第178話 第五章「十年前の二つの一歩」後編
ナギは別の言葉でも試した。名前。現在地。聞こえるか。音は同じ速さ、同じ息、同じ途切れ方で繰り返す。現在のセトがこちらを聞いている証拠にはならない。
メグが「もう一度」と言うたび、ナギは鳴らした。ただし帳面には《固定記録》と書き続ける。希望を消さないことと、記録を生者へすることは違う。
声はそこで終わる。
そのあと、別の音。
五つの打音。
今、ここ。
人の声ではない。
踏み舟が、最後に触れた場所を記録している。
「父さんは、ここまで来た」
メグは舟の縁へ手を置く。
「落ちたあと、北へ流された」
「生きてた?」とカナタ。
「分からない」
ナギはすぐに希望へ変えない。
「今の返事はない。十年前の位置記録」
メグは頷く。
悲しそうでも。
少し安心したようでもある。
「記録には、『踏み替えで消失』だけだった」
「ここまで歩いた」
ナギは帳面へ書く。
「そのあと、分からない」
「終わり?」
「決めない」
「七番目の旗なら?」
「歩いた人が置く」
カナタが暮色の小旗へ触れる。
セトは、終わりを置いていない。
だからといって、今も歩いていると決めることもできない。
分からないまま残す。
それも記録だった。
舟の下には、薄い星根の光がある。
北へ。
水のように細く。
「新しい根」
スイの言った水脈。
フウカの草が向いた風。
八番雲の地図。
三つが同じ場所へ集まる。
「一番雲へ知らせる!」
カナタが白旗を掲げる。
「待って」とナギ。
「何だ!」
「誰の発見?」
「俺たち!」
「最初に足跡を見つけたのは?」
「メグ」
「地図を残したのは?」
「セト」
「音を分けたのは?」
「ナギ!」
「つないだのは?」
「ルゥ!」
「道を守ったのは?」
「ザンバ!」
「俺は?」
「来た」
「少ない!」
「二歩目」
メグが言う。
「私が先に舟へ乗った。そのあと、来た」
カナタは胸を押さえる。
「また二歩目!」
「嫌?」
「……分からん!」
全員が少し笑った。
踏み舟の記録を、八番雲の名で送る。
ナギは最初にそう書いた。
――八番雲後踏み記録。
――記録者、メグ。
――十年前のセト踏み舟を確認。
――北方、新星根の現在反応あり。
「一番雲の地図にする?」とメグ。
「歩雲群の地図へ送る」
「そんな棚、ない」
「作る」
「誰が先に読む?」
ナギは少し考える。
「八雲、同時」
「できる?」
「一つずつなら」
「同時じゃない」
「同じ時刻に、違う音を八本」
「大きい」
「一つずつ作る」
今度はメグが笑った。
「カナタみたい」
「違う!」
踏み舟を引き出す。
舟はもう歩けない。
それでも、歩いた場所と、渡し方を残していた。
セトの踏み舟は、八番雲の踏み替え場へ置かれた。
カイラも来た。
人々が集まる前。
早い刻。
紺旗を肩へ置き、一人で舟を見る。
「十年前の記録」
ナギが響箱を差し出す。
「聞く?」
「必要ない」
「今、ここにある」
「事故の原因は踏み替えだ」
「二つの音がある」
「結果は一つ」
「だから、分けて聞く」
カイラはナギを見る。
「お前は、失った母を七年待ったと聞いた」
「うん」
「残響を、返事だと信じた」
「違う」
ナギは首を振る。
「信じたんじゃない。確かめたかった」
「同じだ」
「残響と今の返事を分けた」
「母は生きていた」
「生きてなくても、分ける」
ナギは響箱を舟の上へ置く。
「聞かないなら、聞かないって記録する」
「好きにしろ」
カイラは背を向ける。
向きを変えた途端、左足首が崩れ、紺旗の石突を床へついた。三重の布の一枚がほどけている。ナギが手を出すと、カイラは右手で拒み、左手で旗を握り直した。
「歩頭長の身体は、長期荷重へ適応している。急な解除はかえって危険で、これは通常の――」
訊かれていない説明が続く。怖いときほど口数が増える人だと、もう全員が知っていた。
「痛い?」とナギ。
カイラは答えず、靴紐の結び方を三種類説明した。答えないことも、今の返事として残った。
ザンバがその前へ立った。
「どけ」
「俺も、終わった道を一つへした」
「何の話だ」
「アステル」
カイラの足が止まる。
ザンバは灰旗を地面へつく。
白い記録光へ触れ、機巧腕の留め具が低く鳴った。幻肢痛が強い。ザンバは右腕で道を切った過去を話すとき、生身の左手を必ず空ける。謝罪を受け取ってもらえなくても、今日の仕事を受け取る手だけは残すためだ。
椅子を持ってこなかったため、背を預ける場所がない。立ったまま言葉を続ける男の右肩は、痛みでわずかに上がっていた。カイラには隠せても、同じく痛みを役目へ変えるルゥには分かった。
「俺は、自分が先へ行く道だけを残した。帰る道を、迷いと呼んだ」
「お前の過去は知っている。黒旗」
「なら、続きを知れ」
「聞く時間はない」
「十二年より短い」
ナギが少し笑う。
ザンバは続けた。
「先頭に立つ者は、後ろが自分を止めると思い始める」
「実際、止める」
「後ろにいる者は、先頭が自分を置いていくと思い始める」
「実際、遅れる」
「互いを、自分の道を邪魔する重さにする」
「なら、一人で持つ」
「俺もそうした」
灰色の布が揺れる。
黒い点。
七本の分岐。
すべて、誰かの選択を残した線。
「一人で持てば、落としたときも一人の責任だ」
「それが歩頭長だ」
「責任を持つことと、選択を独占することは違う」
「言葉ならな」
「アステルは、俺へ何も聞かず村を選んだ」
ザンバの声が低くなる。
「俺は長く、それを裏切りと呼んだ」
「今は?」
「聞かれなかったことは、今も怒っている」
「許していない?」
「許す相手は死んだ」
「なら、何が変わった」
「俺の怒りと、アステルの選んだ道を、同じにしなくなった」
カイラはセトの踏み舟を見る。
「セトは、私に放せと言った」
「記録にある」
「放していれば、助かったかもしれない」
「落ちたかもしれん」
「だから、もう放さない」
「結果を知っている道だけを歩く?」
「八雲を落とさない」
「メグは?」
「落とさない」
「先頭に立たせないことで?」
「生きる」
「お前の後ろで、八番雲から削れながら」
カイラの拳が握られる。
「それでも生きる」
「その答えを、メグに聞いたか」
「娘は危険を知らない」
「知っている」
メグが踏み替え場の入口に立っていた。
薄青い旗。
セトの古い布を腕へ巻いている。
「毎日、父さんが落ちた足跡を踏んでる」
「戻れ」
「今、私の返事を聞いて」
「仕事中だ」
「母さん」
「歩頭長だ」
「じゃあ、歩頭長へ」
メグは一歩近づく。
「八番雲は、先頭を受け取りたい」
「却下する」
「理由は?」
「危険」
「一番雲も危険」
「私がいる」
「十二年、母さんだけがいる」
「それで落ちなかった」
「八番雲は、消えかけてる」
「補修する」
「後ろのまま?」
「安全な位置で」
「私の返事を、母さんの答えへ直さないで」
カイラの目が揺れる。
ナギは響箱を鳴らさない。
今の声を、記録の声で上書きしない。
長い沈黙。
「根抜け野を越えたあと」
カイラが言う。
「考える」
「今、先頭が要る」
「だから私がいる」
会話は同じ場所へ戻る。
カイラは歩頭塔へ帰る。
メグは追わない。
「聞いた?」
カナタがナギへ小声で訊く。
「聞こえた」
「返事は?」
「却下」
「違うだろ!」
「今の返事」
「じゃあ、どうする!」
「次を聞く」
「同じ答えなら?」
「同じだったと残す」
「遅い!」
「勝手に変えるより早い」
カナタは歩頭塔を見る。
先頭を渡せない人。
その後ろで、先頭を受け取りたい人。
どちらも、相手を失いたくなかった。
メグは、先頭になりたい理由を一つしか言わなかった。
自分の一歩で始めたい。
けれど、理由は一つではなかった。
八番雲の靴箱で、ホロが古い型紙を広げる。
十年前の輪番用。
八つの足形。
大きさも向きも違う。
「父さんが作った?」とメグ。
「半分」
ホロは自分の胸を指す。
「半分は俺」
「じゃあ、先頭用の靴を作れる?」
「足を見れば」
「八番雲の」
「雲の足は、毎日変わる」
「だから毎日見る」
メグは自分の薄青い旗を台へ置く。
「私は父さんの代わりじゃない」
「知っている」
「母さんは、同じ落ち方をすると思ってる」
「お前も思ってる」
「私が?」
「父親と違うと証明したがっている」
メグは口を閉じる。
ホロは足形を一枚ずつ重ねる。
「先頭を受け取るのは、父親の続きを歩くためか」
「八番雲のため」
「お前のためは?」
「……前を見たい」
「それでいい」
「いいの?」
「役目は、欲しい者が欲しいと言わなければ渡らん」
チコが拾い網を持って入ってくる。
「私は後ろがいい」
「どうして?」とカナタ。
「落ちた人を取る」
「先頭なら落ちない道を作れる!」
「落ちる人は、前だけじゃない」
「じゃあ、八番雲が先頭になったら?」
「一番雲が最後尾になる」
「拾える?」
チコは考える。
考えるあいだ、曲がりきらない左薬指で網の結び目を三度確かめた。
「カイラへ教える。でも、私の網をそのまま渡さない」
「何で?」
「大人の手だと大きい。落ちた子の腕を締める」