」

「だから失敗する」

「始める」

カイラは聞かない。

紺旗を掲げる。

「一番雲、試験歩」

大きな足跡が光る。

カナタは白旗を突く。

「一番雲の前!」

一歩分の光板。

ルゥが八本の銀糸をつなぐ。

「同じにしない! 重さだけ渡す!」

ナギは八つの小鐘を円へ置く。

「一番雲!」

大きな一音。

「二番雲!」

水を含む音。

「三番雲!」

草の擦れ。

一つずつ返事を取る。

カイラが眉を寄せる。

「そろえろ」

「今の音を残す」

「歩調がずれる」

「返事のあと、合図を出す」

ナギは八つすべてを聞く。

最後に、一つの出発音を鳴らした。

「今!」

八枚の雲板が踏まれる。

一番目。

二番。

最後の八番は、少し北へずれた。

「違う場所!」とカイラ。

「今の八番雲は、そこへ踏む」とメグ。

円盤は揺れたが、割れない。

一歩目は成功した。

成功の直後、四人の身体は別々に遅れを出した。

カナタの右膝は一歩目の衝撃を残し、二歩目へ出る足が普段より半拍遅い。ルゥは八本の銀糸を支えた左手を開けず、指を一本ずつ右手で伸ばした。ナギは八音の余韻が視界へ白い輪となって残り、左耳栓を交換する。ザンバは椅子を半指だけ後ろへ引いた。幻肢痛が強いときの合図だった。

「記録」とナギ。

「次」とカイラ。

二つの声が重なる。成功を誰のものにするかより、成功のあとに何が壊れたかを見なければ、同じ一歩を続けられない。

「次!」

カイラはすぐに二歩目を命じる。

「待って」とナギ。

「一歩の記録を取る」

「根抜け野では待てない」

「だから練習で取る」

「次!」

紺旗が光る。

一番雲の大きな足跡が、二歩目へ進む。

ほかの七枚も引かれる。

メグは八番目の板を踏み止めた。

「まだ!」

「離せ!」

「今の足跡を渡してない!」

二歩目の重さが、一歩目へ重なる。

ルゥの銀糸が軋む。

「カイラ! 一度切って!」

「切れば試験が終わる!」

「一歩目は終わった!」

「道は続く!」

カイラは旗を離さない。

メグも板を離さない。

二つの重さが同じ場所へ入る。

ばきん。

古い踏み替え円盤に亀裂が走った。

十年前の傷と同じ形。

メグの顔が青ざめる。

カイラの手も震えた。

メグは髪輪を後ろから数えた。五つ目で順番を間違え、最初から触り直す。父の事故と同じ亀裂を見た瞬間、名を呼べなくなっていた。

カイラは左手で紺旗を握っている。怒りと恐怖が強い証拠だ。左足首の布がほどけ、黒い靴の下へ血が滲んでも、先頭塔の公用口調を崩さない。

「損傷範囲は中央円盤三割。継続試験に必要な補修は――」

「母さん」

メグの一語で説明が止まる。

二人とも相手を落としたくない。だからこそ、渡す前にも、受け取る前にも手を戻した。亀裂は敵意ではなく、同じ恐怖が同じ場所へ重なった形だった。

「止める!」

カナタが終路鐘の小旗を出す。

「誰の区間!」とルゥ。

「試験!」

「広すぎる!」

「一歩目!」

「カイラとメグ、両方が終わりを選ばないと鳴らない!」

「二人とも!」

「終わってない!」

母娘の声が重なる。

終路の灯は光らない。

亀裂が広がる。

ザンバが灰旗を振った。

《岐点》

二つの重さの間へ、黒い点を置く。

カイラの一歩。

メグの一歩。

道が分かれる。

円盤の中央が二つに割れた。

一方は一番雲へ。

一方は八番雲へ。

壊れたが、落ちなかった。

試験は止まる。

長い沈黙。

「ほら」

カイラが言う。

「踏み替えれば、道が裂ける」

「違う」

メグは割れた円盤を見る。

「母さんが、私の一歩を終わらせなかった」

「お前が、先頭の歩調を止めた」

「二人とも」

ナギの声が入る。

「返事を聞かなかった」

カイラが振り向く。

「私は合図を出した」

「命令」

「メグは止まった」

「返事」

「従わなかった」

「だから、理由を聞く」

「根抜け野で、問答をする時間はない!」

「今、練習で聞かなかった」

ナギは割れた円盤へ、八つの音を順番に置く。

一番雲。

二番雲。

最後に八番雲。

八番目だけが、二歩目の前で止まっている。

「止まった音は、道を壊す音じゃない」

「何だ」

「まだ受け取ってない音」

メグは薄青い旗を握る。

「私、先頭を受け取るって言ってない」

「受け取りたいと言った」

「今の一歩では、言ってない」

カイラの口が閉じる。

先頭を渡すこと。

先頭を受け取ること。

どちらも、前に決めた一言だけでは足りない。

その時の返事がいる。

カナタは割れた円盤へ一歩近づく。

「じゃあ、聞けばよかった」

「誰が」とメグ。

「カイラが」

「カナタも」

「俺?」

「さっき、試験を終わらせようとした」

「落ちそうだった!」

「私の区間も、母さんの区間も聞かずに」

「助けるため!」

「勝手に終わらせるのも、勝手に始めるのと同じ」

カナタの胸へ、七番目の旗の教えが戻る。

歩いた者が決める。

終わりを外から置かない。

「難しい!」

「八番目だから」とナギ。

試験場の下で、古い傷が淡く光った。

十年前の足跡が、今の亀裂へ重なっている。

ルゥが銀鋲を当てた。

「記録が残ってる」

メグが顔を上げる。

「事故の?」

「下へ行けば、見られる」

カイラが即座に言った。

「触るな」

「どうして」

「終わった事故だ」

「終わってない」

メグは割れた円盤を指す。

「今も同じ割れ方をした」