第180話 第六章「先頭を受け取りたい人」後編
その途中、遠い連標網の端が小さく鳴った。
カゲノハ村。
『アカリ。村外初便、受取完了。帰路』
トウカが一番雲の報告へ混ぜかける。
ナギは別の小鈴を差し出した。
「それは、カゲノハ村の現在」
「歩雲群の判断には使わない?」
「今は使わない。でも消さない」
小鈴へ、アカリの便だけを入れる。
次に必要な相手が、名前を呼べるように。
八本の鐘と、遠い一つの鈴が、違う音で残った。
連標網は一本の声にはならなかった。
だから、誰の返事も、ほかの誰かの了解へ書き換えられなかった。
八つの現在路が開いて、三刻。
歩雲群の音は、にぎやかになった。
一番雲から命令。
二番雲から水脈。
三番雲から風。
四番雲から荷重。
五番雲から生活区の準備。
六番雲から伝令。
七番雲から治療状況。
八番雲から後踏み地図。
「うるさい!」
カナタが両耳を押さえる。
「返事が増えたぞ!」
「聞くって言ったでしょ」とナギ。
「全部同時!」
「同時に聞こえてただけ。前は一つに潰れてた」
「まとめよう!」
「何を残す?」
「大事なやつ!」
「誰にとって?」
「……全部大事!」
「じゃあ分ける」
「難しい!」
ナギとトウカは、音を八枚の薄い鐘板へ分けた。
今すぐ先頭へ送るもの。
次の歩鐘までに読むもの。
根抜け野を越えたあとでもよいもの。
どれにも、送った者の名を残す。
作業は便利になったが、身体は便利にならなかった。
ナギは一度に六音を越えると金属味が強くなり、トウカへ二枚を渡す。ルゥは分類板の留め具を右手だけで締め、痛む左手を工具帯へ隠した。カナタは「全部大事」と言ったあと、本当に全部を抱えようとして右膝をかばう。ザンバは分岐札を右腕で切り、生身の左手で受領札を受け取った。
誰かの特技を制度へするとき、限界まで本人へ付属させれば、新しい先頭が一人増えるだけだ。八枚の鐘板には、担当者だけでなく代行者と休止条件も書き足された。
レンは一番雲で、初めて修正図を分類していた。
カイラは観測台から動かない。
それでも、北の水脈と風見草の記録を、机の端へ置いた。
東の残照図の隣。
一つへ重ねない。
「読んだ?」
メグが響路で訊く。
『受け取った』
カイラの返事。
「読んだ?」
長い沈黙。
『今、読む』
メグは少しだけ笑った。
そのとき。
一番雲の歩鐘が、予定より早く鳴った。
どおん――。
二番雲がまだ準備を終えていない。
貯雨槽の栓が半分。
三番雲の畑では、子どもが道を渡っている。
五番雲の戸も開いたまま。
「誰が鳴らした!」
トウカが命令鐘を見る。
槌は動いていない。
音は、地面から来ていた。
白い雲底へ、妙な跡が浮いていた。
大きな前足跡が一つ。その後ろに細い七本の擦れ跡。前足の爪には、小石が七つ並べられ、空いた八つ目の場所へ来た石だけが毎回砕かれている。
ナギが近づけた鈴は、八拍目だけ音を失った。メグは「獣の足跡」と言いかけ、首を振る。まだ姿はない。だが歩雲群の《先頭》を示す札、命令鐘の煤、同じ場所を踏んだ雲粉だけが、一つの匂いへ集められていた。
何かが、人間の思想ではなく、先頭へ濃く残る標力の匂いを餌として育っている。
星根。
歩雲群の下で、白い根が大きく軋む。
ごごごごご――。
東へ伸びていた残照に、黒い亀裂。
「根抜け野!」
レンの声が全雲へ飛ぶ。
『予定より一日早い!』
一番雲の右歩脚が沈んだ。
灰色の雲が、星のない空へ落ちていく。
カイラの紺旗が光る。
『全雲、歩調維持!』
「止まって!」
ナギが響路へ叫ぶ。
『二番雲、準備未了!』とスイ。
『三番雲、通路に七人!』とフウカ。
『五番雲、戸閉め半分!』とイオ。
『七番雲、治療寝台二十七台未固定!』とリツ。
違う返事が一斉に来る。
カイラの命令は変わらない。
『止まれば一番雲が落ちる! 後方、歩調維持!』
「一番雲、現在地!」
ナギが呼ぶ。
返事はない。
「カイラ!」
『先頭塔!』
「行き先!」
『東残照!』
「先頭!」
『私だ!』
「受け取る人!」
沈黙。
メグが叫ぶ。
「私!」
『許可しない!』
「受取返事は、私の返事!」
星根がさらに裂ける。
一番雲の町が傾く。
観測塔の窓が割れ、地図が空へ舞う。
東残照図。
北の水脈図。
八番雲の後踏み地図。
別々の紙が、同じ空へ散った。
「第一歩号、出る!」
カナタが船首へ飛び乗る。
「修理は?」
ルゥが操舵輪へ走る。
「終わった?」
「船底三割、雲!」
「歩ける!」
「飛ぶの!」
ナギは響路台を甲板へ固定する。
八本の現在鈴。
トウカへ一つ。
メグへ一つ。
カイラへ一つ。
「船長!」
「船首!」
「航路機巧師!」
「操舵輪!」
「監視役!」
「船尾」
「響路士!」
「ここ!」
船腹を五回叩く。
こん。
こん。
こん。
こん。
こん。
「第一歩号、現在!」
朝火炉へ火が入る。
雲綿が爆発した。
第一歩号は靴板を六枚、門の柱を一本、弁償板を一枚つけたまま浮く。
「弁償板!」
メグが追う。
「あとで返す!」
「数字が増える!」
「今は乗れ!」
カナタが手を伸ばす。
メグは一瞬だけ迷い、掴んだ。
第一歩号が七つの雲の上を飛ぶ。
下では、町の人々が橋へしがみついている。
畑が傾き。
水塔が倒れ。
治療所の寝台が空へ滑る。
ルゥは銀鋲を投げた。
「《継ぎ路》!」
寝台と七番雲。
水塔と二番雲。
切れかけた橋と、それぞれの町。
必要な場所だけを縫い止める。
「全部の雲は、まだつながない!」
『なぜだ!』
カイラの声。
「今つないだら、一番雲の落下まで共有する!」
『では、先頭の足場を!』
カナタは白旗を抜いた。
根抜け野。
星のない黒い空。
東へ伸びる古い根の残照。
北には、まだ見えない新しい脈。
「どっち!」
ルゥが叫ぶ。
「一番雲が落ちる!」
「行き先!」
「東!」
メグが腕を掴む。
「北!」
二つの声。
カナタの白旗が揺れる。
「今は、一番雲の前!」
旗を突く。
「標術――《未踏路》!」
一枚の巨大な光板が生まれた。
歩雲一つを載せられる大きさ。
一番雲が折れた右歩脚を乗せる。
沈みかけた町が持ち上がった。
「できた!」
歓声が雲群へ走る。
メグだけが、白い板の向きを見ていた。
東。
古い残照へ。
「また、母さんの前」
カナタは聞こえないふりをしなかった。
「今は助ける!」
「そのあと?」
「そのあと考える!」
根抜け野の空が、さらに広がった。
一番雲は、半分だけ空へ残っていた。
右歩脚を失い。
町の東側が根抜け野へ沈み。
左歩脚一本で、かろうじて星根の端へ立っている。
後ろの七雲をつなぐ光索が、すべて一番雲の塔へ集まっていた。
「索を切れ!」
ルゥが叫ぶ。
「引かれて全雲が落ちる!」
『切れば一番雲が落ちる!』
カイラの声が、先頭塔から響く。
紺旗を両手で握り、折れた歩脚の前に立っている。
『後方、歩調を止めるな!』
一番雲が片脚で一歩を踏む。
どおん――。
二番雲が引かれる。
三番。
四番。
八番雲の町が大きく前へ滑った。
「各雲、現在!」
ナギが鈴を鳴らす。
『二番雲、水塔一基破損!』
『三番雲、畑区画三列傾斜!』
『四番雲、炉を停止!』
『五番雲、家屋十六軒未固定!』
『六番雲、現在路維持!』
『七番雲、負傷者三十一!』
『八番雲、後縁一枝里欠損!』
声が違う。
痛みも違う。
それでも、光索はすべて一番雲の足跡へ引く。
「カナタ、板を一枚ずつ分けて!」
ルゥが銀糸を白旗へ巻く。
「分けたら歩調が乱れる!」
『乱すな!』
カイラは紺旗を塔へ突き立てた。
「先頭が支える!」
旗の大きな足跡が、暗く光る。
「標術奥義――《万歩先負》!」
七本の光索が太くなる。
二番雲の重さが、一番雲へ流れた。
三番。
四番。
最後に八番雲。
七つの雲が少し軽くなる。
一番雲の雲底が、黒く沈んだ。
カイラの両脚が塔の床へめり込む。
「母さん!」
『下がれ、メグ!』
「一人で持たないで!」
『私の役目だ!』
一番雲が未踏路へ一歩を踏む。
足跡が深く刻まれた。
その穴へ、二番雲の足跡が入る。
三番。
四番。
八つの足跡が、完全に一つへ重なった。
ナギの八本の鈴も、一つの大音へ引かれる。
「違う!」
両手で押さえる。
トウカが六番雲から支える。
『現在路を離さない!』
「一番雲!」
ナギが呼ぶ。
『ここだ!』
「二番雲!」
『ここ!』
「三番――」
声が重なる。
一つの低い唸りに変わる。
光板の下から、白い雲が盛り上がった。
最初は、一つの背中だった。
町より大きい。
一番雲の下へ張りつき、七雲分の重さを受けて膨らんでいく。
背中から、脚が生えた。
一本目は巨大。
残り七本は細く折り畳まれ、最初の脚と同じ足跡へ押し込まれている。
頭には、前だけを見る一つの目。
口の中には、大きな足跡が一つ。
目は景色を見ていなかった。旗竿、番号札、先頭塔の靴底。誰が最初かを示す《先の匂い》だけを読む角膜だった。巨大な前脚の裏には、同じ足跡へ重ねられた雲粉が層になり、後脚七本には地面へ触れる爪がない。
八拍目の鐘が鳴るたび、喉の薄膜を閉じて音を食う。一から七までは次の一を大きくする餌。八だけは輪を閉じ、先頭を渡すため、噛み砕いて消す。
人を憎んでいるわけではない。固定された一番が濃い場所へ寄り、同じ歩幅の雲を巣材にし、後続の足跡を前脚へ吸収する。歩雲群が十二年かけて作った餌場へ、標災獣が適応した結果だった。
「標災」
ザンバが灰旗を抜く。
「《独歩獣ヒトアシ》」
「知ってるのか!」
「古い巡礼路で、似たものを見た」
「何をする!」
「先頭以外の足を奪う」
「奪った足は?」とメグ。
「腹へ畳む。次の前脚を太くする」