第177話 第五章「十年前の二つの一歩」前編
八番雲の下へ降りる《踏み舟》は、船ではなかった。
細い板。
左右に白い雲袋。
袋から一呼吸ぶんの足場を吐き、雲の裏側を歩く。
「帆がない!」
カナタが乗る。
「飛ばないから」とメグ。
「落ちる?」
「歩く」
「俺たちと同じ!」
「あなたは飛空艇で歩いた」
「新しい!」
「事故」
ルゥとナギとザンバも乗る。
カイラは来なかった。
レンが代わりに、一番雲の記録官として同行する。
「勝手に改変するな」とレン。
「見るだけ」とルゥ。
「カナタは?」
「触らせない」と全員。
「信用がない!」
「実績」とザンバ。
踏み舟が雲の縁から下へ滑った。
八番雲の裏側には、町より大きな足跡があった。
白い雲底へ、金色の線が何本も残っている。
一番雲が踏んだ場所。
二番雲が少し右へ直した跡。
三番雲が沈みすぎて、左へ逃げた跡。
四番雲の重い工房が、深く刻んだ跡。
七つの足跡が重なり、八番雲の足元へ届く。
「同じ場所じゃない」
カナタが目を凝らす。
「前から見ると一列だぞ」
「一歩ごとに、少しずつずれてる」
メグは雲針を金線へ当てた。
足跡の残りが、薄青い糸になって浮かぶ。
「一番雲は古い星図を読む。二番雲は水の重さで根の深さを知る。三番雲は植物の向きで風を読む。後ろの雲ほど、前が見落としたものを直してる」
「じゃあ、最後が一番正しい?」
「全部正しい」
メグは七本のずれを、一本ずつ指した。
「最初の足跡がなければ、誰も根へ乗れない。でも、最初だけを踏み続けたら、五番雲から先は空へ落ちてた」
「一番雲は知らないのか」
「後ろを見ないから」
レンが反論する。
「後ろの修正は、先頭の足跡があって初めてできる」
「うん」とメグ。
「じゃあ、先頭が決める」
「最後まで?」
「次の足跡が出るまで」
「八番雲まで来たら、次は?」
レンは答えない。
踏み舟が雲底の奥へ進む。
白い洞窟。
天井には、何千日ぶんの足跡が層になっていた。
古いものは灰色。
新しいものは金。
十年前を境に、模様が変わっている。
それ以前。
八本の足跡は、螺旋を描いていた。
一番目が前へ。
二番目がその横へ。
三番目。
順番に位置を替え。
八番目の次は、また一番目の場所へ戻る。
閉じた円ではない。
少しずつ前へ進む螺旋。
「八番目の足跡が、一番目の隣にある」
カナタが言う。
「最後だからじゃない」
メグの声が柔らかくなる。
「次の最初になるため」
十年前より新しい層では、螺旋が消えていた。
一つの大きな足跡。
その中へ、残り七つが無理やり押し込まれている。
「《先歩》が順番を固定した跡」
ルゥが銀鋲を一本、古い螺旋へ触れさせる。
「《継ぎ路》」
銀糸が、切れた層を探る。
途中で二本に分かれた。
一方は、大きな一番の足跡。
もう一方は、薄青い八番の足跡。
二本は同じ場所へ向かい。
ぶつかっている。
「事故の記録?」
メグが身を乗り出す。
ナギは響皿を二つ置いた。
「音も分ける」
一番雲の記録。
八番雲の記録。
同じ事故を、別の場所から聞く。
ルゥが銀糸を引く。
古い景色が浮かんだ。
八つの歩雲。
踏み替え場。
若いカイラが、一番雲の先頭塔に立っている。
隣の八番雲には、一人の男。
薄青い旗。
八つの足跡が輪になった紋章。
「父さん」
メグの指が震える。
男――セトは、旗を掲げた。
記録のセトは、英雄らしい姿勢を長く保てなかった。雲錨へ結び目を七つ作り、八つ目だけを開けておく。メグの髪輪を数える癖の名残だと、ホロの記録にはある。
別の記録では、緊張すると輪番歌の一番だけを何度も歌い、二番を忘れた。カイラと口論した夜は、謝る代わりに二人分の靴を黙って磨く。メグの記憶には、硬い雲パンを汁へ落として毎回拾えなくなる父だった。
どの証言も少し違う。先頭交代を考えた賢者一人へ整えれば、怖くて失敗した男も、家族へ直接謝れなかった男も消える。ナギは三つの記録を同じ欄へまとめなかった。
『次は、八番雲!』
声の後ろで、金属が二度鳴った。セトがいつも腰へ下げていた小さな靴箱の留め具だ。交代が成功したら、八番雲の子どもたちへ「先頭用の靴なんてない」と見せる約束をしていたという。
カイラ側の公的記録には、その約束がない。代わりに《先頭移譲手順、予定どおり》とだけある。夫婦の生活と共同体の手続きは別の紙へ置かれ、事故のあと、片方だけが正史になった。
一番雲側の響皿から、大きな鐘。
『踏み替え開始』
八番雲側から、少し遅い返事。
『受け取る』
八番雲が前へ出る。
カイラの一番雲が、後ろへ下がりかける。
その瞬間、星根の足場が崩れた。
一番雲側。
『まだ私が支える!』
八番雲側。
『待って、今は二歩目へ――』
声が重なる。
カイラが紺旗を振る。
一番雲の足跡が、前へ戻る。
セトの足跡と同じ場所へ。
二つの先頭。
二つの重さ。
星根が左右へ裂けた。
景色が白く弾ける。
それでも音は少し続いた。
一番雲側。
『セト!』
八番雲側。
『先頭を――』
途切れる。
銀糸が切れた。
「母さんは、放してなかった」
メグが呟く。
「お前の父親も、二歩目を待たなかった」
ザンバが言った。
メグが睨む。
「父さんが悪いって?」
「二人とも、相手が支えると信じ切れなかった」
ザンバは灰旗を見る。
「渡す者は、落ちる前に手を戻した。受け取る者は、渡される前に次へ出た」
「だから、踏み替えが悪い?」とレン。
「違う」
ザンバは短く答えた。
「渡し切らず、受け取り切らなかった」
ナギは二つの響皿を見た。
「同じ時刻に、違う言葉があった」
「記録では、踏み替え失敗としかない」とレン。
「一つへまとめたから」
ナギは青い帳面へ、二列で書く。
――カイラ。支える。
――セト。受け取る。
――両者、同じ一歩へ入る。
――返事の時刻、一呼吸ずれ。
「一呼吸で、雲が落ちた」
「一呼吸を消したから、十二年同じことを続けた」
メグは古い足跡へ手を置く。
「母さんは、この記録を見てない」
「見たくないんだ」とレン。
「どうして分かる」
「一番雲の記録庫に、同じ皿がある」
「あるの?」
「封じてある」
レンの声が小さくなる。
「歩頭長は、毎年一度だけ前へ置く。開かない」
「前へ?」
「後ろには置けない」
カナタは足跡層の奥を見る。
薄青い線が、事故の場所からさらに北へ伸びていた。
「続きがある」
ルゥも気づく。
「八番雲の記録、ここで終わってない」
銀糸を伸ばす。
古い足跡の奥。
何か硬いものへ触れた。
金属音。
こん。
ナギが顔を上げる。
「返事」
「十年前の?」
「記録」
もう一度。
こん。
こん。
こん。
こん。
こん。
五つ。
今ここ。
足跡層のさらに奥に、誰かが残した場所の音があった。
五つの音をたどると、白い洞窟は北へ曲がった。
現在の歩雲群は東へ進んでいる。
古い足跡だけが、北を向く。
「メグの地図と同じ」
ルゥが言う。
「新しい星根の方向」
雲の層を三枚抜ける。
途中で一枚、十年前の裂け目がある。
その奥に、小さな踏み舟が挟まっていた。
板は半分割れ。
雲袋は空。
船首に、薄青い布。
舟の片側には、七つ結びの雲縄。八つ目は結ばれず、輪のまま残っていた。受け取る者が最後に締めるための空白だ。
座板の下から、乾いた雲豆が三粒、磨き布、片方だけの子ども靴が出た。英雄の遺品ではない。食べ忘れ、仲直りに使った布、成長して履けなくなったメグの靴。十年前の位置記録は返事をしないが、こうした物はセトが何を恐れ、何を持ち帰るつもりだったかを、互いに食い違う形で残している。
「父さんの」
メグは舟へ飛び移る。
板が軋む。
「待て!」
カナタが手を伸ばす。
「今、私が先!」
「落ちる!」
「踏み舟は私の町の道具!」
「でも!」
メグは一本ずつ、板の強さを確かめる。
一歩。
二歩。
自分で舟へ着く。
「来ていい」
カナタは口を開く。
少しだけ遅れて、踏み舟へ渡った。
二歩目。
胸の中で、言葉が引っかかる。
舟の底には、細い傷で地図が刻まれていた。
東の古い根。
北の新しい水脈。
八つの雲の足跡。
最後に、一行。
ルゥが読む。
「《先頭を渡したあと、後ろから全雲を確認》」
別の板。
「《受取返事を聞いてから、二歩目》」
さらに。
「《一歩目が崩れた場合、前任は戻らない。後続が支える》」
カナタが眉を寄せる。
「戻らない?」
「先頭を渡した人が、また前へ出ない」
「落ちそうでも?」
「二歩目の人が支える」
「間に合わなかったら?」
「三歩目」
「全部落ちたら?」
ザンバが答える。
「その道を選んだ者全員の失敗だ」
「重い!」
「一人で背負うよりはな」
踏み舟の中央に、小さな響箱がある。
ナギが蓋を開ける。
中には、五つの金属片。
一つずつ鳴らす。
セトの声が、途切れ途切れに戻った。
『八番雲、先頭受取』
『一番雲、返事を待て』
大きな衝撃。
『カイラ、戻るな』
『俺を支えるな』
最後。
『先頭を――放して』
五片目の金属は、それ以上の問いへ何も返さなかった。